エピローグ
「領主様ーー、大変だー!」
その声に、青さや豆を籠にいっぱいにしたアミーナは顔を上げた。
見ると丘の下からフォードの宿屋で働くジョイス青年が馬でこちらに上ってくる。
呼ばれた当の本人は、苦虫を噛み潰したような顔でトマトを収穫していた手を止めたまま固まっていた。
「……ダン、またお呼びみたいだけど」
「いやだ! 今日はウェルジュに本を読んでやる約束なんだ。このまま屋敷に帰る。約束一つ守れない父親だなんて思われたくない」
鼻息も荒く立ち上がった足元で、くりくりとした大きな黒い瞳がダンを見上げる。
「お父さん、おしごとなの?」
大きなトマトを大事そうに一つ持って小首を傾げる。
その仕草は、アミーナに良く似ていた。
「大丈夫、ウェルジュ。行かないよ。男同士のかたーい約束だもんな」
ダンはデレデレと鼻の下を伸ばし、自分と同じ黒髪の小さな頭を乱暴に撫でた。
そして決意も新たに、ジョイスに向かって叫ぶ。
「おーい、ジョイス! 俺は今夜は家族とゆっくり過ごすんだ。店の酔っ払いをシメになんか行かないぞ。断じて行かなーーい!」
「今日は違いますよー。ほら、うちのマスターがヨークリーからここに店を移した時に、開店パーティで領主様が買い占めた酒があったじゃないすか。あれが今、ガンガン減ってるんすけど……いいんですかね、あれ」
「なっ……減ってる? なんでっ!」
ジョイスがようやく丘を登りきって、畑の前で手綱を引き馬を止める。
するとジョイスの前から小さな女の子がぴょんと飛び降りてきた。
「ウェル! ウェルジューー会いたかった!」
「アンジェリナ?」
目を丸くするアミーナとダンには目もくれず、アンジェリナがウェルジュに向かって一直線に駆け出す。
「わああ。アンジェが来た……!」
逃げ遅れたウェルはアンジェに飛びつかれ、畑の中で尻餅をついた。
ふわりと鈴蘭の香りが辺りに舞う。
「アンジェがここにいるって事は、ロギとリアンが来てるのか?」
ダンが目を輝かせてジョイスに詰め寄る。
「ええ。でも今回はロギユール様とアンジェちゃんだけみたいですよ。セルゲイからの荷馬車に一緒に乗ってきたんですけど、途中でうちの店に連れて行かれて……」
「定期便が戻ってきたのか。え、じゃあ俺の酒を飲んでるってのは……」
「そう、領主様のお父上とマルコム老。ダンの物は俺達の物って言って、うちのマスターとロギユール様も一緒になってやけに盛り上がってますよ」
ダンの顔色が見る間に青くなった。
「あんの……クソジジイどもーー!」
憤然と唾を飛ばす彼の袖を引いて、アミーナがくすくす笑う。
「はいはい、じゃあ早く迎えに行ってきて。私は先に帰って、マリカに今夜の食事の人数が増えたって言わなくちゃ。アンジェ、ウェル、先に屋敷に戻りましょう。リアンは来ていないのね……会いたかったな」
羽交い絞めに近い再会の抱擁に満足したのかアンジェはウェルを解放し、今度はアミーナのスカートに抱きついた。
「うん。お母様はお留守番。あたしだけウェルと遊びたくてお父様に付いて来ちゃったの」
無邪気に笑う親友達の娘は、その面影をそのまま映している。
絹のような銀の髪とコバルトブルーの瞳はさながら天使(アンジェ)のよう。
だが元気いっぱいな所は、なぜかダンとアミーナにも似ている。
アンジェリナが来る度、有り余る愛情表現に振り回される息子ウェルジュは、この天使を恐れてもいた。
「あのくたばりぞこないども、セルゲイとの定期便の仕事を与えてやった俺様の酒を……。よし、ひとっ走り行って引きずってくる!」
そう言い捨ててダンはジョイスの馬の後ろにひらりと飛び乗る。
「もう日も暮れるわ。早く戻ってね」
アミーナは青豆の籠を抱え、アンジェを伴って屋敷の方に戻り始めた。
エデンはいつのまにか夕凪の刻を迎えている。
昔も今も、そのオレンジ色は優しい。
それはアミーナの瞳の色が変わらなくなっても同じだった。
――ウェルは畑に座り込んだまましばらく動けないでいた。
なんだかちょっぴり、いつもとアンジェが違って見える。
乱暴でむちゃくちゃな所はいつもと同じなのに、今日はやけに可愛い。
あのさらさらの髪と鈴蘭の香りで胸の中がいっぱいになり、おまけにトクトク心臓が鳴っている。
アンジェの背中を目で追い、ウェルは立ち上がってお尻の土をパタパタと払った。
そして────。
「……ふうむ。この感情は興味深い」
そう低く呟いた。
~FIN~




