第七話「Hを探して」
---
博多へ行くことにしたのは、五枚目のメモが来てからではなかった。
五枚目が来る前に、二人は自分たちで決めた。
「行こう」とミナが言った。ある夜、急に。
「今?」とハルは言った。
「今じゃなくて、今週末」
「きっかけは何だ」
「ひよごサブレの箱が空になったから」とミナは言った。
ハルは台所の棚を見た。
ひよごサブレの箱が、空だった。最後の一枚を昨夜食べていた。
「次が来るまで待てばいいんじゃないか」
「待っていたら、ずっと待つだけになる気がした」とミナは言った。「相手を待つことと、自分で動くことは、両方できる。どちらか片方じゃなくてもいい」
ハルはその言葉を考えた。
「Hを待ちながら、俺たちも動く」
「そう」とミナは言った。「Hが月に一度通信を送ってくるなら、私たちも月に一度くらい、自分で動いてもいい気がする」
「理屈が合っている」とハルは言った。
「博多のひよごサブレを、現地で食べてみたい」とミナは言った。
「それも理由か」
「大事な理由だ」
---
金曜日の夜、新幹線に乗った。
博多は思ったより近かった。
駅を出ると、夜の街が広がっていた。賑やかだった。人が多く、食べ物の匂いがして、どこかから三味線の音がするような気がした。
「活気がある」とハルは言った。
「東京と違う活気がある」とミナは言った。「もっと、土に近い感じがする」
「土に近い」
「うまく言えないけど」とミナは言った。「地面から何かが来ている感じがする」
ハルは足元の地面を見た。アスファルトだった。しかしミナの言う感覚が、なんとなく分かった。
宿に荷物を置いてから、二人は夜の街を歩いた。
目的地は、Hの住所だった。
---
住所の場所は、駅から少し離れた住宅街だった。
マンションだった。
八階建ての、普通のマンションだった。エントランスにオートロックがあった。植え込みが手入れされていた。駐輪場に自転車が何台か並んでいた。
何もおかしいところがなかった。
二人は少し離れた場所から、マンションを見た。
「普通だ」とハルは言った。
「普通だ」とミナは言った。
「ひよごサブレが月に一度届けられるマンションには見えない」
「見えない。でも、ここから送ってきている」
「誰の部屋からだろう」
ミナはマンションを見上げた。明かりがついている部屋、ついていない部屋が混在していた。
「分からない」とミナは言った。「でも——」
「でも?」
「ここへ来て良かった」とミナは言った。「場所を知ることが、大事な気がした。どこから来ているかを、体で知ることが」
「体で知る」
「地図で見るのと、実際に来るのは、違う」とミナは言った。「ここへ来て、この空気を吸って、この街の感触を知った。だから、Hがここから送ってきているということが、本当のことになった」
ハルはマンションを見た。
どこかの部屋に、几帳面な字を書く人間がいる。
ひよごサブレを箱に詰めて、底にメモを一枚入れて、宅配便で送り出す人間が。
「お礼が言いたい」とハルは言った。
「会えないかもしれない」とミナは言った。
「会えなくてもいい。でも、言いたい」
二人はしばらく、マンションの前に立っていた。
夜の住宅街は静かだった。どこかで猫が鳴いた。
「ありがとう」とハルはマンションに向かって言った。声は出さなかった。心の中で。
ミナも同じことをしている気がした。
---
翌朝、ひよごサブレの本店へ行った。
博多駅の近くにあった。小さな店だった。ショーウィンドウにひよこたちが並んでいた。
店に入ると、甘い匂いがした。
「いらっしゃいませ」と店員が言った。
ひよごサブレを買った。箱入りを二つ。一つはHへの気持ちで、もう一つは自分たちで食べる用で。
「一つ聞いてもいいですか」とミナは店員に言った。
「はい」と若い店員が答えた。
「このひよごサブレを、毎月定期的に送っている方がいるんですが、どんな方か教えてもらえますか。個人情報なので難しいとは思いますが」
店員は困った顔をした。「お客様の情報は——」
「そうですよね、すみません」とミナは言った。「では、このお菓子を月に一度誰かに送り続けるような方が、どんな気持ちで送るのか、あなたはどう思いますか」
店員は少し考えた。
「大切な人に、忘れないでほしいものを伝えたいのかもしれません」と言った。「ひよこは、生まれたての意味があるので。何かが始まる時に、贈る方が多いです」
「生まれたての」とミナは繰り返した。
「はい。新しいことが始まる、という時に、よく選ばれます」
ハルはその言葉を聞いた。
新しいことが始まる。
しかしHが送り続けているのは、新しいことが始まるからではない気がした。むしろ逆だった。古いことを、思い出させるために送っている。
「古いことを思い出させるために送ることもありますか」とハルは聞いた。
店員はまた少し考えた。
「ひよこは、生まれたてなのに、どこか昔から知っている感じがするって言う方もいます」と店員は言った。「初めてなのに懐かしい、という感じが、このひよこにはあるのかもしれません」
「初めてなのに懐かしい」
「そういうものを、大切な人に贈りたい、という気持ちがあるのかもしれません」
ミナは店員に頭を下げた。「ありがとうございました」
店を出てから、二人は駅の方へ歩いた。
「初めてなのに懐かしい」とハルは言った。
「ひよごサブレを最初に食べた時」とミナは言った。「そういう感じがした」
「俺も」
「甘くて、さくさくしていて、初めて食べるのに——ずっと昔から知っている味がした」
「前の巡りから知っている味かもしれない」とハルは言った。
「前の巡りにひよごサブレはなかったと思うけど」とミナは言った。
「じゃあ何が懐かしいんだろう」
「甘さが懐かしいのかもしれない」とミナは言った。「何かが終わった後や、何かが始まる前の、甘い時間の感触が。そういうものがひよごサブレの形をして、Hから送られてきている」
ハルはその言葉を、胸の中で転がした。
甘い時間の感触。
川沿いの土手に並んで座っていた時間の感触。
火の前に二人で立っていた時間の感触。
「博多の空気は」とミナは言った。「どう感じますか」
「聞かれると思わなかった」とハルは言った。「えーと」
「えーと?」
「温かい」とハルは言った。「空気が、なんか、温かい。季節のせいかもしれないけど。それだけじゃない温かさがある」
「私も」とミナは言った。「この街の空気が温かい。懐かしく温かい」
「Hがいるから?」
「そうかもしれない」とミナは言った。「あるいは——この街のどこかに、私たちが知っているものがある気がする」
「ひよごサブレ以外に?」
「ひよごサブレ以外にも」とミナは言った。「何かが、この街のどこかに」
二人は歩きながら、街を見渡した。
普通の街だった。商店があり、ビルがあり、人が歩いていた。
しかし普通の街に見えながら、どこかに何かがあるような気がした。
「次に来る時に」とハルは言った。「もっと探してみよう」
「次に来る時に」とミナは言った。「もう少し、奥まで歩いてみよう」
二人はそれだけ決めて、新幹線の時間まで、博多の街を歩いた。
帰りの新幹線の中で、買ったひよごサブレを食べた。
さくさくと。
甘かった。
本場で食べても、同じ味だった。
同じ味がすることが、何かを確かめるようで、良かった。
---
(第七話 了)




