表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひよごサブレからの通信  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第五話「穴の向こう側」


---


変化は、静かに起きた。


ある朝、ハルが50円玉の穴を覗いた時、テーブルの木目の代わりに、別のものが見えた。


川だった。


一瞬だった。瞬きするより短い時間に、穴の向こうに川が見えた。夜の川だった。月明かりを映していた。


ハルは穴から目を離した。


もう一度覗いた。


テーブルの木目だった。


---


「見えた」とハルはミナに言った。


「何が」


「川が」


ミナはハルを見た。


「50円玉の穴越しに?」


「そうだ。一瞬だけ。川が見えた」


ミナは50円玉を手に取った。穴を覗いた。


「テーブルの木目しか見えない」とミナは言った。


「俺もさっきはそうだった。でも、一瞬だけ変わった」


ミナは穴を覗いたまま、しばらくじっとしていた。


「ミナ」とハルは言った。


「少し待って」とミナは言った。穴から目を離さずに。


三十秒ほど経った。


「見えた」とミナは言った。


「何が」


「木立」とミナは言った。「杉の木が並んでいた。一瞬だけ」


「川ではなかった?」


「川ではなかった。杉の木立だった。薄暗い、霧のような場所に、杉の木が並んでいた」


ハルはミナから50円玉を受け取った。穴を覗いた。


テーブルの木目だった。


「今は見えない」


「今は見えない」とミナも言った。「でも、さっきは見えた」


「俺が見た川と、ミナが見た木立」とハルは言った。「同じ場所の、違う部分かもしれない」


「川の傍に、杉の木立があったかもしれない」


「参道みたいな場所に」という言葉が、ハルの口から出た。


「参道」とミナは言った。


「杉が並んでいる参道の先に、社殿があって、川が近くにあった場所」とハルは言った。「夢の中の、社殿への参道」


「参道」とミナは繰り返した。今度は確認するように。「そうだ。あの木立は参道だ。参道の杉の木が見えた」


二人はテーブルの上の50円玉を見た。


小さな穴が、向こう側を切り取って見せていた。


「穴が、窓になっている」とハルは言った。


「窓」


「向こう側を見るための窓になってきた。最初はただのテーブルの木目しか見えなかったのに」


「ひよごサブレのメモが増えるごとに」とミナは言った。「窓が開いてきているのかもしれない」


「それとも」とハルは言った。「俺たちが、向こう側を見られるようになってきているのかもしれない」


ミナはノートを引き寄せた。


几帳面な字で書き始めた。


ハルが見たもの。ミナが見たもの。それが示す場所の可能性。


「社殿への参道」とミナは書きながら言った。「川沿いの、杉の木立の中にある参道。その先に火がある」


「常火がある」とハルは言った。


「常火がある」とミナは繰り返した。「その場所が、前の巡りにあった場所かもしれない」


「あるいは」とハルは言った。「今もある場所かもしれない」


ミナは筆を止めた。


「今もある?」


「Hが言っていた。火は今でも燃えています、と。今でも、ということは、場所も今でも存在しているかもしれない」


「どこかにある」


「どこかにある」とハルは言った。「日本のどこかに、川があって、参道があって、社殿があって、常火が燃えている場所が」


ミナはハルを見た。


「探せるかもしれない」とミナは言った。


「探せるかもしれない」とハルは言った。


「でも」


「でも?」


「まだ早い気がする」とミナは言った。「ひよごサブレがまだ続いている。Hはまだ伝えたいことがある。それを全部受け取ってから、動いた方がいい」


「待つのか」


「待つ」とミナは言った。「急かさない。あちらが急いでいないなら、こちらも急がない」


ハルは頷いた。


---


その夜から、二人は交互に50円玉を覗くようになった。


毎日ではなかった。気が向いた時に、穴を覗いた。


見えない日の方が多かった。


しかし見える日は、毎回違うものが見えた。


ハルが見たもの——田畑、夕暮れの空、石畳、老人の後ろ姿。


ミナが見たもの——川沿いの土手、紙と筆を持った手、白い紙に書かれた文字、社殿の扉の隙間から漏れる光。


二人は見えたものを、その都度ノートに書き留めた。


几帳面な字で。ミナが書いた。ハルが口で言い、ミナが書いた。


「老人の後ろ姿」とハルが言った日、ミナは「どんな老人?」と聞いた。


「背中が真っ直ぐだった」とハルは言った。「縁側に座って、何かをしていた。縄を、編んでいた気がする」


「縄を編む老人」とミナは書いた。「縁側で」


「知っている気がした」とハルは言った。「その老人を。会ったことがあるような」


「前の巡りで?」


「たぶん」


「名前は?」


ハルは考えた。


「分からない。でも——」


「でも?」


「弥」という字が浮かんだ。漢字で、弥。


なぜその字が浮かんだか分からなかった。しかし、はっきりと浮かんだ。


「弥」とハルは言った。「弥、という字が浮かんだ」


ミナは書き留めた。


「弥三郎」とミナは言った。


ハルはミナを見た。


「なぜその名前が出てきた」


「分からない」とミナは言った。「でも、弥、という字を聞いた瞬間に、弥三郎という名前が浮かんだ。弥三郎というお爺さんを知っている気がした」


「弥三郎」とハルは繰り返した。


「縁側で縄を編む老人で」とミナは言った。「薬草の知識があった。里の人たちが体の具合を悪くすると、みんなその人の家の戸を叩いた」


「なぜそんなことを知っている」


「なぜか知っている」とミナは言った。「前の巡りで、その人のことを知っていたのかもしれない」


二人はしばらく、互いを見ていた。


「弥三郎さん」とハルは言った。


その名前を声に出すと、懐かしかった。


会ったことのない人間の名前が、懐かしかった。


---


四枚目のひよごサブレが届いたのは、そんな日々の中だった。


差出人「H」。博多の住所。十二枚のひよごサブレ。


底のメモ。


几帳面な字で、一行。


『次の巡りも、二人でいてください』


ハルはメモを見た。


ミナもメモを見た。


「次の巡りも」とミナは言った。


「今の巡りは、この人生のことだ」とハルは言った。「そして次の巡りも、ということは——」


「この先も続く、ということだ」とミナは言った。


「続く」


「二人で」


「二人で」


二人はメモを見ていた。


几帳面な字が、静かにそこにあった。


ハルはひよごサブレを一枚取った。


かじった。


「ミナ」と言った。


「何」


「俺たちは今の巡りでも、一緒にいるな」


「いる」とミナは言った。


「良かった」とハルは言った。


「良かった」とミナも言った。


窓の外で、夕暮れが広がっていた。


橙と金の空だった。


50円玉の穴越しに、その色が見えた。


常火の色が。


---


(第五話 了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ