第7話 チート錬金術師の正論
レオン・クラウスの工房は、王都の北区にあった。
白い石造りの建物で、入口には銀の月の紋章が掲げられている。中に入ると、甘い薬草と金属の匂いがした。壁一面に瓶が並び、炉の上では青い炎が揺れている。
金がある。
技術もある。
そして、整理はされていない。
(高価な混沌だ)
棚には色鮮やかな液体が並んでいたが、ラベルは美しい紋章だけ。製造日も、材料の産地も、調合担当者も、濃度も書かれていない。
奥の部屋で、レオンが待っていた。
二十代後半に見える金髪の青年。服は上質で、指先には薬品焼けがある。貴族のような顔立ちだが、手だけは職人のものだった。
「君が、私の銀月七番を止めた薬剤師か」
「マオです」
「レオン・クラウスだ」
彼は椅子を勧めなかった。
こちらも座らなかった。
声は冷たい。だが、作業台に置かれた指先は白くなるほど力が入っていた。
怒っている。
それだけではない。
自分の薬が人を倒したかもしれない、という言葉を、まだ受け入れられずにいる顔だった。
「先に言っておく。銀月七番は、これまで千人以上の冒険者を救った」
「はい」
「失血で死にかけた者、魔物に腹を裂かれた者、片足を失いかけた者。私の薬がなければ、彼らは死んでいた」
「はい」
「それを、五人が発熱したから止めると」
「はい」
レオンの眉が動いた。
「君は、私の薬で助かった者の数を知っているのか」
「知りません」
「ではなぜ止める」
「五人の記録があるからです」
レオンは笑った。怒りを含んだ笑いだった。
けれど、その笑いは少しだけ震えていた。
千人を救った薬が五人を倒した。
その数の差で押し切りたいのに、押し切れないものが彼の中にもあるのだろう。
「記録。なるほど。神託で来た異世界の賢者は、帳面で薬を裁くのか」
「薬は帳面で裁くのではありません。帳面で見えるようにします」
「現場を知らない者の言葉だ」
「私は前世で、薬の現場にいました」
レオンの目が細くなる。
「前世」
「あなたも転生者ですね」
部屋の空気が変わった。
レオンは椅子に腰を下ろし、初めてこちらにも座るよう手で示した。
「ツクヨの凡人枠か」
「噂には聞いたことがあるが、やっぱり実在していたのか」
「はい」
「私はA級だった」
「でしょうね」
彼は少しだけ笑った。
「万能錬成。素材を解析し、最適な配合を導き出すチートだ。この世界の薬師が百年かける調合を、私は一日で作れる」
「素晴らしい能力です」
「皮肉か」
「いいえ。本当に」
それは本心だった。
強力な薬を作れる人は貴重だ。前世でも、一つの薬が世に出るまでに、どれだけの研究者と技術者が時間を注いでいるかを見てきた。薬剤師は、その努力の上に立って患者へ届ける仕事だ。
私は薬を作れない。少なくとも、レオンのようには作れない。
傷を塞ぎ、失血した冒険者を立ち上がらせる薬を作れる人間を、軽く見る理由は一つもなかった。怒りより先に、尊敬があった。
ただし、万能錬成は調合を最適化する力であって、素材がどの倉庫で、どれだけ保管されていたかまでは教えてくれない。
チートでも、過去は記録しなければ見えない。
だからこそ、届け方を間違えたくない。
「レオンさん。私はあなたの薬を否定していません」
「止めたのに」
「薬の価値を守るために止めました」
「価値を守る?」
「はい。危ないと疑われた薬を、そのまま売り続ければ、倒れる人が増えます。そうなれば、助かった人がどれだけいても、『レオンの薬は怖い』という記憶が残ります」
レオンの目が細くなった。
「全部を否定したいわけではありません。どの分が危ないのか、どこまでなら安全なのかを切り分けたいんです。問題のある一まとまりを止められれば、他の薬まで疑わずにすみます」
「私の薬を守るために、私の薬を止めたと?」
「そうです。薬は、効いた数だけでは守れません。疑われた時に、調べられること。危ない分を下げられること。それも薬の価値です」
レオンは黙った。
私は鞄から五人分の薬歴写しを出した。
「銀月七番を飲んだ患者五人です。症状、飲んだ時刻、購入場所、瓶の残液。全員、同じ週に販売されたものです」
「偶然だ」
「かもしれません」
「なら」
「偶然かどうかを調べるために、同じ週の瓶を集めています」
次に空瓶を並べる。
底の沈殿。色の違い。微かな匂いの差。
レオンは最初、冷たい目で見ていた。だが三本目の瓶を手に取った時、その表情が変わった。
「……この匂い」
「分かりますか」
「月光草が古い」
言った瞬間、レオン自身が傷ついたような顔をした。
否定したかったのだと思う。
私に言われたからではない。帳面に書かれていたからでもない。自分の手で作った薬の匂いを、自分の鼻が裏切れなかったからだ。
「ありえない」
レオンは小さくつぶやいた。
「私の工房で、そんな初歩的なことが」
「初歩的なことほど、忙しい時に抜けます」
彼は反論しなかった。
「材料記録はありますか」
レオンは答えなかった。
「製造日ごとの材料記録。誰が調合したか。どの瓶をどこへ売ったか。残っていますか」
「私の頭にある」
「あなたが倒れたら、誰も追えません」
レオンの顔から怒りが抜けた。
それでも、プライドは残っている。
「私が倒れると?」
「人間なので」
「私はA級チート転生者だ」
「薬は、A級チート転生者の身体にも効きます」
少しの沈黙。
それからレオンは、苦い顔で笑った。
「嫌なことを言う」
「薬剤師なので」
レオンがそこで黙ったのは、私の言葉に感動したからではない。
彼自身が、瓶の匂いの違いに気づいたからだ。
万能錬成を持つ彼の鼻と手が、古い月光草の気配を拾っていた。私の薬歴帳が示した線と、彼自身の職人としての感覚が、同じ場所を指していた。
私を信じたのではない。
彼は、自分の薬を信じているからこそ、その異常を無視できなくなったのだ。
◇
工房の記録は、想像より少なかった。
注文伝票はある。売上帳もある。だが製造記録はない。レオン自身の記憶と、弟子たちのメモに頼っていた。
弟子の一人、トマが証言した。
問題の週、月光草の納入が遅れ、倉庫の奥に残っていた古い束を使った。見た目は問題なかった。レオンは別件の高位ポーション調合で忙しく、銀月七番の下処理は弟子が担当した。
悪意はない。
だが、悪意がないまま薬害は起きる。
私は作業台の上に紙を広げた。
「製造記録を作ります」
「今ここでか」
「今ここからです」
項目を書く。
製造日。
製造番号。
原料名。
原料の仕入れ日。
担当者。
保管場所。
出荷先。
異常時の回収先。
レオンは紙を見て、額を押さえた。
「ポーションを作る時間がなくなる」
「最初は遅くなります」
「それでは救える命が減る」
「記録なしで売れば、倒れる人が増えます。最終的には、記録がある方が時間も節約できます」
「どういう理屈だ」
「問題が起きた時、全員で記憶をたどり直す時間が減ります。誰が作ったか、どの材料か、どこへ出したかを探す時間が短くなる。回収も早くなる。早く止められれば、救える人も増えます」
「紙を書く時間で、薬を作れる」
「今日のような日は、紙がないせいで薬も人も止まります。記録は、後の時間を買うために書きます」
「君は極端だ」
「薬は極端です。効くか、害になるか。その境目を記録で探します」
「では、今後は私が全部確認する」
レオンは即座に言った。
「弟子に任せなければいい。材料も、下処理も、出荷も、私が見る」
「それでは、あなたが倒れます」
「倒れない」
「人間なので倒れます」
レオンの眉が動いた。
同じことを二度言われるのは、かなり嫌だったらしい。
「責任感で薬は安全になりません。あなたの記憶ではなく、工房の手順にしてください」
「……私を信用しないのか」
「信用するから、あなた一人に背負わせません」
レオンは長く沈黙した。
炉の青い炎が、瓶の影を壁に揺らす。
弟子たちは、遠巻きにこちらを見ていた。
彼らにとって、レオンは師匠であり、英雄であり、ほとんど神話だったのだろう。師匠の手元を紙で縛る女が現れたのだから、面白いはずがない。
レオンが視線を向けたのは、私ではなく弟子たちだった。
トマは青ざめている。別の弟子は唇を噛んでいた。誰も悪意を持っていない。誰も師匠を裏切ったわけではない。ただ、手順がなかったせいで、失敗が一人の記憶と一人の手元に貼りつこうとしている。
レオンはそれを見た。
自分が全部を背負えばいい、という発想は、弟子を守るようでいて、次の失敗を弟子から奪わない。失敗の原因も、改善の手順も、全部レオンの頭の中に戻ってしまうからだ。
彼が折れた理由は、私に言い負かされたからではない。
薬を作る人間として、次の銀月七番を守る方法が、そこにしかないと分かったからだ。
私はトマに声をかけた。
「このロットの月光草を刻んだのはあなたですか」
「……はい」
「名前を教えてください」
「責めるんですか」
「違います。次に同じ草を見た時、あなたが気づけるように記録します」
少年は戸惑った顔で、名乗った。
トマ。
私は製造記録の担当者欄に、その名前を書いた。
「失敗を人に貼りつけるためではありません。次に手順を直すためです」
トマは小さくうなずいた。
レオンはそのやり取りを、黙って見ていた。
トマの肩から、ほんの少し力が抜けた。
その変化を、レオンは見逃さなかった。
弟子を守るとは、叱らないことだけではない。失敗をなかったことにすることでもない。次に同じ場所で転ばないよう、足元に印をつけることだ。
レオンの表情から、最後の強がりが少しずつ抜けていった。
「……私は、前世で何も作れなかった」
不意に、彼が言った。
「病気がちで、部屋から出られなかった。学校にも、仕事にも、ほとんど行けなかった。窓の外を人が歩いているのを見て、あちら側に行けないまま終わるのだと思っていた」
レオンは自分の手を見た。
薬品焼けした、職人の手だ。
「こちらに来て、万能錬成を得た。初めて、自分の手で何かを作れた。初めて、人に待たれた。怪我人が私の薬で立ち上がるたびに、やっと生きている気がした」
炉の火が、彼の横顔を照らした。
「銀月七番は、私にとってただの商品ではない。私がこちらの世界で生きている証拠だった」
その声には、怒りより疲れがあった。
「だから、止められたくなかった」
「分かります」
「分かるのか」
「前世で、薬を出して感謝されたことがあります。疑義照会で止めて、嫌な顔をされたこともあります。どちらも薬剤師の仕事でした」
レオンは目を伏せた。
「私の薬で倒れた者がいるなら、会わせてくれ」
「今は容体が安定していません。代わりに記録を見てください」
私は薬歴帳の写しを渡した。
彼は今度は笑わなかった。
「……字が汚いな」
「ミーナの初期記録です。内容は正しいです」
「そうか」
レオンはしばらく写しを読んでいた。
彼は一人ずつ名前を声に出した。
商品名ではない。
販売数でもない。
薬を飲んだ人間の名前だった。
「五人とも、生きているのか」
「はい。今は」
レオンは目を閉じた。
長い息が、炉の音に混じった。
「助かった数で、倒れた者を消せると思っていた」
「消えません」
「だろうな」
やがて、彼は立ち上がった。
「銀月七番の問題ロットを回収する。工房からも使いを出す」
「ありがとうございます」
「ただし、君も手伝え」
「もちろんです」
「それと」
レオンは製造記録の紙を指差した。
「この面倒な紙、書き方を教えろ」
私はうなずいた。
「そのために来ました」
紙は、薬ほどすぐには効かない。
だが、後からじわじわ効く。副作用は、だいたい眠気とため息だ。




