第三話「博多への手紙」
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三枚目のメモが来る前に、ミナはHのことを調べ始めた。
調べる、といっても手がかりは少なかった。博多の住所。差出人の「H」という一文字。几帳面な、どこか古風な字。
まず住所を地図で調べた。
博多の住宅街の一角だった。特別な場所ではなかった。マンションが建っているようだった。
「マンションの一室から送ってきているのか」とハルは言った。
「そうかもしれない」とミナは言った。「でも、住所の主が送り主かどうかは分からない。その住所を使っているだけかもしれない」
「どういうことだ」
「例えば」とミナは言った。「郵便局留めという手もある。あるいは、その住所が別の誰かの家で、代わりに送ってもらっているという可能性もある」
「考えすぎじゃないか」
「考えすぎかもしれない」とミナは言った。「でも、ひよごサブレを月に一度送ってくる人間が、何もない普通のマンションに住んでいるとは思いにくい」
ハルはその理屈を考えた。
「何もない普通のマンション、というのは」
「前の巡りのことを知っていて、50円玉の穴から見ろと言ってくる人間が、普通のマンションに住んでいるとは思えない、ということ」
「じゃあどこに住んでいる」
「分からない」とミナは言った。「だから調べている」
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ミナが調べている間、ハルは別のことをしていた。
川、という言葉から、自分がどんな川を知っているかを考えていた。
子供の頃に住んでいた家の近くに、小さな川があった。コンクリートで護岸された、水量の少ない川だった。魚はいなかった。釣りもできなかった。たまに自転車が沈んでいた。あの川を覚えているか、と聞かれれば、覚えているとは言えた。しかしあれは、ひよごサブレが言う川ではないと思った。
大学時代に行ったキャンプの川も違った。
旅行で行った川も違った。
どれも違う。
夢の中の川は、もっと古いものだった。人工物がない川だった。護岸もなく、街灯もなく、ただ水が流れていた。月明かりだけがあった。そしてその川の傍に、誰かと並んで座っていた。
「川沿いの土手」とハルは声に出してみた。
なぜ土手、という言葉が出てきたのか分からなかった。しかし、土手という言葉が、川の記憶と一緒に浮かんだ。
土手に並んで座っていた。
水の流れを見ていた。
何かを話していた。何を話していたかは分からないが、話していた。
「土手」とハルはもう一度言った。
この言葉を、どこかで使ったことがある気がした。あるいは、誰かに言われた気がした。川沿いの土手、という言葉を。
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ミナの調査は、思わぬ方向に進んだ。
ひよごサブレのメーカーに問い合わせた。どこで購入できるか、博多以外でも買えるか、ということを確認するという名目で。
「贈り物にしたいんですが」とミナは電話口で言った。「差出人を分からないようにして送ってもらうことはできますか」
できません、という答えが返ってきた。
「博多の限定品なんですね」とミナは言った。
「はい」というきれいな声が返ってきた。「こちらでのみ販売しております」
「では、博多の店舗に行けば買えるんですね」
「はい、ぜひいらしてください」
電話を切ってからミナはハルに言った。「博多に行かなければ分からないことがある気がしてきた」
「博多に行くのか」
「まだ決めていない。でも、Hのことを知るには、博多へ行く必要があるかもしれない」
「仕事は」
「休みを取れる」とミナは言った。「あなたは」
「俺も取れる」とハルは言った。「でも今は行かない方がいい気がする」
「なぜ」
「まだ早い気がする。ひよごサブレは月に一度来る。三枚目がまだ来ていない。来てから考えた方がいい」
ミナはハルを見た。
「なぜ三枚目を待つの」
「相手がゆっくり伝えようとしているなら」とハルは言った。「こちらも急がない方がいい。ミナが前回の手紙に書いた言葉だ」
ミナは少しの間、ハルを見ていた。
「覚えていたの」
「覚えていた」
「急かさない方がいい、という自分の言葉を、あなたに言われるとは思わなかった」
「俺も思わなかった」とハルは言った。「しかし、そう思った」
ミナは窓の外を見た。夕暮れが近かった。空が少しずつオレンジになっていた。
「待つ」とミナは言った。「三枚目が来るまで」
「うん」
「でも調べることは続ける」
「うん」
「Hという一文字から、何か分かることがあるかもしれない」
「何が分かると思う?」
ミナは少し考えた。
「Hは名前の頭文字かもしれない。あるいは、別の何かを指しているかもしれない。火、を意味しているのかもしれない」
「火?」
「Hはひらがなで書けば『ひ』。火の頭文字とも取れる」とミナは言った。「常火のHかもしれない」
ハルはその言葉を聞いた。
常火、という言葉が、どこかから来た言葉のように感じた。知っている言葉のはずがなかった。しかし知っている。
「常火」とハルは繰り返した。
「とこび」とミナは読んだ。「常に燃えている火、という意味の言葉だと思う。どこかで読んだ気がする」
「読んだ気がする」
「読んだか、聞いたか」とミナは言った。「あるいは、夢の中で見たか」
橙と金の火。
それが常火、という名前を持っているかもしれない。
ハルはテーブルの50円玉を見た。
穴の向こうを見た。
今日は夕暮れの光がテーブルの上に差し込んでいた。その光が、穴越しに見えた。
橙と金の光が、穴の向こうにあった。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「50円玉の穴越しに、橙と金の光が見える」
ミナは立ち上がってきた。ハルの隣から、一緒に穴を覗いた。
「見える」とミナは言った。「夕暮れの光が、穴を通して見える」
「常火みたいだ」
「常火みたいだ」とミナも言った。
二人は並んで、50円玉の穴越しに、橙と金の光を見ていた。
日が落ちるまでの、少しの時間だった。
光が薄くなった。橙が消えた。穴の向こうはただのテーブルの木目に戻った。
「消えた」とハルは言った。
「消えた」とミナは言った。「でも」
「でも?」
「さっきまであった」とミナは言った。「それは確かだ」
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三枚目のメモを待ちながら、ミナはノートへの記録を続けた。
夢の記録。50円玉越しに見えたもの。ひよごサブレのメモの言葉。Hという文字の可能性。常火という言葉がなぜ浮かんだか。
几帳面な字で、丁寧に。
「なんで記録するの」とある夜ハルは聞いた。
「記録しておかなければ、なかったことになってしまうから」とミナは言った。
ハルはその言葉を聞いた瞬間、何か懐かしいものに触れたような気がした。
「それ、誰かに言われた言葉じゃないか」とハルは言った。
「自分で思ったこと」とミナは言った。「でも——」
「でも?」
「ずっと昔から思っていたこと、という気もする」とミナは言った。「自分で思ったのか、誰かから来た言葉なのか、区別がつかない」
「どちらでもいい気がする」とハルは言った。
「どちらでもいい?」
「今のミナの言葉として、そこにある。それで十分だ」
ミナは筆を止めた。
ハルを見た。
「ハル」とミナは言った。
「何」
「あなたは、最近少し変わった気がする」
「どう変わった」
「言葉が、前より丁寧になった」とミナは言った。「ひよごサブレが来てから」
「そうか」
「自覚はある?」
「少しある」とハルは言った。「言葉を、大事にしようと思うようになった気がする。なぜかは分からない」
ミナはその言葉を、ノートに書き留めた。
几帳面な字で。
消えないように。
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(第三話 了)




