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04. 羽化の夜

 陰気な雲の蓋で月と隔離され、冷気と街と僕が一緒くたに閉じこめられた夜だった。


 手すりから身を乗り出して見下ろした街に、明かりの灯った窓は少ない。僕の家も闇の中で眠っている。僕の動きに過敏になっている両親の目を、どうやってかいくぐったのかは思い出せなかった。


 静かだった。冬になると、春夏秋は毎晩のように騒いでいた虫たちは何処かに姿を消す。いないのは虫だけでなく人間もだ。大陸一番の美男がたった一人、孤独に冬の風になぶられている。

 大陸一番の美男ね、と胸に浮かんだ言葉に、唇を歪めた。


 自分を花だと思って生きてきた。


 自分より充実した人生を送る人は多くいるけれど、そんな人たちでも足を止める美貌が拠り所だった。美しく在れば、誰かに摘んでもらえると思った。美貌を蒐集する怪盗に見出され、自惚れはますます強くなっていった。自分はたくさんの()に群がられる、特別な花なのだと信じた。


 だけど、怪盗に自分の本当の価値を教えられ、ようやく気づく。

 侯爵家の出身で、大陸に新技術を導入した、ジルベール・S・メルポメネ。

 美貌に振り回される薄幸の女性、ソニア・デュフーリ。

 物語から抜け出してきたような怪盗ジャック。

 ……空想から落ちてきた、イブニ・オンスゴット。


 花とは彼らのような特別な人を指すのであって、僕は所詮彼らにたかる虫けらでしかなかった。取るに足らない、花ですらない僕を誰が摘むというのだろう。


 ——————綺麗な顏。


 僕は外の世界に憧れ、正しい人生がそこにあると信じたけれど、今まで生きてきた人生こそが、僕にふさわしい正しい人生だった。どうかしていた。犯罪者に焦がれる僕なんて僕じゃない。親方に似合わない気遣いをさせるなんて僕じゃない。育ててくれた両親を悲しませるなんて僕じゃない。そんなの正しくない。現実からズレた僕が壊れて良かった。


 ——————綺麗な顏。


 なのにどうして、僕はあの時、世界で一番幸せだと思ったんだろう。

 憧れはあったけれど、ジャックはあくまで「やむを得ず」街から出るための手段だったはずなのに、いつから僕はジャックを目指して走っていたんだろう。


 ——————綺麗な顏。


 あの瞬間、ジャックにとって僕は特別だっただろうか。


 魔法がロクに使えない僕が嫌いだ。言いたいことを素直に言えない僕が嫌いだ。捻くれていて性格が悪い僕が嫌いだ。

 大切な人をことごとく不幸にする奴を、心の真ん中に置いている僕が大嫌いだ。


 怪盗を希求する気持ち、周りの人に応えたい気持ち、その二つは両立も制御もできなくて、板挟みの苦しみだけが募っていくから、どちらかを失くしてしまいたかった。なのに、ジャックが僕を攫ってくれないと分かってなお、僕は苦しいままだ。

 

 僕に残っているのはどこにも行けない絶望だけ。

 憧れの人に顧みられない無価値な自分だけ。

 

 現実からズレた僕は正しくなくて、誰にも受け入れられない。

 現実に戻された僕は劣等感しかなくて、自分を受け入れられない。

 

 もう僕は、僕であることに疲れてしまった。


 耳元で鳴っていた木枯らしの音が消えた。僕は屋上の手すりを乗り越え、ふらりと宙に身を躍らせた。

 黄金像にはなれなかったけれど、これで終われると思った。


 ピイイイイイ!


 近づく街の闇を無感動に眺めている時、その音を聞いた。


 無理矢理顔を上げると、闇夜を切り裂いて走る、アームストロング号の光があった。


 ——————よそへ行くために、必要なのは一歩だけだ。


 誰かの声を聞いた気がした。天を覆う雲が切れ、アームストロング号が征く線路を、月の光が舗装する。真っすぐな、光の道。

 ジャックともう一つ、僕の胸の真ん中にあったもの。


 一歩踏み出せば、外に出れる。

 でもそれは、自分で一歩踏み出さないとどこにも行けないということ。


 ——————魔力を従えろ。


 ピイイイイイ!

 気づけば、銀の列車に向かって、がむしゃらに手を伸ばしていた。背中が燃えるように熱くなる。言葉が全身の隅々まで広がっていく。血流と平行に熱いものが流れ巡って脳天に達した時、僕は叫んでいた。


私は分析する(I analyze)!」


 次の瞬間、僕は背中に花開いた翅で空を飛んでいた。



 信じられない心地だった。


 こわごわと背を振り返ると、そこには冬の月あかりを薄く削いで作ったみたいな、繊細な蝶の翅があった。凍てついた空気の中を、翅から零れた鱗粉がきらきらと舞う様は、夢のように美しい。


 地上で見上げる時より少し大きな月が、僕を照らしている。近づいた光を眩しく感じた瞬間、僕はようやく自分が固有魔法を発現させたことを実感した。


 身体の外側は外気に晒されて指の先まで冷え切っているのに、魔力が巡る内側は熱い。頭の中が興奮と混乱でごたまぜだ。僕はしばし放心状態で宙を漂い、しばらくしてから、飛んでみたいと思った。


 おそるおそる、翅が動くところを想像した。魂に刻まれた紋は僕の意思を正確に翅に伝え、僕の身体は前に押し出される。発現するまでの苦戦が嘘のように、僕はすんなりと新たな手足の使い方を覚えた。本物の蝶も蛹から出てすぐに飛び立つから、当然と言われればそうなのかもしれない。


 しばらくの間、無心で飛んだ。雲が流れる夜空を、進んで、戻って、回る。繰り返しているうちに、理由の分からない涙が溢れてきた。涙と一緒に喜びも悲しみも流れていって、その分だけ身体が軽くなっていく気がした。


 固有魔法を使えるようになりたいと言いつつ、内心諦めていた。職人の街で生まれた者は、魔力受容量が小さいから無理だという卑屈な言い訳は、僕の芯にも刻まれていた。

 だけどどうだ。僕は魔法を使えた! しかも虫———「蝶」の再現魔法とは、何とも僕らしい。


 涙で歪んだ視界が元に戻ってから、街を見下ろした。

 アームストロング号が出ていき、再び静寂に包まれた街を月が照らしている。街を囲む城壁、ギルド本部、時計台。迷路のような裏路地も、空からなら一望できた。生まれ育ち、抜け出せないと信じた街の何とちっぽけで、そして隅々まで知っていることだろう!


 そして、さっきは気づかなかったけれど、街は暗いばかりじゃなかった。ギークの駅を中心に、オレンジのガーベラみたいな、温かな光が寄り集まっている。飲み屋、宿屋、銀行。かつて駅の明かりに群がった虫たちが、光る側に回っている。アームストロング号が、親方が連れてきた光がこんなにも大きくなっていたことを、僕は思い知った。


 簡単なことだったんだ、と悟った。誰かに摘んでもらう必要なんてなかった。僕は虫で、虫なら自分で飛んでいける。僕は僕だからこそ、空を飛べるのだと。


 僕は、羽化したこの夜を生涯忘れないだろう。

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