第27話 刺客
「やぁ、ラーニング・ゼロ。
調子はどうだい」
「……何の用でしょうか、ネクロス様」
探索者統制機構本部、最上階。
分厚い防音ガラスと魔力遮断結界に囲まれたその空間に、神崎零華は背筋を正して立っている。
机の向こう側に座るネクロスは、相変わらず感情の起伏を一切感じさせない眼差しで、彼女を見据えていた。
A級探索者にして、組織のエージェント“ラーニング・ゼロ”。
その名を与えられている神崎零華は、常に命令に従う立場にあった。
「──天野悠人に関する件だが、監視を継続してくれ」
低く、冷たい声だった。
「危険な兆候が確認された場合、即座に行動に移る。
特に、無機質な生成物ではない“生命体”を生成する兆しが見えた場合だ。
その時点で彼を確保し、研究施設へ移送する。これは組織の最優先事項とする」
「……了解」
零華は一瞬たりとも表情を崩さず、静かに応じる。
形式的な返答。
だがその胸の奥では、確かな違和感が広がっていた。
(は? 監視するだけ……?
何を考えているの。
今のままでいろっていう命令?
一体どういう意図が──)
密かに困惑する彼女を余所に、ネクロスは淡々と続ける。
「彼の能力は、すでに物質生成の域を超えつつある。
学習、解析、統合。
その速度と精度が異常だ。
もし生命や意思といった領域にまで踏み込めば、それは過去に世界を崩壊寸前まで追い込んだ“生成系能力”と同質のものになる」
零華は黙って耳を傾けながら、脳裏に悠人の姿を思い浮かべる。
ダンジョンで、訓練場で、剣を握りしめ、必死に食らいついてくる彼の姿を。
彼は非常に無機質な男だった。
だが、それでも、その動機は他の誰とも違っていた。
純粋に、大切な人のために努力し続ける意志。
その灯火だけは、今も彼の中から消えていない。
可能性が、彼にはあった。
「……今のところ、彼にそのような問題点は見当たりません。
引き続き、私に監視を続けさせてください。
責任は私が負います」
「あぁ、わかっている。
だから言っているだろう、“監視を続けろ”と。
情は不要だ」
「……では、なぜ改めて呼び出しを──」
「異常を確認次第、躊躇なく拘束しろということを、念のために伝えておきたくてね。
抵抗があれば無力化を許可する。
ただし、殺しはするなよ」
ネクロスの言葉に、内心が大きく揺れた。
執務室を辞した後、静かな廊下を一人、俯いて歩く。
足音がやけに大きく響いていた。
(生成物ではない生命体……)
ネクロスの言葉が、何度も頭の中で反芻される。
彼が何を考えているのか、相変わらず不明だった。
ただ一つ、彼が常に“論理”や“データ”に基づいて行動しているということだけは、長年の付き合いで理解している。
そのためなら、平気で人の心を殺すことも。
零華は、悠人がネクロスと同じような“怪物”になることを恐れていた。
ゆえに監視のついでに、本来は必要のない“指導”も行っている。
今一度、天野悠人のことを思い浮かべた。
彼は確かに危うい力を持っている。
まだ“データ”という概念に囚われ続けてもいる。
だが同時に、その根底に潜む彼の動機は、驚くほど単純で、純粋だった。
力を得たい。
守りたい人がいる。
自分の無力さを乗り越えたい。
たったそれだけだ。
今のところ、それが他人への物理的な危害となって現れている様子は確認できない。
(……彼は、データに溺れていても、力に溺れているわけじゃない)
少年が自分のスキルを楽な近道としてではなく、学ぶための手段として扱っていることを彼女は知っている。
彼の剣はまだ未熟だが、強くなろうとする姿勢自体には、確かな意志が宿っていた。
自身もまた、彼が生成した応用剣術の恩恵を受けている一人でもある。
(私は、彼に剣を教えている。
強さとは何か、戦う覚悟とは何かを。
───それなのに……
その私が、組織の言いなりの監視者であり、場合によっては彼の捕獲者になるというのか)
組織の一員としての義務。世界の秩序を守るという使命。
それらは表向きの綺麗事でしかない。ネクロスの恐ろしさを、“ラーニング・ゼロ”は誰よりも知っていた。
しかし、知っているのは彼が恐ろしい存在だということだけだ。
未だに彼が具体的に何を仕掛けてくるのか、その行動は全く読めない。
彼女はこれまで、中途半端に自分の“心”に従って生きてきた。
理屈に満ちたネクロスの命令に従いながらも、そこから逃れるように、“心”を拠り所にして剣術を磨いてきた。
彼の合理と理屈に支配された思考を読むことは困難で、そもそも理解したくもなかった。
先ほどネクロスは、引き続き監視しろと指示していた。
だが、いつ唐突に天野悠人という人間が彼の餌食になるのか、油断はできない。
わざわざ自分を呼びつけて改めて指示を下したということは、裏に何かがあるはずだ。
(天野悠人が、救いようのない碌でもない人間であったなら、どれほど楽だっただろうか)
廊下の突き当たりで、迷いを抱えたまま足を止める。
(私は監視を続ける。
評価も下す。
それが任務だ。
私は彼に逆らえない)
(だが……
その瞬間が来た時、私は本当に、迷わず彼に剣を向けられるのか?
自分で指導しておいて、天野悠人という今のところ善良な一人の人間に対して、理不尽な暴力を振るうことができるのか──?)
しばらく俯いたまま立ち尽くす。
ネクロスに幼い頃から植え付けられた“あるべきエージェントの姿”と、人として、剣士として抱く感情。
その狭間で揺れながら、再び静かに歩き出す。
答えはまだ、出ない。
◇
「ふっ──
ふっ──」
極秘命令を受けた後、重い足取りで探索者ギルドの訓練場へ戻る。
そこでは天野悠人が、汗だくになりながら黙々と素振りを繰り返していた。
その動きは、数週間前の素人とは比べものにならないほど洗練されている。
すでにF級はおろか、C級探索者の水準も明らかに超えていた。
だが同時に、あまりにも正確で、あまりにも無駄がなかった。
人が剣を振るう際に宿るはずの「迷い」や「癖」が一切ない。
まるで、最適解だけをなぞっているかのようだ。
零華の目には、それが積み重ねた経験ではなく、やはりデータを基準に動いている証拠に映った。
少しのアドリブを食らえばすぐに崩れる、脆い存在。
以前、手札の多さで戦うというアイデアを彼は見せたが、それはあくまで神崎零華に対する情報を握っていたからこそ成立した芸当なのだ。
(しかし、ネクロスの言う通りだな……
成長速度が異常すぎる。
このまま進めば、いずれ自分自身で制御できない領域に踏み込む。
悪用はしないだろうが、彼の純粋すぎる好奇心は止まらない。
遅かれ早かれ、彼は必ず“機構”と衝突することになる)
ようやく、ネクロスがなぜ“引き続き監視しろ”という命令を改めて下したのか、その意図が何となく予想できた。
(きっと、このままいけば遠からず、ただ監視しているだけでは済まない状況になると踏んだんだ。
私が彼を捕獲しなければならない状況に)
零華は、悠人への感情がいつの間にか「監視」ではなく「指導」へと変質している事実に、内心で驚きを感じていた。
同時に、胸の奥が締めつけられるような気分になる。
彼と過ごす中でその人柄は把握しており、特に人間として目立った問題がないことは明白だ。
彼の純粋な探究心も、幼馴染を守りたいという真っ直ぐな意志も、何ら変わってはいない。
(このまま上手く指導していけば、彼は社会に多大な貢献をする探索者になれるだろう。
だが、ネクロスに捕獲されれば最後、生きて日の光を見ることはもう叶わない)
無意識のうちに、自身の腕を強く握りしめる。
「……ふっ、“指導”か。
笑わせるなよ、このクズが」
鍛錬に励む悠人を余所に、訓練場の隅で思わずそう呟いた。
爪が深く手のひらに食い込み、そこからじわりと血が滲み出していた。
◇
「おい神崎、どうしたんだよその手。
血が出てるぞ」
今日の練習を終え、シャワーを浴びて着替えてきた悠人が、零華の出血に気づく。
白い湯気の残る通路に、二人分の足音だけが響いていた。
いつもなら軽口の一つも叩く場面だが、今日に限っては違った。
零華の表情は硬く、どこか切迫したものを帯びている。
「──天野、話がある」
「……話?
どうしたんだ、そんな真面目な顔して。
……というか、その手のひらはどうしたんだよ。
モンスターにでもやられたのか?」
彼女の手に走る細かな傷跡や、微かな震えが悠人の目に留まっていた。
一体彼女の身に何があったというのか、悠人は怪訝そうに尋ねる。
「……モンスターか。
まぁ、ある意味ではそうだな」
零華は一瞬だけ視線を逸らすと、短く息を吐いた。
「──気にするな。
そんなことより、次の“指導”についてだ」
「え?
あ、あぁ」
「次の指導は、C級ダンジョンで行う」
「──ダンジョンか。
……思えば久しぶりだな」
「実戦でしか得られない経験を、お前の中に刻み込む」
それは彼女なりの、最後にして最大の警告だった。
言葉の端々に、単なる訓練以上の重い意味を込める。
(命令を完全に無視することはできない。
でも……
彼を破滅させたくもない)
決断した。
悠人が「捕獲対象」として確定してしまう前に、組織の力に縛られないだけの実力を身につけさせる。
少なくとも、自分自身の手では捕らえきれないほどの実力を。
──命令に背く勇気のない、中途半端な自分から、彼が逃げ切れる程度の実力を。
「私の模倣はここで一旦終了だ。
……とにかく今は、できる限り強くなれ」
少年の瞳を改めて見つめる。
そこには相変わらず、膨大な情報が渦巻いているようだった。
「お前自身が気づいたように、お前の武器は『手数』だと私も思う。
これまでの指導でわかったが、お前がコピーした一つ一つの技術は、まだオリジナルには及ばない。
七、八割程度の出力でしか模倣できていないんだ。
だからとにかく“手札”を増やせ。
手数で圧倒する戦い方を突き詰めるんだ」
「わ、わかった──
……分かったけどよ。
──その、どうしたんだよ急に。そんな真剣な顔して」
ただならぬ雰囲気に悠人も何かを察したようで、戸惑いを隠せずにいた。
“その時”が確実に迫る中、最後となる「指導」の日々が始まろうとしている。
「──私はいつも真剣だ」
もはやそれは指導でも監視でもない。
彼女なりの保護であり、贖罪であった。
◇
翌日。
神崎零華と天野悠人は、C級ダンジョン『沈黙の回廊』の深層へと、早々に潜入を開始した。
分厚い岩壁に囲まれた回廊は、その名の通り不気味なほどに静まり返っている。
足音すら吸い込まれるように消え、反響することもない。
空気は重く、冷たく澱んでいた。
「さて、これは不要だな」
道中、零華は不意に足を止めると、自身の戦闘スーツの胸部に装着されていたボディカメラに手を伸ばした。
そして、迷いなく電源を落とす。
小さなランプが消え、稼働音が途絶えた。
「……あれ、何それ」
悠人は歩みを緩め、怪訝そうに彼女の手元を覗き込んだ。




