08. 永訣の線路・下
きんと空気が凍てついた気がした。
やっぱり見抜かれたか。にしても、本当に直球だなこいつ。
怪盗ジャックのアジトは風の大陸にあると言われている。ジャックの犯行が最も多いのも風の大陸だ。方舟の者になれたら、僕は風の大陸行きを志願するつもりだった。
「そうだと言ったら?」
一瞬、イブニの顔から全ての色が失せた。ぎゅっと拳を握る音がして、ワインレッドの瞳が赤く燃え上がる。
「ジャックと関わるべきじゃないと言っただろう」
「言ったね」
「あいつと関わっても不幸にしかならない」
「だろうね」
イブニがジャックを詰っても、もう怒りは湧いてこなかった。ただただ申し訳ないという気持ちだけが募る。
「方舟の者の仕事だってかなり危ないんじゃないか。マリルーネで一緒に観た劇……えーと」
「『金銀花』ね」
「それだ。風の大陸はまだ情勢が不安定だから、あの劇の騎士みたいになるかもしれない。そもそも、方舟の者になって風の大陸に行けたとして、ジャックを追うことができるとは思えない」
百年革命の混乱が続く風の大陸は、今最も不安定な大陸だ。過激化した革命軍の残党の一部がヴァイキングと化していて、物資狙いで貿易船が襲われることも多いから、商人たちも近づきたがらないし、旅人の出入りも厳しく制限されている。方舟の者くらいでなければ、風の大陸の地を踏めないのが現状だ。
が、風の大陸行きを志願する方舟の者も激減しているらしい。革命中は方舟の者が拘束されていた時期もあったと聞くし、皆命は惜しいのだろう。
「全部分かってるよ。学校に行ってない僕がどれだけ勉強に苦労するかってこともね」
「……勉強は問題ないだろう。これから覚えていけばいいんだから」
「……ありがとう。昔の僕、良いこと言ったよね」
僕がそう言うと、イブニはつと顔を歪めた。「ご両親は」といつかと同じことを言い出しかけ、「違うな」と首を振る。
「前に言われた通り、俺はアスターの好きなものを理解できていないし、そのことがアスターを傷つけるのはもう分かった。その上で頼む。ジャックを追いかけるのをやめてくれ。俺はお前が不幸になったら辛い。全部俺のせいにしていいから、ジャックを諦めてくれ」
イブニは泣き出しそうな顔をしていた。
街を出ると決めてから、初めて心が揺れる。ズルい説得だ。いつもいつも誰かのせいにしていた僕には効果てきめん。以前の僕だったら、頷いていただろう。選択に責任を負うのは重いから、イブニがその重さを引き受けてくれたら楽といえば楽だ。
だけど、イブニの手を取った線路の先で不幸になったいつかの日、僕は「お前のせいで」と、イブニを詰るだろう。その時、僕はこの世で最も醜悪な顔をしているに違いない。
街を出よう、と心から思った。皮肉なことに、イブニの懇願は僕が決意を固めきる最後の後押しになった。首を振る代わりに、僕は尋ねた。
「イブニは僕が変だと思う? 犯罪者に心を残して、追いかけたいって思ってる。追いかけてどうしたいのか、自分でも分からないのに」
雲が流れ、半月の光が明滅する。ホームのざわめきが大きくなった。時計を横目で見ると、発車時刻が迫っている。
歓声の中、イブニは僕の意志が変わらないことを悟ったらしかった。彼は絶望に顔を曇らせながら、かろうじて聞き取れる程度の声で答えた。
「お前が変だとは思わない。でも、それは俺が普通じゃないからだ。アスター、普通が一番良いんだ」
ソニアに化けたジャックに容姿を褒められた時、心が震えてしまった。僕が生まれた意味はこの瞬間にあると思ってしまった。
「正しい人生」は今僕が生きるこの人生だ。だけどやっぱり、怪盗との二度の出会いで、僕の人生のレールは致命的に切り替わっていたのだと思う。決して特別な人生ではないけれど、この街には馴染めない人生に。最初はただ街から出る口実として怪盗を求めた。でも、あの夜感じた高揚感もまた、招待状を送られてから切り替わり、ジャックを想い続けた七年の先にあったものだ。
自分の部屋に、騎士団の詰所に閉じこめられている間、僕は誰かから手を伸ばされるのを待つしかできない無力な子供だった。何も知らされないまま庇護され、自分も周りも恨みきった時、僕の背には翅が生えた。怪盗に摘んでもらえなくても、自分で飛べるだけの翅が。
もう無力なままは嫌だ。親方みたいな知識が、カラルクみたいな強さが欲しい。
そして、彼らのような大人になれたら、怪盗にもう一度会いたい。恨み言を言いたいのか、抱きしめたいのか、感謝したいのかは自分でもよく分からない。ただ、対面した時、自らの時間が結実した時に覚える、あの圧倒的な幸福感を得られると信じている。
僕は、空想から落ちてきた少年の、縁が赤くなった目を見返した。
「僕、自分がダメな奴だって思ってた。父さんとも母さんとも価値観がどうしても合わなかったから。でもお前にとっては、僕の考えこそ普通ってことだよね。それって最高じゃん」
会話が成り立っていたのかそうでないのか、僕らが最後に交われたのか、すれ違ったままだったのかは、もうどうでも良かった。
アームストロング号のドアが開き、中で一礼する制服姿の先輩たちが見えた。
時間だ。
イブニはベンチに尻がくっついたみたいに動かない。彼の手は、僕が貸したコートの襟をひしと掴んでいる。コートを返さなければ、僕が街に留まるのではないかと、ありえない希望に縋るように。
ピイイイイイイイイイイ!
僕は鞄を引っ掴んで、ベンチから立ち上がった。
「そのコート、お前にあげる。イカしてるから、デートとかにも使えるし。合いそうな他の服を給金で買いなよ。あと、親方にちゃんとご飯食べさせてやってね」
言いたいことだけ言って、イブニの反応を待たず、僕は列車に乗りこんだ。
清掃や整備で何度も入っているのに、乗客として乗る列車の中は、どこか新鮮に映った。行き届いた掃除や座席の柔らかさに、僕は乗客として満足し、元駅員として安心した。きっとこの列車はこれからも多くの人と荷を運び、長く愛され続けるだろう。
切符に刻印された番号の席に座る。幸先の良いことに窓際の席だった。鞄を床に置き、ガラスにうっすらと映る自分の顔が邪魔だなと思いながら、窓枠に肘をつく。いつか貨物車の中で見た流星をまた見れるだろうか。
いや、あれは諦観していたところに、思いがけず街の外に出れたという感動が見せた景色だった。自分で外に出れると知った僕ではもう見れないだろう。
思えば、初めて外に出してくれたのはイブニだったな。とんでもない方法だったけど。
窓に映りこんだ僕は静かに笑っていた。列車に乗る時、いつも一緒だったイブニはいない。誰も彼も振り落として、僕は生まれ育った街を出ていこうとしている。
客が乗りこむたびに僅かに窓枠が軋むのを感じながら、僕は両親とのやり取りを思い出していた。
ネリネと別れ、親方と和解した日の朝、僕は自分の両親と話し合いの場を設けていた。方舟の者になりたいから、家業は継げないし、この家からも出ていく。僕が自分の意志を伝えると、母親はわっと顔を覆った。
「家を出るなんて、寂しいこと言わないで」
母親は何度もそう言って泣き、僕の意志が揺らがない様子を見て取ってまた泣いた。しまいには見かねた父親に言われて席を立ち、部屋を飛び出していく。
胸が張り裂けそうだった。この光景を自分の手で引き起こすことを恐れて、怪盗に盗んでほしいと願ったのが全ての始まりだった。何て浅ましい考えだと今では思うけれど、嘆き悲しむ母親を見るのはやはり堪えた。
「アスター……」
カマキリの斧みたいな父親の目が僕を見た。
父親は難敵だった。父親は、僕が親方やカラルクを通して、メルポメネ侯爵家に唆されたと思いこんでいたのだ。時に理屈っぽく、時に感情的に、侯爵家の口車に乗ることがいかに危険か、家業を継いで職人の道を選んだ自分がどれだけ幸せか、僕に説いてきた。僕はその一つ一つに耳を傾け、言い返した。怒声を浴びせられても、カラルクや親方の悪口を言われても、感情的にならずに耐え、淡々と。
僕と父親は言い合いを続けた。ずっと前から、僕も、もしかしたら父親も、二人の間にある大きな溝に気づきながらも目を逸らし続けた。時間を稼いでいる内に、溝が自然に埋まってくれることを期待した。
結局、溝は埋まらなかった。方舟の者になってもロクなことはないだろう、と父は唾を飛ばし、職人になっても満たされないだろう、と僕は言い張る。どうしたら僕が幸せになれるかなんて、誰も正解を持っていないのに、さも知り尽くしているという顔で主張をぶつけあう。傍から見れば、まるで滑稽な喜劇の一場面だ。
でも、僕は悲しかった。自分の主張が容れられないことよりも、父親の主張をいくら聞いても、職人になる気になれない自分が恨めしかった。父親のようにならないと言うたび、曲がりなりにも愛してくれた父親の人生を否定しているような気持ちになった。
どうして、幸せに共感することは、時に不幸に共感するより難しいのだろう。
長い長い言い合いの果てに、方舟の者になるというのが僕自身の意志であることは、父親も理解したらしかった。会話が途切れた時、僕は肩で息をしていた。両親に自分の気持ちを真っ向からぶつけたのはいつぶりだろう。
「本当にお前の意志なんだね……。反抗期では、ないんだね」
「……うん。僕は方舟の者になりたい。この家から出て行かせてください」
父親は、顔から笑みを消し、「育て方を間違えたな」と首を振った。
「もう好きにすればいい」
嘘だ、と分かった。
好きにすればいい、自分の後を継がなくていいなんて、父親は思っていない。
僕が父親に言わせてしまった言葉は、僕の胸を深く抉った。
いつも伸びていた背を丸め、父親は部屋から出ていった。その後ろ姿は一気に何歳も老けこんだように見えた。
母親の細い泣き声が響いている。言い合いの最中に父親が座っていたロッキングチェアは、しばらく揺れていたけれど、やがてその動きを止めた。
その日の夜、僕は荷物をまとめて生まれ育った家を出て、しばらくカラルクの家に泊めてもらった。




