第39話 REAL・GENERATOR
その病院の一室は、柔らかな日差しに満たされていた。
窓辺から差し込む光は、午前と午後の境目を曖昧にするほど淡い色合いで、白壁に静かな影を落としている。
医療機器の作動音は最小限に抑えられ、規則正しい電子音だけが、この空間の現実味をそっと主張していた。
かつて耳を満たしていたのは、金属のぶつかる音や、魔力が爆ぜる轟音──
そして、死の気配を帯びた沈黙。
それらと比べれば、この部屋はどこか現実味に欠けるほど、穏やかな空気に包まれている。
ダンジョンの湿った冷気、あるいは闇に潜む不穏とは無縁の、清潔で暖かな空間だった。
白いシーツに包まれたベッドの上で、神崎零華は静かに横になっている。
赤銅色の髪をした少女、早乙女茜の治癒魔法と、天野悠人が後日生成したポーションの複合効果により、どうにか致命傷は免れた。
しかし、完全な回復を遂げるには、まだ時間が必要だと言われている。
神崎零華は、天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
肺に空気が満ち、それが吐き出されていく感覚を一つずつ確かめる。
生きているという事実を、こうして意識的に確認せねばならないほど、あの戦いは深く、重いものだった。
身体のあちこちに残る鈍い痛みは、失われかけた命の名残であり、同時に生還の証でもある。
零華はその目を閉じた。
深淵で交錯した魔力の奔流、肉を切り裂く刃の感触、限界を越えたあの瞬間。
記憶の空白が、次々と脳裏に蘇ってくる。
同時にそれらは、白い天井と消毒の匂いによって、柔らかく上書きされていった。
ここはもう、戦場ではない。
少なくとも今は、剣を握る必要などどこにもないのだ。
「──神崎。
入るぜ。」
不意にかけられた声が、思考を現実へと引き戻す。
病室の静けさを壊さないよう配慮された、控えめな扉の開閉音。
その響きと共に、悠人と異質な存在──
”リリス”が静かに病室へと入ってくる。
悠人の体には、まだ疲労が色濃く残っていた。
だが、その瞳にかつての焦燥や、データ依存の影は見当たらない。
長い戦いの末、その視線の奥には確かな芯のようなものが宿っていた。
立ち姿こそ万全とは言えないものの、その背中からは以前の頼りなさが消えている。
「マスター、報告します。
神崎零華さんは、三日前よりも20%その損傷を回復しています。」
セピア色の髪を揺らしながら、その”異物”は、室内にある全てを瞬時に解析していく。
視線が動くたび、目に見えない数値や情報が更新されているかのようだった。
この異物の存在自体が、現実と概念の狭間に立っている。
無駄のない動作で一歩前に進み、医療機器の配置や零華の状態を確認する様子は、感情を排した合理性そのものだった。
「リリスについては、早乙女茜から全て聞いている。
……お前の”概念の剣”とやらも。
あのダンジョンであの後起こったこと、全てな。」
意識を取り戻して報告を受けた直後は、理解するまでに時間を要した。
理論として把握することと、現実として受け入れることの間には、常に深い溝がある。
しかし今、目の前に存在する二つの証明が、その溝を否応なく埋めていた。
本当に、今まで見たことのない未知なる可能性の塊が、目の前で蠢いている。
「……天野悠人」
「──なんだ。」
悠人は神崎零華の瞳を、逃げることなく真っ直ぐに見つめ、向き合う。
データに逃げていたあの時の少年は、とうにいなくなっていた。
零華の口角が、自然と少し上がる。
「──お前のスキルは、もうただのデータ依存の代物ではない。
私が初めてお前に会った時、お前は私の剣技を模倣するためのデータとしてしか見ていなかった。
魂のない、偽物の創造だった。
……気に食わなかったよ。
下衆の目をしていたし、実際お前はパンツをラーニングした。」
「わお、それは初耳です。
マスター、どえっち、ですね♡」
「そ、それは悪かったって。
リリスも変なこと言うな!
わざとじゃないんだ。
そう、言っただろ……?」
「あぁ、分かってる。
冗談だ、冗談。」
「つまらない冗談ですね、神崎零華さん。」
「リリス!」
「……ふん、いい、ほっとけ。
──しかし、つい言ってしまうのがどうにかしてるな。」
「悪かったって!
ごめん。
ほら、この通りだ!」
悠人は手を合わせて頭を下げる。
「マスターは謝る必要なんてありません。
マスターは最高です。」
「し、リリスは静かにしてろ!」
「……」
「すみませんでした、神崎様!!
許してください!」
「……ふん。
とにかく、あのパンツは、安かったから買ったんだ!
か、勘違いするなよ!!」
悠人は顔を上げる。
なぜか彼女の白い肌が、みるみる真っ赤に染まっていくのが見えた。
「──わかってるよ。
別に、お前の意思で買っていたとしてもバカになんてしないさ。
ただ、珍しいと思っただけだよ。」
「……しかし、お前は深淵で限界を超えた。」
「え?」
零華は一呼吸置いた後、表情をいつもの凜としたものに戻す。
そして、再びぽつりぽつりと語り始めた。
(うわっ急に冷静になるなこの人……)
「私や早乙女茜から、”勝利への執念”を、”命を救う意志”を学び、生成の核とした。
お前が先の戦いで生成したもの──
リリスとあの剣は、ネクロスの原理、世界の概念すら超える。
お前のスキルは……
”本物”だ」
「……」
その言葉は、評価ではなく承認だった。
A級探索者からの言葉は、何よりも重い。
悠人が積み重ねてきた失敗、葛藤、恐怖──
それらすべてが、この一言によって報われたような感覚が胸に広がる。
零華の視線は揺るがない。
そこには同情も驕りもなく、ただ事実を事実として認める強さがあった。
「ネクロスからの連絡は、ダンジョンでの一件以来、一度も来ていない。
機構からは来ているものの、お前のことは把握していないようだ。」
「それはどういう──」
「機構の権力構造は複雑だということだよ。
とにかく、ご自慢の刺客が無力化されたんだ。
”ネクロス一派”の追跡は一時的に遠ざかるだろう。」
淡々とした報告の裏には、戦況を正確に読み解く冷静な判断があった。
これらの言葉を聞き、悠人は神崎零華が機構の人間であることを思い出す。
少し前までは何の関わりもなかった存在と、今では随分親密な関係になってしまったものだ。
零華の報告を受け、悠人は思わず笑みを浮かべる。
あの一件で、自分が機構に捕まることはないらしい。
「ただし、忘れないで。
組織の監視から完全には逃れることはできない。」
「……そうだな。
──だが、俺はもう、大半のことは怖くないぜ。
一人じゃないし!」
虚勢ではない確信がそこにはあった。
視線の端で、リリスの存在を感じる。
「──だから、あなたは私の庇護のもとでさらに強くなる必要がある」
「……え?」
「わ、私の連絡先よ!
これっ、持っておきなさい。
……無くしたら斬るから。」
神崎零華は、胸元からしわくちゃになった一枚の紙切れを取り出し、悠人に押し付けた。
折り目だらけの紙には、彼女のメールアドレスと思われる文字列がぐにゃぐにゃの字で書かれている。
「わかった。
ありがとう神崎。
A級探索者に鍛えてもらえるなんて嬉しいぜ。」
「……」
「マスター、どうやら彼女は嘘をついているようです。
彼女はただ連絡先を──」
「うるさいわよそこのAI!!
斬るわよ」
「ちょっ、神崎!?」
「今のあなたには武器がありません。
切れるものなら切ってみてください。
純粋に興味があります。」
「はぁっ!?
ちょっと何このAI!」
「リリス!?
待てって。
落ち着けって二人とも!!」
声が重なり、病室の静けさは一気に崩れ去った。
神崎零華は体を起こし、ベッドから出てリリスに掴みかかろうとする。
まだ本調子ではない体に無理がかかるのも構わず、感情のままに動いていた。
そんな零華を、悠人は慌てて引き留める。
騒がしくも慌ただしい状況。
しかしそれは、三人が確実に回復へと向かっている、何よりの証拠でもあった。
「みんな!」
病室の扉が勢いよく開け放たれる。
その扉を開けた人間──
早乙女茜へと、皆の視線が一斉に集まった。




