第100話 零華のスキルー2
「──私のスキルは、危険なのよ。
制御を失えば、周囲を巻き込む。」
冷え切った研究所の空気の中に、神崎零華の声が重く響き渡った。
白衣を纏ったその佇まいは、かつて共にダンジョンを駆けた際の頼もしさを削ぎ落としている。
ただ過酷な運命に耐え忍ぶ一人の人間としての弱さを、そこへ露呈させていた。
視線は床の一点を見つめたまま動かず、その瞳の奥には、何年もの間、決して消えることのなかった深い絶望の澱が溜まっている。
「──今は制御できる。
けど、幼い頃……
当然生まれたばかりの時、、私は、それを使いこなせなかった」
零華の声は、どこまでも淡々としていた。
だが、その奥には、抑え込まれた感情が確かに滲む。
「私は生まれた時から、スキルが発現していたんだ。
だから魔力も周囲の人間よりあって、こうやってスキルなしで生きてきても、A級探索者にはなれた。
……私は恵まれてはいたんだ──
スキルという名の才能には」
震えを必死に堪えようとする首元の緊張や、白衣の袖を強く握りしめる指先の白さが、言葉にできない苦悩を物語っていた。
無機質な壁に反響するその声は、まるで凍りついた記憶を一つずつ無理やり剥がし取っていくかのように見える。
悠人は、拘束されたまま、その告白を全身の細胞で受け止めていた。
というより、今の彼にはそれくらいしかできることはない。
「……私は───
生まれた時、このスキルで両親を殺したんだ。」
零華は静かに告げる。
静寂に包まれた部屋の中で、その言葉だけが異様な質量を持って空間を押し潰していた。
天井の照明がチカチカと不規則に瞬き、周囲の装置を流れる魔力の駆動音が、まるで断末魔の叫びのように鼓膜を打ち鳴らす。
「零華──
いい名前だろう。
ネクロスが代わりにつけてくれたんだ。
死んだ親に代わってな。
私に”華”などないが、その言葉の存在だけは、確かに名前として存在している」
茜が息を呑み、リリスが目を見開いた。
悠人の頭も、一瞬、真っ白になる。
なんとなく感じてはいた。
共に歩み、背中を預け合ってきた神崎零華という存在。
その凛とした強さの裏側に、過酷な道を歩んできたであろう形跡を、彼は察してはいた。
だが、これほどまでに暗く、救いのない深淵が広がっていようとは想像すらしていなかった。
心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響き、思考がバラバラに砕け散っている。
目の前の光景が現実感を失い、まるで悪い夢の中に放り込まれたような錯覚に陥る。
同時に、零華のスキルは、彼女の剣技に何の関係もないものだということも判明した。
つまり、彼女はスキル以外の方法で強くなるために、ただ純粋に剣を振るい続けていたのだ。
(思えば俺と同じ人間が、学校にも行かずに探索者やってるって、異常でしかないよな……)
敵と戦うたび、窮地に陥るたび、スキルという存在がちらついていたはずだ。
彼女はその度に、自らの忌まわしい過去を追体験していたのではないか。
そう思うと、胸が締め付けられるような激しい痛みに襲われた。
「警察よりも前に、ネクロスが現れたんだ。
ネクロスは私を危険因子ではなく、“才能”として見ていた。」
零華は、拳を強く握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、そこから生じる微かな痛みが、意識を辛うじて現実に繋ぎ止めているようだった。
差し伸べられたのは救いの手ではなく、利用価値という名の天秤。
ネクロスという男にとって、神崎零華の悲劇は単なる「有用なパラメータ」の発生に過ぎなかったようだ。
母親の肉片に塗れて産声を上げていた赤子に対し、ネクロスが向けたのは慈悲ではなく、冷徹な観察者の視線に他ならない。
その惨めな光景を想像するだけで、悠人は吐き気を催すほどの嫌悪感に襲われた。
「理屈による管理。
感情を排し、数値と命令だけで生きる日々。
……私は、それに従うことでしか、生き残れなかった」
悠人は、完全に言葉を失った。
機構のトップ探索者としての華々しい経歴。
冷徹で正確無比な戦闘スタイル。
それらすべては、自らの内に潜む過去を封じ込め、自分を拾った支配者の期待に応えるために無理やり塗り固められた仮面だったようだ。
零華という人間を構成するすべての要素が、ネクロスの手のひらの上で弄ばれていた事実に、悠人は激しい憤りと悲しみを覚える。
「だから……
私は、逆らえなかったのよ」
零華は、ようやく悠人の方へ視線を向ける。
その瞳は、涙を堪えるように潤んでいながらも、底知れぬ暗さを湛えていた。
かつて見たことのない、魂を抜き取られた抜け殻のような眼差しがそこにある。
「ネクロスに言われた。
“このことを公にする”と。
そうなれば、君たちは終わる。
私も終わる、と。」
その声が、わずかに震えていた。
「殺人経験のあるスキル保持者」として、神崎零華の過去が白日の下に晒されれば、その仲間である悠人たちもまた、機構の敵、社会の敵として抹殺される可能性は高い。
ネクロスは、零華の良心と、悠人たちへの情愛を人質に取っていたようだ。
世界を救うべき英雄が、実は人殺しであるというスキャンダルは、機構が民衆を扇動し、悠人たちを社会的に抹殺するには十分すぎる材料であった。
「……だから、お前たちを背後から撃つような真似をしてしまった。」
部屋に、重苦しい沈黙が落ちる。
白一色の空間に、零華の絶望だけが霧のように立ち込めていた。
拘束具の冷たさが、悠人の肌を強く突き刺している。
自由を奪われた身体。
力を奪われた精神。
信じていた絆さえも、ネクロスの理屈という名の暴力に屈してしまった。
悠人は、何か言おうとしたが言葉が見つからない。
怒りも、裏切られた痛みも確かに存在する。
しかし、これほど過酷な選択を突きつけられ、自分たちを裏切らざるを得なかった零華の心情を思えば、どんな言葉も軽薄に響く気がした。
それ以上に、神崎零華が一人で抱え込んできた時間の重さが、重く胸に残っている。
何年もの間、鏡を見るたびに自らの手を汚した記憶に苛まれ、ネクロスの顔を見るたびに隷属の事実を突きつけられてきた、その孤独。
パーティーリーダーである自分の無知が、何よりも呪わしかった。
スキルに恵まれた者でも、恵まれない人生が存在していたらしい。
「……ごめんなさい。」
零華は、深く頭を下げる。
白衣の裾が床に触れ、微かな衣擦れの音が寂しく響いた。
その謝罪は、一体誰に向けられたものだったのか。
悠人たちか、それとも死なせてしまった両親か、あるいは彼女自身か。
その小さな背中が、堪えきれない感情を隠すように細かく揺れている。
悠人は、拘束された手を伸ばして彼女に触れたいと願ったが、冷たい金属がそれを冷酷に拒んでいた。
「あなたたちと過ごした時間は……
新しかったわ」
その言葉を残すと、零華は背を向ける。
振り返ることなく、一歩一歩、自分から自分を切り離すようにして歩き出した。
その背中は、どんな強大な魔獣を相手にした時よりも小さく、脆く見える。
彼女の歩みが遠のくにつれ、室内の無機質な駆動音が再び主張し始め、現実の残酷さを際立たせていった。
扉が閉まり、再び研究所の静寂が戻る。
機械的な駆動音と、茜のすすり泣く声だけが部屋を満たしていた。
リリスは依然として無言のまま、冷徹な現実を分析し続けているようだ。
リリスの瞳には、感情を排した情報の羅列が流れているが、その奥にある僅かな震えを悠人は見逃していない。
拘束されたまま、悠人は天井を見つめる。
照明の光が、網膜を焼くように強く降り注いでいた。
──守ると、言ったのに。
──仲間として共に歩むと誓ったはずなのに。
何一つ、神崎零華の本当の苦しさに気づけていなかった。
彼女が一人で地獄を歩いている時、自分は隣でただ能天気に「未来」を語っていたのだ。
勝手に自分だけが前を向いていた。
思えば皆、それぞれ自分の過去が確かに存在しているのだ。
前を向くのに、それぞれ理由がいる。
悠人は自分だけスキルを手に入れ、あとは前を見て進むだけだと考えていた。
だが、周りにいた人間にもそれぞれ何か抱えているものがあって、同じ方向を見て、進める覚悟ができているわけではない。
自分の持っている生成スキルが、どれほど万能に見えようとも、仲間の心の痛みを一つも救えていなかった。
パーティーの実質的なリーダーとしてやってきたつもりだったが、自分のことしか見れていなかった。
突きつけられた事実に、悠人は深い無力感を味わう。
意識が、白く塗りつぶされていった。
身体の重みは消えず、心臓の鼓動はただ虚しく時を刻み続けている。
ここから抜け出す術は見えない。
未来を生成するための意志すらも、この白い壁の中に吸い込まれて消えていくようだ。
研究所の白い天井が、やけに遠くに感じられた。




