表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/9

第7話 チート錬金術師の正論

 レオン・クラウスの工房は、王都の北区にあった。


 白い石造りの建物で、入口には銀の月の紋章が掲げられている。中に入ると、甘い薬草と金属の匂いがした。壁一面に瓶が並び、炉の上では青い炎が揺れている。


 金がある。


 技術もある。


 そして、整理はされていない。


(高価な混沌だ)


 棚には色鮮やかな液体が並んでいたが、ラベルは美しい紋章だけ。製造日も、材料の産地も、調合担当者も、濃度も書かれていない。


 奥の部屋で、レオンが待っていた。


 二十代後半に見える金髪の青年。服は上質で、指先には薬品焼けがある。貴族のような顔立ちだが、手だけは職人のものだった。


「君が、私の銀月七番を止めた薬剤師か」


「マオです」


「レオン・クラウスだ」


 彼は椅子を勧めなかった。


 こちらも座らなかった。


 声は冷たい。だが、作業台に置かれた指先は白くなるほど力が入っていた。


 怒っている。


 それだけではない。


 自分の薬が人を倒したかもしれない、という言葉を、まだ受け入れられずにいる顔だった。


「先に言っておく。銀月七番は、これまで千人以上の冒険者を救った」


「はい」


「失血で死にかけた者、魔物に腹を裂かれた者、片足を失いかけた者。私の薬がなければ、彼らは死んでいた」


「はい」


「それを、五人が発熱したから止めると」


「はい」


 レオンの眉が動いた。


「君は、私の薬で助かった者の数を知っているのか」


「知りません」


「ではなぜ止める」


「五人の記録があるからです」


 レオンは笑った。怒りを含んだ笑いだった。


 けれど、その笑いは少しだけ震えていた。


 千人を救った薬が五人を倒した。


 その数の差で押し切りたいのに、押し切れないものが彼の中にもあるのだろう。


「記録。なるほど。神託で来た異世界の賢者は、帳面で薬を裁くのか」


「薬は帳面で裁くのではありません。帳面で見えるようにします」


「現場を知らない者の言葉だ」


「私は前世で、薬の現場にいました」


 レオンの目が細くなる。


「前世」


「あなたも転生者ですね」


 部屋の空気が変わった。


 レオンは椅子に腰を下ろし、初めてこちらにも座るよう手で示した。


「ツクヨの凡人枠か」


「噂には聞いたことがあるが、やっぱり実在していたのか」


「はい」


「私はA級だった」


「でしょうね」


 彼は少しだけ笑った。


「万能錬成。素材を解析し、最適な配合を導き出すチートだ。この世界の薬師が百年かける調合を、私は一日で作れる」


「素晴らしい能力です」


「皮肉か」


「いいえ。本当に」


 それは本心だった。


 強力な薬を作れる人は貴重だ。前世でも、一つの薬が世に出るまでに、どれだけの研究者と技術者が時間を注いでいるかを見てきた。薬剤師は、その努力の上に立って患者へ届ける仕事だ。


 私は薬を作れない。少なくとも、レオンのようには作れない。


 傷を塞ぎ、失血した冒険者を立ち上がらせる薬を作れる人間を、軽く見る理由は一つもなかった。怒りより先に、尊敬があった。


 ただし、万能錬成は調合を最適化する力であって、素材がどの倉庫で、どれだけ保管されていたかまでは教えてくれない。


 チートでも、過去は記録しなければ見えない。


 だからこそ、届け方を間違えたくない。


「レオンさん。私はあなたの薬を否定していません」


「止めたのに」


「薬の価値を守るために止めました」


「価値を守る?」


「はい。危ないと疑われた薬を、そのまま売り続ければ、倒れる人が増えます。そうなれば、助かった人がどれだけいても、『レオンの薬は怖い』という記憶が残ります」


 レオンの目が細くなった。


「全部を否定したいわけではありません。どの分が危ないのか、どこまでなら安全なのかを切り分けたいんです。問題のある一まとまりを止められれば、他の薬まで疑わずにすみます」


「私の薬を守るために、私の薬を止めたと?」


「そうです。薬は、効いた数だけでは守れません。疑われた時に、調べられること。危ない分を下げられること。それも薬の価値です」


 レオンは黙った。


 私は鞄から五人分の薬歴写しを出した。


「銀月七番を飲んだ患者五人です。症状、飲んだ時刻、購入場所、瓶の残液。全員、同じ週に販売されたものです」


「偶然だ」


「かもしれません」


「なら」


「偶然かどうかを調べるために、同じ週の瓶を集めています」


 次に空瓶を並べる。


 底の沈殿。色の違い。微かな匂いの差。


 レオンは最初、冷たい目で見ていた。だが三本目の瓶を手に取った時、その表情が変わった。


「……この匂い」


「分かりますか」


「月光草が古い」


 言った瞬間、レオン自身が傷ついたような顔をした。


 否定したかったのだと思う。


 私に言われたからではない。帳面に書かれていたからでもない。自分の手で作った薬の匂いを、自分の鼻が裏切れなかったからだ。


「ありえない」


 レオンは小さくつぶやいた。


「私の工房で、そんな初歩的なことが」


「初歩的なことほど、忙しい時に抜けます」


 彼は反論しなかった。


「材料記録はありますか」


 レオンは答えなかった。


「製造日ごとの材料記録。誰が調合したか。どの瓶をどこへ売ったか。残っていますか」


「私の頭にある」


「あなたが倒れたら、誰も追えません」


 レオンの顔から怒りが抜けた。


 それでも、プライドは残っている。


「私が倒れると?」


「人間なので」


「私はA級チート転生者だ」


「薬は、A級チート転生者の身体にも効きます」


 少しの沈黙。


 それからレオンは、苦い顔で笑った。


「嫌なことを言う」


「薬剤師なので」


 レオンがそこで黙ったのは、私の言葉に感動したからではない。


 彼自身が、瓶の匂いの違いに気づいたからだ。


 万能錬成を持つ彼の鼻と手が、古い月光草の気配を拾っていた。私の薬歴帳が示した線と、彼自身の職人としての感覚が、同じ場所を指していた。


 私を信じたのではない。


 彼は、自分の薬を信じているからこそ、その異常を無視できなくなったのだ。


    ◇


 工房の記録は、想像より少なかった。


 注文伝票はある。売上帳もある。だが製造記録はない。レオン自身の記憶と、弟子たちのメモに頼っていた。


 弟子の一人、トマが証言した。


 問題の週、月光草の納入が遅れ、倉庫の奥に残っていた古い束を使った。見た目は問題なかった。レオンは別件の高位ポーション調合で忙しく、銀月七番の下処理は弟子が担当した。


 悪意はない。


 だが、悪意がないまま薬害は起きる。


 私は作業台の上に紙を広げた。


「製造記録を作ります」


「今ここでか」


「今ここからです」


 項目を書く。


 製造日。


 製造番号。


 原料名。


 原料の仕入れ日。


 担当者。


 保管場所。


 出荷先。


 異常時の回収先。


 レオンは紙を見て、額を押さえた。


「ポーションを作る時間がなくなる」


「最初は遅くなります」


「それでは救える命が減る」


「記録なしで売れば、倒れる人が増えます。最終的には、記録がある方が時間も節約できます」


「どういう理屈だ」


「問題が起きた時、全員で記憶をたどり直す時間が減ります。誰が作ったか、どの材料か、どこへ出したかを探す時間が短くなる。回収も早くなる。早く止められれば、救える人も増えます」


「紙を書く時間で、薬を作れる」


「今日のような日は、紙がないせいで薬も人も止まります。記録は、後の時間を買うために書きます」


「君は極端だ」


「薬は極端です。効くか、害になるか。その境目を記録で探します」


「では、今後は私が全部確認する」


 レオンは即座に言った。


「弟子に任せなければいい。材料も、下処理も、出荷も、私が見る」


「それでは、あなたが倒れます」


「倒れない」


「人間なので倒れます」


 レオンの眉が動いた。


 同じことを二度言われるのは、かなり嫌だったらしい。


「責任感で薬は安全になりません。あなたの記憶ではなく、工房の手順にしてください」


「……私を信用しないのか」


「信用するから、あなた一人に背負わせません」


 レオンは長く沈黙した。


 炉の青い炎が、瓶の影を壁に揺らす。


 弟子たちは、遠巻きにこちらを見ていた。


 彼らにとって、レオンは師匠であり、英雄であり、ほとんど神話だったのだろう。師匠の手元を紙で縛る女が現れたのだから、面白いはずがない。


 レオンが視線を向けたのは、私ではなく弟子たちだった。


 トマは青ざめている。別の弟子は唇を噛んでいた。誰も悪意を持っていない。誰も師匠を裏切ったわけではない。ただ、手順がなかったせいで、失敗が一人の記憶と一人の手元に貼りつこうとしている。


 レオンはそれを見た。


 自分が全部を背負えばいい、という発想は、弟子を守るようでいて、次の失敗を弟子から奪わない。失敗の原因も、改善の手順も、全部レオンの頭の中に戻ってしまうからだ。


 彼が折れた理由は、私に言い負かされたからではない。


 薬を作る人間として、次の銀月七番を守る方法が、そこにしかないと分かったからだ。


 私はトマに声をかけた。


「このロットの月光草を刻んだのはあなたですか」


「……はい」


「名前を教えてください」


「責めるんですか」


「違います。次に同じ草を見た時、あなたが気づけるように記録します」


 少年は戸惑った顔で、名乗った。


 トマ。


 私は製造記録の担当者欄に、その名前を書いた。


「失敗を人に貼りつけるためではありません。次に手順を直すためです」


 トマは小さくうなずいた。


 レオンはそのやり取りを、黙って見ていた。


 トマの肩から、ほんの少し力が抜けた。


 その変化を、レオンは見逃さなかった。


 弟子を守るとは、叱らないことだけではない。失敗をなかったことにすることでもない。次に同じ場所で転ばないよう、足元に印をつけることだ。


 レオンの表情から、最後の強がりが少しずつ抜けていった。


「……私は、前世で何も作れなかった」


 不意に、彼が言った。


「病気がちで、部屋から出られなかった。学校にも、仕事にも、ほとんど行けなかった。窓の外を人が歩いているのを見て、あちら側に行けないまま終わるのだと思っていた」


 レオンは自分の手を見た。


 薬品焼けした、職人の手だ。


「こちらに来て、万能錬成を得た。初めて、自分の手で何かを作れた。初めて、人に待たれた。怪我人が私の薬で立ち上がるたびに、やっと生きている気がした」


 炉の火が、彼の横顔を照らした。


「銀月七番は、私にとってただの商品ではない。私がこちらの世界で生きている証拠だった」


 その声には、怒りより疲れがあった。


「だから、止められたくなかった」


「分かります」


「分かるのか」


「前世で、薬を出して感謝されたことがあります。疑義照会で止めて、嫌な顔をされたこともあります。どちらも薬剤師の仕事でした」


 レオンは目を伏せた。


「私の薬で倒れた者がいるなら、会わせてくれ」


「今は容体が安定していません。代わりに記録を見てください」


 私は薬歴帳の写しを渡した。


 彼は今度は笑わなかった。


「……字が汚いな」


「ミーナの初期記録です。内容は正しいです」


「そうか」


 レオンはしばらく写しを読んでいた。


 彼は一人ずつ名前を声に出した。


 商品名ではない。


 販売数でもない。


 薬を飲んだ人間の名前だった。


「五人とも、生きているのか」


「はい。今は」


 レオンは目を閉じた。


 長い息が、炉の音に混じった。


「助かった数で、倒れた者を消せると思っていた」


「消えません」


「だろうな」


 やがて、彼は立ち上がった。


「銀月七番の問題ロットを回収する。工房からも使いを出す」


「ありがとうございます」


「ただし、君も手伝え」


「もちろんです」


「それと」


 レオンは製造記録の紙を指差した。


「この面倒な紙、書き方を教えろ」


 私はうなずいた。


「そのために来ました」


 紙は、薬ほどすぐには効かない。


 だが、後からじわじわ効く。副作用は、だいたい眠気とため息だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ