第14話 侵入者
男の身につけている衣服。
その右腕には、金糸で縁取られた豪奢な紋章が刺繍されていた。
見覚えのあるマークだ。
「ミーネス……?」
「おぉ?
よくわかったね。
ミーネス所属の、B級探索者様だよぉ」
「──そりゃ、有名ギルドさんだからな。
探索者で知らない方が珍しい。」
それは茜が内定をもらった著名ギルド、ミーネスの紋章だった。
疑問が次から次へと湧き出てくる。
なぜこんなところに男がいるのだ。
「……えと、すみません、ここは僕が予約していたはずなんですが──」
悠人は狼狽え、手つきがおぼつかないまま尻ポケットを弄り、クシャクシャになった予約票を取り出そうとする。
何かの手違い以外、理由は思いつかなかった。
瞬間、作動させ続けていたラーニング機能が、鼓膜を突き破らんばかりの警告音で攻撃を察知する。
「……!?」
何か投擲されたようだ。
悠人は反射的に重心を低くし、無様に地面を転がるようにして回避行動を取る。
直後、耳元を鋭い風が切り裂いた。
壁に突き刺さったそれは、影に隠れてよく見えない。
しかし、ラーニング機能が脳内に、それが冷酷な「刃物」であることを赤々と映し出していた。
投擲主は、前方の人間。
モンスターではない。
生身の人間が投げたものだった。
何かの冗談かと思いたかった。
だが、男の右腕はまだ標的に向けてしなやかに伸びきっており、攻撃を避けられたことに、露骨な驚愕を隠せずにいる。
「えぇ?
案外やるじゃ〜ん」
「な、何を──」
膝の震えが止まらない。
あれだけ茜に啖呵を切った熱量はどこへ消えたのか。
心臓が早鐘を打ち、肺の奥からせり上がるような恐怖が喉を締め上げる。
怪物が向けてくる本能的な殺意とは異なる、悪意に満ちた、粘着質な人間の殺意。
自分を殺そうと、同種である人間が、明確な意思を持って自分に殺意を向けている。
視界が歪み、熱い滴が頬を伝った。
情けない。
自分の精神は、これほどまでに薄氷のような虚弱であったのか。
「あかねちゃん、ギルドの内定、辞退しちゃったんだ。」
男は、まるで今日の天気を語るような軽さでポツリとこぼす。
「……は?」
「彼女は上玉だったから期待してたのに。
ほんとなら、彼女と一緒にダンジョンに潜って、色々と楽しいことできたのに。」
「な、何を言って──」
「君が心配だからって彼女はギルドに入るのを辞退しちゃったんだよ。
だからさ、君を殺しにきた。
そうすれば彼女もまた戻ってきてくれるでしょ?
戻ってこなくとも、とにかくイライラしてるんだよね、俺。
彼女は僕のものだから。
仕返しだよ。
罰だよこれは。
うん、罰。」
意味がわからなかった。
男の瞳は真っ直ぐに悠人の方を見つめている。
肌を刺すような理不尽な逆恨み。
男が発する狂気の圧力が、湿り気を帯びて周囲の空気を重くしていく。
「──犯罪。
──犯罪って言葉、知ってるよな……?
罪が軽いうちにやめといた方がいいぜ……」
「あははっ、大丈夫。
ダンジョン内は無法地帯だから。
ここで起こったことなんてぜ〜んぶ“事故”で処理される。
君はスライムになぶり殺しにされたことにでもしとくよ。」
「……そいつは随分と不名誉な死因だ──」
悠人がそう言い切る前に、視界の端でスキルが男の筋肉の収縮を検知した。
1秒も経つころには、眼前に銀色の死線が到達している。
男は、先ほどと同じ残酷な正確さで刃物を投擲してきた。
「っ」
咄嗟に頭を庇うように両腕を突き出す。
鈍い音と共に、鋼の冷たさが肉を裂き、骨に達する衝撃が走った。
「っ”あ"ぁッ”──」
脳を直接焼くような、鋭い激痛が両腕を駆け抜ける。
腕を動かそうとして動かなかった。
視線を落とせば、ナイフが重ねた両腕をまとめて貫通し、肉の枷となって串刺しに固定していた。
悠人は顔を歪め、脂汗を流しながら、無理やり手首を動かす。
痛い。
焼け火箸を押し当てられたような熱い痛みを放ち続ける刃物を、嗚咽を漏らしながら腕から引き抜いた。
ぼたぼたと、鉄の匂いを孕んだ赤い液体が、地面の乾いた土へ吸い込まれていく。
出血は止まる気配を見せず、静まり返った空間に不気味な水音を立てて広がっていた。
悠人は苦痛に体を捩らせ、背負っていたリュックを地面へ投げ出す。
震える指先で、命綱である治癒ポーションを探り当てようとした。
しかし、悠人の脳内では、すでにスキルが三度目の死の警告を鳴らしている。
「ぅぉおっ!!」
逃げ場のない焦燥の中、中身の詰まった重いリュックを盾にするように持ち上げた。
だが、貫かれた腕には力が入らない。
重力に逆らえずリュックが下がった隙間を縫い、冷徹な一撃が悠人の右肩へ深く沈み込んだ。
「ぁぐっ──」
冷たい。
氷を差し込まれたような感覚の直後、奔流のような熱が肩口から全身へ回る。
耐え難い激痛が神経を逆なでし、異物が体内に侵食しているという事実が理性を削り取っていく。
痛い。
痛い痛い痛い。
もう視界はチカチカと明滅し、頭の中は膨れ上がる苦痛を押し込めるだけで精一杯だった。
四投目の予備動作。
分かってはいるが、指一本動かすたびに激痛が走り、体が石のように動かない。
痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い。
(……!
あった──!)
地面にぶちまけられたリュックの中身から、一つだけ転がった青い小瓶。
悠人は這いつくばりながら、感覚の消えかかった指でポーションの胴体を掴んだ。
右腕は完全に脱力し、冷たくなりつつある左手だけで、必死に小瓶を地面に固定し、蓋を抉り開けようとする。
「お〜い、必死すぎじゃ〜ん。」
「えっ──」
眼前から、救いの光《ポーションの瓶》が消えた。
(ない。どこにもない。
どこへ行った。)
無機質なブーツがポーションを蹴り飛ばしたのだ。
遠くの岩壁で、カランと虚しい音を立てて瓶が砕け、薬液が地面に滲みる音が聞こえる。
絶望に顔を上げると、男が笑みを浮かべながら自分のことを見下ろしていた。
逆光の中、短剣がゆらりと持ち上がり、悠人の顔面を狙って振り下ろされる。
ただ、とにかく痛い。
朦朧とする意識の中には、その支配的な感覚しかなかった。
死ぬ──
「よせ。
さもないとお前の首を刎ねる。」
突如、凛とした氷の刃のような声が通路に響き渡った。
終わるはずの痛みが、終わらない。
一瞬、これで楽になれると期待してしまった自分を、言いようのない羞恥が襲う。
「神崎──
零華──?」
男の背後、暗い通路の先から、現実離れした眩い光が差し込んでいた。
光を背負って立つ、一筋の影。
腰に差した刀の鞘が、わずかな光を反射して鈍く光る。
高く結い上げたポニーテール。
見紛うはずのない、冷徹なまでに美しい顔。
神崎零華が、そこに立っていた。
腕の痛みはまだ、拍動に合わせてズキズキと刻まれている。
その消えない苦痛こそが、目の前の光景が死の間際に見る夢幻ではないと証明していた。
「なん──」
「そいつは”機構”の監視対象だ。
お前如きが殺していい代物ではない。」
「……へぇ、なら尚更殺さないと。
しかし君ぃ、神崎零華じゃ〜ん。
なんでこんなとこいんのぉ?
だめじゃ〜ん?
勝手に予約中の他人のダンジョンはいってきちゃあ。」
「それはお前もだろう。
さっさと消えれば命だけは助けてやる。」
「う〜ん、嫌だよ。
だってこのままお前たちを生かして返したらぁ──
俺、罪に問われちゃあうっ!」
男の右腕が鞭のようにしなり、悠人の首筋をなぞるように横一文字に振られた。
しかし、悠人が覚悟した新たな痛みはやってこない。
現実という名の容赦ない苦痛は、依然として彼の体を繋ぎ止めていた。
閉じていた瞼をゆっくりと開けると、鼻先まで迫っていたはずの男の姿は消えている。
代わりに、凛冽な空気と、戦意による微かな熱気を孕んだ黒い装束が視界を占めた。
視線を上げると、至近距離に静かな闘志を宿した瞳がある。
神崎零華が、片足を上げた状態で立っていた。
刹那、背後で空気を引き裂くような衝撃音が轟く。
首を巡らせれば、ダンジョンの奥深くへと、不自然な角度で吹き飛ばされていく男の姿が見えた。
あの男だ。
神崎零華の高速の蹴りが、男を文字通り吹き飛ばしたようだ。
「がっ──
イッテェええなァアアアァ“ア”ァッ?」
男は骨が軋む音を立てながら、獣のような動きでゆらりと立ち上がる。
信じられない光景が、網膜に焼き付く。
同じ人間が放つものとは到底信じがたい、圧倒的な威圧感。
気迫。
神崎零華から立ち昇るそれは、これまで出会ったどの探索者とも、質の次元が明らかに異なっていた。
男が短剣を振り翳し、飛びかかってくる。
神崎零華もその腰に差している剣を抜くと、A級探索者と、B級探索者の戦闘が始まった。
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