第4話 赤い瓶と青い瓶
三日目の朝、取り違えは起きた。
正確には、起きかけた。
患者は十二歳の少女だった。名前はリタ。高熱で運ばれ、夜通しうなされていた。熱は少し下がったが、眠れていない。
治療師のベルナが、棚から青い瓶を取った。
「鎮静ポーションを少し飲ませます」
私は手元の薬歴帳から顔を上げた。
「それは魔力回復薬です」
「え?」
「鎮静ポーションは隣の棚です。瓶の色は似ていますが、底の印が違います」
ベルナの手が止まった。
部屋の空気も止まった。
青い瓶。
ほぼ同じ形。ほぼ同じ色。違いは瓶底に押された小さな月印だけ。忙しい朝、処置室で、泣き叫ぶ患者の横で見分けろという方が無理である。
「……本当だ」
ベルナは青ざめた。
「私、今まで何度も」
「今、止まりました」
私は静かに言った。
「今後止めるために、棚を変えます」
ベルナは唇を噛んだ。
責めたいわけではない。責めたところで瓶は似たままだ。人は間違える。疲れていればさらに間違える。だから、間違えにくい形にする。
前世では、これを医療安全と呼んだ。
たとえば薬のラベルは、専用の印刷機を使う。印刷した後に、内容をもう一度照合する機能まで付いているものだ。人が間違える前提で、機械と手順が作られていた。
こちらの世界では、まだ名前すらない。
◇
昼休み、私は薬棚の前に職員を集めた。
治療師、見習い、受付、運搬係。院長までいる。全員の顔に「忙しいのに」という文字が書いてあった。
私は赤いインクと青いインクを机に置いた。
「今日から、薬瓶にラベルを貼ります」
「ラベル」
「薬の名前、用途、一回量、注意点を書いた札です」
年配の治療師が眉をひそめる。
「見れば分かる」
「見て分かる人が休んだら、分からない人が使います」
「覚えればいい」
「覚えていても、人は間違えます」
「私は三十年、間違えたことがない」
その言葉は危ない。
前世でも聞いたことがある。ベテランほど、そう言う。自信は経験から来る。だが、経験は疲労や混乱に負ける。
それに、大事にならなかっただけ、気がつかなかっただけで、過去に間違えたかもしれない。
その言葉は飲み込んだ。
「三十年無事だったのは、先生の技術です。でも、仕組みではありません」
年配の治療師が黙った。
私は赤い瓶を持ち上げる。
「強い薬は赤ラベル。眠くなる薬は青ラベル。魔力に関わる薬は紫ラベル。外用、つまり塗る薬は緑ラベル。飲んではいけないものには黒線を入れます」
「色が多いです」
ミーナが小声で言った。
「多すぎると覚えられないので、まず四つです」
「四つでも多いです」
「薬の種類はもっと多いです」
「……頑張ります」
受付の女性が手を挙げた。
「ラベルを書くのは誰が」
「最初は私が書きます。ミーナさんにも手伝ってもらいます。今後は薬を作った人が書き、使う人が確認します」
「面倒ですね」
「はい」
また即答した。
職員の何人かが笑った。少しだけ空気が緩む。
「面倒なことを、患者さんの身体の中で起こさないために、棚の前で面倒を済ませます」
「なるほどね」
誰かがぽつりと言った。
別の職員が、自分の手元の瓶を見てうなずく。
「身体の中で起きてからでは、確かに面倒ではすみませんね」
少しだけ、こちらを見る目が変わった。
院長が腕を組んだ。
「棚の配置も変えるのか」
「はい。似た色、似た形の瓶は離します。よく使う薬ほど、目線の高さに置きます。危険な薬は鍵付きの棚へ」
「鍵付き」
職員たちがざわついた。
「薬に鍵をかけるのか」
「薬だからです」
私は鍵付き棚を開けた。ツクヨに頼んでおいた備品である。まさか転生初週にここまで役立つとは思わなかった。
「誰でも取れる状態は便利です。でも、便利すぎる薬は危ない」
ミーナが黒線のラベルを手に取る。
「この線、少し怖いです」
「怖くていいです。怖いものだと分かるようにします」
◇
ラベル貼りは、思った以上に時間がかかった。
薬の名前が一定していない。治療師によって呼び名が違う。同じ赤い回復薬でも、店によって濃度が違う。古い瓶には製造日がない。
最初の一時間で、私は軽く絶望した。
(前世の薬品マスター、つまり薬の基本データ一覧は偉大だった)
さらに、期限切れという概念も薄かった。
「これはいつ作った薬ですか」
「去年の冬だ」
「こちらは」
「先代院長の頃からある」
「捨てます」
年配の治療師が本気で目をむいた。
「高価な薬だぞ」
「中身が変わっている可能性があります」
「変わっていなければ使える」
「変わっているか分からない時点で、患者さんには使えません」
高い薬を捨てるのは苦しい。前世の病院でも、期限切れ薬の廃棄は毎月嫌な作業だった。だが、古い薬をもったいないからと使う方が、もっと高くつく。
命で支払うことになる。
もちろん、この世界に薬品マスターなどない。あるのは瓶と記憶と、治療師たちの経験だけだ。
だから、一つずつ聞く。
「これは何ですか」
「火傷用の軟膏」
「飲み薬ではないですね」
「飲む馬鹿はいない」
馬鹿だから間違えるのではない。そういう思い込みこそ危ない。
そう言いかけて、飲み込んだ。
この世界には、まだ医療安全という考え方がない。ここで相手を馬鹿にしたら、仕組みの話まで届かなくなる。
「飲む馬鹿が出ないように、外用と書きます」
「これは?」
「強心薬。心臓を動かす」
「危険量は」
「多く飲むと死ぬ」
「赤ラベルで鍵棚です」
「これは?」
「眠り薬。眠れない患者に」
「子供には」
「半分」
「体重で変えましょう」
「体重?」
そこから体重計の話になった。
こちらの治療院では、患者の体重を測らない。子供も大人も「少し」「半分」「一口」で薬を出している。
私は椅子に座りたくなった。
異世界に来て三日目で、聖剣より体重計が欲しくなるとは思わなかった。
小児薬用量の前では、聖剣もただの長い金属である。
けれど座っている暇はない。薬棚は目の前にある。
ミーナが私の顔を見て言った。
「マオさん、大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
「え」
「でも、やります」
ミーナはなぜか笑った。
「薬剤師って、正直なんですね」
「嘘をつくと投与量がずれます」
夕方には、薬棚の見た目が変わっていた。
赤、青、紫、緑。ラベルの字は不揃いだが、少なくとも無言の瓶ではなくなった。危険な薬は鍵棚に入った。似た瓶は離した。
リタの母親が、眠った娘の横で頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私は間違いかけた薬を止めただけです」
「それで十分です」
その言葉は、思ったより胸に残った。
薬剤師の仕事は、何かを劇的に起こすことではない。
起きるはずだった事故を、起きなかったことにする仕事だ。
だから、誰にも気づかれないことが多い。
だが今日は、一人が気づいてくれた。
薬棚の赤いラベルが、夕陽を受けて少しだけ光っていた。




