第101話 零華のスキルー3
研究所の静寂は、重かった。
白い壁に囲まれた拘束室。
悠人は、金属製のベッドに固定されたまま、天井を見つめていた。
視界を占めるのは、影一つ許さないほど均一に照らされた無機質な白。
そのあまりの白さは、網膜をじりじりと焼き、思考の輪郭さえもぼやけさせていく。
耳の奥では、施設を循環する空気の微かな駆動音と、自身の肺が虚しく空気を出し入れする音だけが、絶望的なリズムで繰り返されていた。
自由を奪われた四肢は、冷たい金属の感触を吸い込み、次第に自分自身の肉体ではないかのような感覚に陥っていく。
ネクロスの用意した「理屈の檻」は、肉体だけでなく、精神の芯までも凍りつかせるほどに残酷だった。
(……今度は誰だ──?)
足音が近づいてくる。
静寂を切り裂く、硬い靴音。
カツン、カツンと一定の周期で響くその音は、死刑執行人が歩み寄る足音のようでもあり、運命の歯車が回り出す前奏曲のようでもあった。
悠人は動かない身体で、ただその音が近づくのを待つしかない。
胸の奥では、裏切りと情愛が複雑に絡み合い、呼吸を苦しくさせていた。
扉が開き、神崎零華が姿を現す。
その手には、研究所の管理端末のようなものが見えた。
先ほどまで纏っていた白衣は、心なしか零華の細い肩を重く沈ませているように思える。
「何しにきたんだ……」
蛍光灯の光を反射する端末の画面が、零華の横顔を青白く照らし出していた。
その表情には、もはや迷いも躊躇もない。
ただ、深い夜の底に沈んだような、静謐で峻烈な決意だけが瞳の奥に宿っている。
「……時間がないわ」
零華は、悠人のそばに立った。
その声は、これまで以上に低く、そして震えている。
微かに震える指先が端末を操作するたび、電子音が冷たく室内を跳ねた。
悠人は、目の前に立つ人物の顔を、穴が開くほど見つめる。
数時間前に自分たちを裏切り、絶望の淵へと突き落とした相手。
だが、その強固な仮面の下で、どれほど悲痛な叫びを上げていたのかを、悠人は今さらながらに悟ろうとしていた。
「天野」
名を呼ばれ、悠人は視線を向ける。
零華は、しばらく黙ったまま、やがて、覚悟を決めたように口を開いた。
「──天野、私は親を殺した最低の人間だ……」
その瞳から、一筋の光がこぼれ落ちそうになるのを、彼女は強い瞬きで堪える。
唇を強く噛みしめ、血の気が引いた顔で、自らの魂を削り出すようにして言葉を紡ぎ出していた。
その言葉は、重く、はっきりと告げられる。
「幼い頃から奴の命令で色々やってきた。
それを隠して、今まで……
お前たちと、呑気に日常を楽しんでしまっていた」
告解。
あるいは、自分自身への断罪。
白一色の部屋の中に放たれたその独白は、悠人の鼓膜を直接揺さぶっていた。
それは、長い年月をかけて零華の内に積み重なり、化石のように固まってしまった罪の意識そのもの。
彼女の声は、懺悔の苦しみに耐えかねて、かすれ、震えていた。
共に食事を囲んだ時間。
共にダンジョンを駆けた日々。
彼女との過ごした日々が脳裏を駆け巡っていた。
悠人の胸が、締めつけられる。
言葉をかけようとしたが、喉が塞がったように動かない。
裏切られたという痛みよりも、それほどまでの過去をたった一人で背負い、ネクロスの監視下で呼吸をし続けてきた零華の絶望が、彼の心を埋め尽くしていた。
同い年の人間が学校にも通わずに、ネクロスの配下をやっているのは、深く考えずとも異様だ。
そもそも、生まれた時から彼の元にいたと言うことは、少なくとも十年以上、彼女は孤独にその過去を抱えながら生きてきたと言うことになる。
悠人たちが日々を過ごす中でも、零華はどれほど自分自身を呪っていたのだろうか。
彼女の異様なまでのストイックさがどこからくるのか、ようやく悠人は理解できた気がした。
「私は……
ずっと逃げ続けてきた。
ネクロスの理屈に従えば、生きていけると、そう信じ込んでいた」
「──仕方ないんじゃないのか。
お前一人に何ができたよ」
零華は、端末に視線を落とす。
ネクロスの言葉。
それは、罪人である零華にとって唯一の、猛毒を含んだ救いだった。
感情を殺し、彼の機械の一部となることで、自分という存在そのものを忘れ去りたかったのかもしれない。
だが、悠人たちという「例外」に出会ってしまったことで、その冷たい均衡は崩れ去ってしまっていた。
彼女の瞳には、かつての自分を否定し、今この瞬間にすべてを賭けようとする剥き出しの意志が灯っていた。
「でも……
これ以上は、できない。」
カチリ、と音が鳴る。
電子的な解除音が、世界の法則が反転する音のように響いた。
「なんだ。
何をするつもりだ」
「今回の一件は、私の復讐を実行に移すためのものだ。」
悠人の手首を固定していた拘束具が、外れる。
続いて、足首、そして首元。
肉体を束縛していた冷たい重圧が消失し、急激に血流が戻る感覚に襲われた。
痺れた手足に、熱い拍動が押し寄せる。
「安心しろ、お前たちを利用したが、本当は売ったわけではない。
ネクロスは道づれにする。
だから、改めて謝る。
私の──
私とネクロスの、くだらない関係に巻き込んでしまって。」
悠人は自身の腕を動かそうとした。
だが、指先はまだ自分の意志を完全には受け入れてくれず、ただ無様に床の上で震える。
感覚を取り戻した肌が、不快な痺れと熱を交互に訴えていた。
自由の代償としての痛みを突きつけてくる。
「どういうことだ─」
「茜とリリスも、待っていろ。
すぐ解放する」
彼女は、はっきりと言った。
迷いの消えたその声は、かつて悠人を助けるために剣を振るった時の、あの高潔な戦士のものに戻っている。
道連れとはどう言うことなのだろうか。
何であれ、ここで悠人たちを解放すると言うことは、ネクロスや風間次郎、強いては機構そのものを敵に回すことになるだろう。
それがどれほどの危険を伴うのか、彼女が一番理解しているはずだ。
「計画通り、私はお前たちを逃す。」
零華の言葉に、悠人は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「──お前たちが逃げ出せば、責任はネクロスのものになる。
……奴は、機構をクビになるだろう。
これが私の復讐の作戦だ。」
零華は淡々と、しかし確かな勝機を見据えたように告げた。
「奴は私を掌握していると勘違いしている。
こうしてまんまと、研究所の中にお前たちを招き入れた。」
それは、ネクロスの築き上げた完璧な管理という理屈を、内部からの崩壊という形で塗り替えるための、命懸けの策略。
自分の過去が暴かれ、すべてを失うことを代償に、ネクロスの失態も引き起こすことで、彼を道連れにする。
流石に捕らえた獲物を逃して仕舞えば、もうネクロスは後がないだろう。
少なくとも彼は気候の権力者の座から追われることになる。
その決断に、悠人は激しい目眩を覚えた。
彼女は自らの真実をネクロスの喉元に突きつけるナイフに変えようとしていたのだ。
支配という名の鎖を引きちぎり、その反動で自分が粉々になることも厭わないというのか。
目の前の零華は、死を待つ者のような悲壮感と、すべてを解き放った者のような神聖さを同時に纏っていた。
拘束が解けた悠人の手は、まだ重く、痺れていたが、何よりも重いのは彼女の言葉だ。
自分を守るために自らを破壊しようとする彼女に対し、悠人はどう応えればいいのか。
リアル生成AIスキルという力を持ちながら、目の前の一人の人間が背負う過去に、悠人はまだ触れることさえできていなかった。
彼は、解放されながらも唖然として動けず、言葉を失う。




