第3話 薬歴のない治療院
翌朝、私は治療院の受付に机を置いた。
置いた、というより置かせてもらった。院長の許可は出たが、職員たちの視線は冷たい。回復魔法の順番を待つ患者も、冒険者も、何か面倒な役人が増えたような顔でこちらを見る。
まだ机しか置いていないのに、この嫌われ方である。
薬剤師としては、わりと順調な滑り出しかもしれない。
机の上には薬歴帳。
横に羽ペン、インク、砂時計、そして小さな札。
――薬を飲む前に、ここで確認。
ミーナが札を見て、心細そうに言った。
「マオさん。これ、みんな読んでくれますか」
「読まない人もいます」
「じゃあ駄目じゃないですか」
「そのために人が立ちます」
「誰が」
私はミーナを見た。
ミーナが自分を指さした。
「私ですか」
「はい」
「私、見習いなんですけど」
「見習いだからこそ、患者さんに聞けます。偉い人が聞くと、相手が緊張して嘘をつくことがあります」
「薬を飲んだかどうかで嘘をつくんですか」
「つきます」
前世では、毎日のようにあった。
飲み忘れたとは言いづらい。勝手に増やしたとも言いづらい。家族の薬を飲んだ、酒と一緒に飲んだ、民間療法の薬草茶を併用した。本人に悪気がなくても、薬歴に書かなければ見えないことがある。
人間は、薬と酒と財布の話になると、急に申告が控えめになる。
前世の薬局で得た、あまり嬉しくない知見だった。
「聞き方は簡単です。責めない。驚かない。『飲みましたか』ではなく、『最後に飲んだのはいつですか』と聞く」
「どうしてですか」
「飲みましたか、だと、はいかいいえになります。最後にいつ、だと、相手が思い出します」
ミーナは真剣な顔でメモを取った。
素直だ。良い見習いである。
最初の患者は、腕を骨折した冒険者だった。
年齢は三十代。名前はドラン。熊のような体格で、腕には包帯が巻かれている。回復魔法で骨はつながりかけているらしいが、痛みが強く、顔をしかめていた。
「薬の確認をします」
「薬? 痛み止めをくれ。早く」
「最後に何を飲みましたか」
「昨日、宿で赤い痛み止めを二杯」
ミーナが帳面に書く。
「二杯、ですか。瓶ではなく」
「コップで」
私はペンを止めた。
「その薬、誰から」
「同じ宿の冒険者だ。余ってるからって」
「名前は」
「知らん」
前世の薬局なら、ここで頭を抱えるところだ。
他人の薬を飲むな。用量不明の薬をコップで飲むな。痛み止めを酒場で分け合うな。
言いたいことは多い。だが、全部言うと患者は逃げる。
「分かりました。今日は追加の痛み止めを減らします」
「はあ? 痛いんだぞ」
「昨日飲んだ薬が残っている可能性があります。多く足すと、眠気や呼吸の問題が出るかもしれません」
「そんなこと今まで言われたことがない」
「今、言いました」
ドランは不満げだったが、院長が横から口を挟んだ。
「マオの指示に従え。昨日、若い冒険者が倒れた」
「ルカか。あいつ、ポーションを飲みすぎたって聞いたが」
「そうです」
私が答えると、ドランは黙った。
冒険者同士の噂は速い。ルカの件は、こちらが思うより広まっているようだった。
「……じゃあ、少なめでいい」
「ありがとうございます。痛みが変わったら、すぐ教えてください」
「痛いのは我慢しろってことか」
「違います。効きすぎても危ないので、効き方を見ます」
ドランは首をひねった。
「薬って、面倒なんだな」
「はい」
即答すると、ミーナが笑いそうになって咳をした。
◇
昼前、私は薬歴帳とは別に、もう一冊の帳面を開いた。
表紙には、薬品聞き取り表、と書く。
「薬歴帳とは違うんですか」
「違います。こちらは薬そのものの資料です」
治療院の棚には、赤い痛み止め、青い胃薬、緑の魔力回復薬、紫の鎮静ポーション、黄色い強心薬が並んでいる。だが、どれも正式な薬品名、薬効、標準量、注意点が曖昧だった。
前世の知識だけで決めつけてはいけない。
魔力回復薬は、前世の栄養剤ではない。鎮静ポーションは、睡眠薬と同じとは限らない。胃薬に見えるものが、本当に胃を守る薬なのかも分からない。
だから、一つずつ逆算する。
誰が飲んだか。
何に効いたか。
どれくらいで効いたか。
何が起きたら危ないか。
治療師に聞き、患者に聞き、薬歴に残った反応を拾う。分からないところは、分からないと書く。空欄をごまかさない。
「図書館はありますか」
「王都大図書館ならあります。薬草図鑑も、古い治療師の手控えもあるはずです」
「では、閉院後に行きます」
「今日ですか」
「今日です」
薬剤師は、薬を知っている人間ではない。
薬を調べ続ける人間だ。
この世界の薬は、まだ私の薬ではない。なら、ここから学ぶしかない。
◇
薬歴帳の効果は、その日の午後に出た。
派手ではない。
神の奇跡のように光が降ったわけでもない。
ただ、一人の老人に同じ薬が二度出るのを止めただけだ。
老人は胃痛を訴えて治療院に来た。治療師の一人が胃薬を出そうとした時、ミーナが薬歴帳をめくって声を上げた。
「待ってください。この方、朝にも同じ薬を飲んでいます」
治療師は眉をひそめた。
「朝? 誰が出した」
「ベルナさんです。ここに記録があります」
ベルナという女性治療師が、奥から顔を出した。
「ああ、出しました。朝、胃が焼けるって言っていたので」
「今も同じ症状なら、追加で良いだろう」
別の治療師が言う。
私は老人に向き直った。
「朝の薬を飲んだ後、痛みはどうなりましたか」
「少し良くなった。でも昼にパンを食べたら、また痛くなって」
「黒い便は出ましたか」
老人が目を丸くした。
「……出た。なんで分かる」
治療師たちの表情が変わる。
胃薬を足す話ではない。出血の可能性がある。回復魔法で一時的に痛みを消せば、かえって発見が遅れるかもしれない。
「院長、診察をお願いします。薬で隠さない方がいい症状です」
エリオット院長はすぐに動いた。
老人は奥の処置室へ運ばれた。結果、胃の内側に傷が見つかった。治療そのものは回復魔法で可能だったが、痛み止めと胃薬を重ねていれば発見が遅れたかもしれない。
夕方、ミーナは薬歴帳を抱えて呆然としていた。
「帳面を見ただけで、助かることがあるんですね」
「見ただけではありません。書いたから見えました」
「書くの、大変です」
「はい」
「でも、書かないと見えない」
「はい」
ミーナは帳面を撫でた。
「薬歴帳って、薬の台帳なんですね」
「患者さんの台帳です」
「違うんですか」
「薬を見るためではなく、人を見るために書きます」
ミーナはしばらく考え込んでいた。
その顔を見て、私は少しだけ安心した。
薬剤師は一人では足りない。
この世界に必要なのは、私の知識だけではない。知識を毎日の手順に変える人たちだ。
薬歴帳の二日目。
まだ文字は汚く、空欄も多く、薬の名前は揺れている。
だが、そこには確かに、人が助かるための線が引かれ始めていた。
その日の最後、ミーナは受付の机に小さな札を置いた。
――さっき飲んだ薬も、前に飲んだ薬も、教えてください。
「長いですか」
「少し長いです」
「でも、『飲んだ薬を教えて』だけだと、前の薬を言わない人がいそうで」
私は札を見て、うなずいた。
「その気づきは正しいです」
ミーナは嬉しそうに笑った。
薬歴帳は、帳面だけでは完成しない。聞く人の耳と、聞かれる人が答えやすい言葉が要る。
初日の見習いは、もう少しだけ薬剤師に近づいていた。




