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21XX年、母になる痛みを失った世界で  作者: 風谷 華


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5. 交差する問い

 小さな講堂のような部屋には、十数人の参加者が集まっていた。

 スクリーンに映し出されたのは、ガラスのゆりかごの模式図と、「誰の子どもか?」というタイトル。


 壇上に立つ神崎という女性は、四十代くらいに見えた。落ち着いたグレーのスーツに、短く整えられた髪。

 彼女の声は、講義というより、静かな独り言のようだった。


「ガラスのゆりかごが社会に導入されてから、およそ三十年が経ちました。

 この間に、母子死亡率は劇的に低下し、女性のキャリア継続率は大きく上昇しました。

 数字の上では、これは成功と言っていいでしょう」


 スクリーンには、グラフが次々と現れては消える。

 私はあまりそれを追わずに、神崎の声だけを聞いていた。


「しかし、数字に現れない問いが、いくつも残されています。そのひとつが、『母性とは何か』『父性とは何か』という問いです。

 私たちは長いあいだ、『母性は自然なものだ』と信じてきました。身体的な妊娠・出産の経験が、母性の基礎だと」


 神崎は、そこで一度言葉を切った。


「ですが今、私たちは知っています。妊娠を経験していない人も、十分に『母』になりうることを。

 同時に、妊娠を経験したからといって、必ずしも『母』であり続けられるわけではないことも」


 会場の空気が、少しだけ揺れるのを感じた。


「ガラスのゆりかごは、母性を身体的経験から切り離しました。

 それは、解放であると同時に、拠り所を失うことでもあります。『自分は本当に母なのか』『父なのか』という問いが、より鋭く突きつけられるようになった」


 まさに自分のことを言われているようで、私は視線を落とした。


「ここで重要なのは、『母性』『父性』という言葉を、固定した本質ではなく、関係性の中での役割と見ることです。

 誰が授乳をするのか、誰が夜中に起きるのか、誰が学校行事に行くのか。

 そうした具体的な行為の積み重ねのなかで、『母』や『父』という役割は、ゆっくりと形づくられていきます」


 神崎は、会場を見渡した。


「かつて、『命がけの出産』という経験が、その役割形成の大きな起点であったことは否定できません。

 しかし、その起点を共有できない世代が現れた今、私たちは別の起点を見つけなければなりません。

 それは、おそらく――『選択』です」


「選択……?」


 私の隣で、勝が小さくつぶやいた。


「はい。たとえば、育児休暇を誰がどのくらい取るか。誰がフルタイムで働き、誰が一時的にペースを落とすか。

 それらの選択を、性別や旧来の価値観ではなく、対話によって決めていく。

 その過程で、『自分は何を大切にするのか』『家庭として何を選び取るのか』が、少しずつ固まっていきます」


 神崎は、手元のメモを翻った。


「ただし、その選択は、決して完全に自由ではありません。

 職場の文化、地域の期待、祖父母世代の価値観。そうしたものが、見えない圧力としてかかってきます」


 会場の空気が、再びざわめいた。


「皆さんのなかにも、『制度上は平等なのに、なぜか自分ばかり負担している気がする』と感じている方がいるかもしれません。

 あるいは、『自分の親世代の価値観と、自分たちの選択が噛み合わない』と悩んでいる方も」


 私は、義母の顔を思い浮かべた。


「そうしたギャップは、すぐには解消されません。

 倫理学ができるのは、そうしたズレを『名前のついた問題』として扱うことだけです。『あなた個人のわがままではない』『社会の構造の問題でもある』と、言語化すること」


 スクリーンには、「構造的負荷」という言葉が映し出される。


「『あなたは母親なんだから』『あなたは男なんだから』という言葉の背後には、歴史的な制度や文化の積み重ねがあります。

 それを一人一人の「覚悟」や「努力」だけで解決しようとすれば、誰かが潰れてしまう。

 だからこそ、私たちは日常の中で、少しずつ『言い換え』を試みる必要があるのです」


「言い換え?」


「たとえば、『母親なんだから』を『私たち親として』に言い換えてみる。

 『男のくせに』を『大人として』に。

 言葉を変えることで、役割への期待の枠組みも、少しずつ変わっていく」


 神崎は、そこでふっと微笑んだ。


「それは地味で、時間のかかる作業です。けれど、人類はそうやって、少しずつ自分たちの倫理を更新してきました。

 ガラスのゆりかごという技術も、その更新の一部に過ぎません」


 講義の後半は、参加者との質疑応答だった。

 ある若い男性が、「自分は育児休暇を取りたいが、職場での評価が不安だ」と話した。

 年配の女性は、「娘が施設出産を選んだことを、どう受け止めればいいのかわからない」と涙ぐんだ。


 私は、手を挙げることはできなかった。

 でも、他人の口から語られる葛藤を聞きながら、自分の中の何かが、少しずつ言葉を与えられていくのを感じた。


 講義が終わり、参加者が三々五々に散っていく。

 出口に向かう途中、神崎がこちらに目を留めた。


「先ほど、出生管理センターのほうでお見かけしましたね」


「あ、はい。娘の検査で……」


「そうでしたか。ご不安でしょうね」


 神崎の目は、講義中よりも柔らかい光を湛えていた。


「もしよければ、先ほどのお話の感想を、少し聞かせてもらってもいいですか?」


 私は迷った末に、口を開いた。


「……母性って、痛みを引き受けることだって、ずっと思い込んでいたので。

 痛みのない私には、それが欠けているんじゃないかって。

 でも、別の痛み方をしているだけだ、って言葉には、少し救われました」


「別の痛み」


「見えるリスクが増えたとか、数値で全部管理される不安とか。

 それを、『楽をしている』って言っていいのか、自分でもわからなくなって」


 神崎は、静かにうなずいた。


「痛みには、いくつかの種類があります。

 身体の痛み、心の痛み、そして、選択したことの結果を引き受ける痛み。

 技術が進歩しても、痛みそのものが消えるわけではありません。ただ、その配分が変わるだけです」


「配分……」


「かつては、身体の痛みを女性が多く引き受けていました。今は、心の痛みや、選択の責任が、男女ともに、あるいは社会全体に広く配分されつつある。

 それをどうバランスさせるかは、まだ模索の途中です」


 神崎は、私の後ろに立つ勝に目を向けた。


「お二人は、どのように育児の役割分担をされていますか?」


「できるだけ、半々で……。仕事の都合もあるので、完璧には難しいですけど」


 勝が答えると、神崎はふっと笑みを深めた。


「『半々』という言葉が自然に出てくること自体が、すでに大きな変化です。

 それでも、周囲から『母親なんだから』『父親なのに』という言葉を投げかけられることはあるでしょう」


 私は、義母と上司の顔を順番に思い浮かべた。


「そのときに、『私はこう選びました』『私たちはこう決めました』と、静かに言い返せるようになること。

 それが、これからの世代の「痛み」であり、同時に「力」でもあるのだと思います」


 静かに言い返す。

 私は、まだうまくできそうにない。

 でも、いつか――と思う。


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