第五話「穴の向こう側」
---
変化は、静かに起きた。
ある朝、ハルが50円玉の穴を覗いた時、テーブルの木目の代わりに、別のものが見えた。
川だった。
一瞬だった。瞬きするより短い時間に、穴の向こうに川が見えた。夜の川だった。月明かりを映していた。
ハルは穴から目を離した。
もう一度覗いた。
テーブルの木目だった。
---
「見えた」とハルはミナに言った。
「何が」
「川が」
ミナはハルを見た。
「50円玉の穴越しに?」
「そうだ。一瞬だけ。川が見えた」
ミナは50円玉を手に取った。穴を覗いた。
「テーブルの木目しか見えない」とミナは言った。
「俺もさっきはそうだった。でも、一瞬だけ変わった」
ミナは穴を覗いたまま、しばらくじっとしていた。
「ミナ」とハルは言った。
「少し待って」とミナは言った。穴から目を離さずに。
三十秒ほど経った。
「見えた」とミナは言った。
「何が」
「木立」とミナは言った。「杉の木が並んでいた。一瞬だけ」
「川ではなかった?」
「川ではなかった。杉の木立だった。薄暗い、霧のような場所に、杉の木が並んでいた」
ハルはミナから50円玉を受け取った。穴を覗いた。
テーブルの木目だった。
「今は見えない」
「今は見えない」とミナも言った。「でも、さっきは見えた」
「俺が見た川と、ミナが見た木立」とハルは言った。「同じ場所の、違う部分かもしれない」
「川の傍に、杉の木立があったかもしれない」
「参道みたいな場所に」という言葉が、ハルの口から出た。
「参道」とミナは言った。
「杉が並んでいる参道の先に、社殿があって、川が近くにあった場所」とハルは言った。「夢の中の、社殿への参道」
「参道」とミナは繰り返した。今度は確認するように。「そうだ。あの木立は参道だ。参道の杉の木が見えた」
二人はテーブルの上の50円玉を見た。
小さな穴が、向こう側を切り取って見せていた。
「穴が、窓になっている」とハルは言った。
「窓」
「向こう側を見るための窓になってきた。最初はただのテーブルの木目しか見えなかったのに」
「ひよごサブレのメモが増えるごとに」とミナは言った。「窓が開いてきているのかもしれない」
「それとも」とハルは言った。「俺たちが、向こう側を見られるようになってきているのかもしれない」
ミナはノートを引き寄せた。
几帳面な字で書き始めた。
ハルが見たもの。ミナが見たもの。それが示す場所の可能性。
「社殿への参道」とミナは書きながら言った。「川沿いの、杉の木立の中にある参道。その先に火がある」
「常火がある」とハルは言った。
「常火がある」とミナは繰り返した。「その場所が、前の巡りにあった場所かもしれない」
「あるいは」とハルは言った。「今もある場所かもしれない」
ミナは筆を止めた。
「今もある?」
「Hが言っていた。火は今でも燃えています、と。今でも、ということは、場所も今でも存在しているかもしれない」
「どこかにある」
「どこかにある」とハルは言った。「日本のどこかに、川があって、参道があって、社殿があって、常火が燃えている場所が」
ミナはハルを見た。
「探せるかもしれない」とミナは言った。
「探せるかもしれない」とハルは言った。
「でも」
「でも?」
「まだ早い気がする」とミナは言った。「ひよごサブレがまだ続いている。Hはまだ伝えたいことがある。それを全部受け取ってから、動いた方がいい」
「待つのか」
「待つ」とミナは言った。「急かさない。あちらが急いでいないなら、こちらも急がない」
ハルは頷いた。
---
その夜から、二人は交互に50円玉を覗くようになった。
毎日ではなかった。気が向いた時に、穴を覗いた。
見えない日の方が多かった。
しかし見える日は、毎回違うものが見えた。
ハルが見たもの——田畑、夕暮れの空、石畳、老人の後ろ姿。
ミナが見たもの——川沿いの土手、紙と筆を持った手、白い紙に書かれた文字、社殿の扉の隙間から漏れる光。
二人は見えたものを、その都度ノートに書き留めた。
几帳面な字で。ミナが書いた。ハルが口で言い、ミナが書いた。
「老人の後ろ姿」とハルが言った日、ミナは「どんな老人?」と聞いた。
「背中が真っ直ぐだった」とハルは言った。「縁側に座って、何かをしていた。縄を、編んでいた気がする」
「縄を編む老人」とミナは書いた。「縁側で」
「知っている気がした」とハルは言った。「その老人を。会ったことがあるような」
「前の巡りで?」
「たぶん」
「名前は?」
ハルは考えた。
「分からない。でも——」
「でも?」
「弥」という字が浮かんだ。漢字で、弥。
なぜその字が浮かんだか分からなかった。しかし、はっきりと浮かんだ。
「弥」とハルは言った。「弥、という字が浮かんだ」
ミナは書き留めた。
「弥三郎」とミナは言った。
ハルはミナを見た。
「なぜその名前が出てきた」
「分からない」とミナは言った。「でも、弥、という字を聞いた瞬間に、弥三郎という名前が浮かんだ。弥三郎というお爺さんを知っている気がした」
「弥三郎」とハルは繰り返した。
「縁側で縄を編む老人で」とミナは言った。「薬草の知識があった。里の人たちが体の具合を悪くすると、みんなその人の家の戸を叩いた」
「なぜそんなことを知っている」
「なぜか知っている」とミナは言った。「前の巡りで、その人のことを知っていたのかもしれない」
二人はしばらく、互いを見ていた。
「弥三郎さん」とハルは言った。
その名前を声に出すと、懐かしかった。
会ったことのない人間の名前が、懐かしかった。
---
四枚目のひよごサブレが届いたのは、そんな日々の中だった。
差出人「H」。博多の住所。十二枚のひよごサブレ。
底のメモ。
几帳面な字で、一行。
『次の巡りも、二人でいてください』
ハルはメモを見た。
ミナもメモを見た。
「次の巡りも」とミナは言った。
「今の巡りは、この人生のことだ」とハルは言った。「そして次の巡りも、ということは——」
「この先も続く、ということだ」とミナは言った。
「続く」
「二人で」
「二人で」
二人はメモを見ていた。
几帳面な字が、静かにそこにあった。
ハルはひよごサブレを一枚取った。
かじった。
「ミナ」と言った。
「何」
「俺たちは今の巡りでも、一緒にいるな」
「いる」とミナは言った。
「良かった」とハルは言った。
「良かった」とミナも言った。
窓の外で、夕暮れが広がっていた。
橙と金の空だった。
50円玉の穴越しに、その色が見えた。
常火の色が。
---
(第五話 了)




