第102話 零華のスキルー4
「これからは、私抜きで──」
その言葉は、研究所の冷たいコンクリートの壁に虚しく反響し、悠人の胸の奥へと鋭い楔のように打ち込まれる。
彼女の背中は、かつてないほどに小さく見えた。
しかし、岩のように強固な決意を宿して目の前に立ちはだかっている。
白衣の裾が、空調から吹き出す微かな風に揺れていた。
「S級探索者を目指すなり、なんなりしてくれ」
突き放すような物言い。
だが、その声の震えを隠すことはできていなかった。
神崎零華という一人の人間が、これまでの人生で積み上げてきた偽りの安寧を投げ打とうとしている。
今までことあるごとに強気で抵抗していた彼女が、すべてを差し出そうとしていた。
その自己犠牲の重みに、悠人は息をすることさえ忘れて彼女のことを見つめる。
彼女が選ぼうとしている道は、復讐というより破滅そのものだ。
それでも、彼女はその道を理解して選んでいる。
「……すまなかった」
零華は、深く頭を下げた。
視界から消えゆく銀色の髪が、蛍光灯の青白い光を反射して悲しく輝く。
謝罪の言葉は、誰に宛てたものなのか。
裏切らざるを得なかった仲間たちへか、それとも救えなかった自らの過去へか。
あるいは、これから自分が引き起こす「反逆」によって、さらなる混乱を生む未来への詫びだったのだろうか。
扉の向こうから、警告音が鳴り始める。
システムを強引に書き換えた代償が、赤い警告灯の点滅となって部屋全体をどす黒く染め上げていった。
異変に気づいた気配が、確実に近づいている。
廊下の向こう側で、重厚なブーツが床を叩く音が幾重にも重なり、金属的な機械の駆動音が不気味に響き渡っていた。
ネクロスの配下か、あるいは機構が誇る自動防衛システムか。
壁を伝う振動が、冷酷なカウントダウンのように悠人の足裏から伝わってきた。
「早く行け」
零華は、振り返らずに言う。
その手には、一本の刀が握られていた。
研究員としての白衣を脱ぎ捨てる間もなく、かつての「剣の女王」としての気迫をその身に纏わせる。
彼女の細い肩には、あまりにも重すぎる責任が乗せられていた。
彼女の足元の影が、床を流れる魔力と呼応して不気味に揺らめく。
その様子は、自らのすべてを燃料にして燃え上がろうとする、最後の灯火のようでもあった。
「私は、ここで時間を稼ぐ」
「神崎っ!」
悠人が声を枯らして叫ぶが、彼女は依然として振り向かない。
今ここで顔を見せてしまえば、張り詰めた決意の糸が切れてしまうことを恐れているかのようだった。
あるいは、罪人としての自分を見られたくないという、最後にして最大の意地だったのかもしれない。
彼女は今、自らの「死」をもって、悠人たちの「生」を確定させようとしていた。
「……行け。
これは、私が決めたことだ」
それ以上、言葉は交わせなかった。
ネクロスの理屈を内側から破壊し、その報いを受ける。
それが神崎零華という人間の選んだ「清算」の形だった。
迫り来る追手の足音が、扉のすぐ向こう側まで迫り、激しい金属音が鼓膜を震わせる。
「マスター、行きましょう。」
リリスが悠人の腕を強く引いた。
感情を排したようなリリスの瞳にも、言葉にできない複雑な色が混じっている。
彼女の冷徹な計算回路は、この状況で立ち止まることが零華の意志を無駄にする最大の大罪であることを弾き出していた。
茜は溢れ出る涙を拭うこともできず、杖を握りしめたまま、何度も零華の背中を振り返ろうとしていた。
悠人、茜、リリスは、警報が鳴り響く中、研究所の裏口から脱出する。
非常灯に照らされた通路を抜け、夜の外気へと飛び出した。
「くそっ──」
肺に流れ込んできたのは、研究所の薬品臭い空気とは異なる、夜の湿り気を帯びた生々しい大気の匂い。
だが、その自由の味はあまりにも苦く、鉄の味がした。
逃げ延びた喜びなど微塵もなく、ただ冷たい風が、失ったものの大きさをなぞるように体を吹き抜けていく。
背後で、激しい衝撃音が響いた。
重厚な壁が砕け、剣戟が火花を散らす。
何が起きているか、考えるまでもない。
一人で数多の追手と、そして恐らくは、あのS級探索者と対峙しているのだ。
理屈を捨て、ただ感情のままに道を切り拓こうとする一人の戦士の気迫が、夜の闇に吸い込まれていく。
その音が遠ざかるたびに、悠人の心は千々に引き裂かれた。
悠人たちは、無我夢中で走る。
足元がおぼつかないまま、ただひたすらに。
彼女が命を賭して作り出したこの「空白」を無駄にしないためにも。
街の明かりが遠く、空虚にまたたいていた。
かつて目指した「英雄」の住む世界は、これほどまでに醜く、不条理なものであった。
すでに時刻は夜。
あれからどのくらい時間が経ったのかはよくわからない。
研究所の中の時間は止まっていたかのようだった。
もしかすると、すでに気絶してから何日か経過しているのかもしれない。だが、そんなことは今はどうでも良かった。
身体は鉛のように重く、心臓は破裂しそうなほどに激動している。
◇
やがて、研究所から少し離れた場所、街外れの木々が生い茂る一角で、悠人たち三人は足を止めた。
追手の気配は、ひとまず途絶えている。
だが、勝利の予感など微塵もなかった。
ただ、冷たい静寂が降り積もっている。
悠人は、その場に崩れ落ちた。
膝が、地面と激突する。
湿った土の冷たさが膝を通して伝わり、全身の力が抜けていった。
満足に息を吸い込むことすらできない。
視界が歪み、世界がぐるぐると回る。
目の前の草木の輪郭さえも定まらないまま、ただ胸の奥から湧き上がる激しい悔恨の念に、悠人は押し潰されそうになっていた。
自分の体内にある魔力回路が、あまりの虚脱感に機能を停止しようとしている。
「やはり俺ではパーティーを守り抜けないのかっ……」
その声は、震えていた。
リアル生成AIスキルという万能の力を手にし、世界を書き換えることができると自惚れていた。
仲間と共に頂点へ行けると、ネクロスの不条理を打ち破れると、本気で信じていた。
だが、現実はどうだ。
結局は、仲間の深い痛みにも気づけず、その犠牲の上にしか、自分の命を繋ぎ止めることができなかった。
「結局、神崎は一人で抱え込んで──
俺は何にも助けてやれなかった。
あいつの希望になれなかったんだ」
手のひらで土を強く掴む。
爪の間に泥が入り込み、鈍い痛みが走っていた。
だが、それがかえって自分自身の無力さを際立たせる。
零華が語った壮絶な過去。
家族を奪い、自分自身を呪い続けた、あの孤独な年月。
その欠片さえも分かち合うことができなかった。
自分のことばかりで、気づくことすらできなかった。
自分の作り出した数多の概念の中に、一人の仲間を救うための「救済」の概念は一つも含まれていなかったのだ。
夜風が、木々を揺らした。
その音だけが、やけに大きく聞こえる。
ざわめく葉の音が、まるで自分を責め立てる嘲笑のように聞こえた。
茜のすすり泣く声も、リリスの静かな呼吸も、すべてが重い枷となって悠人の肩にのしかかる。
自分がリーダーだと言い張りながら、結局は誰かに守られているだけではないか。
リアル生成AIスキルによって物質や概念を作ることができても、一人の友人の心すら救えないのなら、この力に一体何の意味があるのか。
自分を信じてついてきてくれた仲間を、最悪の窮地に追い込み、さらに最悪の決断をさせてしまった。
ネクロスの理屈を憎みながら、結局はその理屈の範疇でしか足掻けなかった己の矮小さが、何よりも呪わしい。
結局天野悠人という人間は、スキルを手に入れただけの凡人にすぎない。
月明かりさえも届かない暗い森の奥。
逃げてきた先にあるのは、安息ではなく、絶望的なまでの欠落感だった。
失ったものの大きさと、取り返しのつかない決断の重さに、悠人はただただ打ちひしがれる。
ここからどう立ち上がるべきか。
どのような「未来」を生成すれば、この喪失感を埋めることができるのか。
今の悠人の脳内には、リアル生成AIのログも、勝利へのシミュレーションも、何一つ浮かんではこなかった。
悠人は、顔を伏せたまま、動くのをやめる。




