05. ボン・ヴォヤージュ
翌日、革製品を扱う店の前でネリネと出くわした。購入したらしき大きな鞄を背負い、他にも本やら服やら抱えて大荷物だ。アスターお兄ちゃん、と声をかけてきた彼女は、思いもよらぬことを言い出した。
「私ね、この街を出ようと思うのお」
昔スカウトしてくれた学者の元で勉強をして、魔法書記官になりたいのだという内容を、ネリネは柄にもなく早口で語った。
「『デュフーリ』を継ぐんじゃなかったの?」
僕が尋ねると、ネリネは一瞬だけ痛みを堪えるような顔になり、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
彼女は相変わらず、姉の黒いコートを着ていた。
「その夢、やめることにしたのお」
魔法書記官とは、風の大陸から伝来した「魔法筆記」を修めた者の総称で、本来魂にしか刻まれない魔紋を物体に転写する職業だ。街の時計台やアームストロング号の魔紋も、魔法書記官の手によるものである。
魔法書記官は、魔法工芸並びに魔法工学の最先端を担う花形職ではあるけれど、幅広い魔法の知識と応用が求められる上に、書き出した魔紋が暴走して命を落とすことも珍しくないと聞く。
魔法書記官になるには生まれつきの素質がいる。ネリネのように、筆記具を再現する固有魔法を持っていることだ。だから、ネリネが家業を継ぐと言い出した時、学者たちが大挙して「デュフーリ」に押しかけ、ネリネや両親を連日説得した。希少な才能を活かせる道を選んだ方が、出世もできて給金も思うまま。あなたにとってもご両親にとっても幸せだと。
それでも、ネリネは自ら定めた未来図を貫かんとし、その意を汲んだ両親も、娘を後継者として厳しく育てた。なのに、今になってその全てをひっくり返すと言うのか。
「ソニアのために?」
「うーん、そうだけどお、それだけじゃなくて……皆がずっと悲しいままは嫌だから……。自分にできることは何でもしたいなあって」
ソニアら黄金に変えられた被害者たちは、イベリス侯爵領に運ばれていった。
ソニアたちにかけられた魔法は複雑で、誰にも解くことはできなかった。同じように黄金像だったイブニのように、時間経過による魔紋の劣化で解けることはあるかもしれないけれど、いつになるかは分からない。そもそも、イブニとソニアたちでは、魔法の発動者が違う上に、イブニにかかった魔法にジャックがかなり手を加えたらしいこともあって、イブニの例はあまり参考にならないということだった。黄金化を解けたとして、溶かされた彼女たちがどうなるのかも不明だ。
イベリス侯爵家はメルポメネと同じ家格の大貴族で、彼らが治める地は鉱石系の魔法の研究が盛んだ。ギークの街に置いていても元に戻す術はないから、鉱石魔法の権威の力を借りるしかない。ネリネの両親はそう説得されたらしい。
でも、イベリス侯爵は善意でソニアたちを引き取ったんじゃない。ソニアたちにかけられた未知の魔法を研究するために、いわば実験体として連れ去ったのだ。
ソニアはもう帰ってこないも同然だ。僕はもちろん、カラルクや親方でさえも何もできなかった。
ネリネが考えていることは読める。魔法書記官は引く手あまたの仕事だから、侯爵家に近づくチャンスだってあるかもしれない。あわよくば、魔法を上書きして、ソニアにかけられた魔法を解けるかもしれない。だけど、
「ソニアがここにいたら、やめとけって言うんじゃないの。勉強難しいだろうし、貴族の奴らも絶対ヤバい。親方が百人いる職場想像してみ? ロクなことないって。ソニアはお前にそんな苦労してほしくないじゃないかな」
ソニアがネリネに向ける視線を思い出す。まだ誰の足跡もついていない雪原を見る時のような、いっぱいの感動と少しの恐れが混じって揺れていた。ネリネへの印象が変わった今なら、ソニアはネリネの静かな気高さを愛し、同時にそれを汚すことを恐れていたのだと分かる。
「謝るよお。お姉ちゃんの嫌がることをしちゃってごめんねって。何度だって。謝るってことは、またお姉ちゃんに会えているってことだから、私は嬉しいよお」
くしゅりと、溶けゆく雪のように、ネリネは笑った。
「心配いらないよお。お父さんとお母さんとお姉ちゃんのためなら、私はずっと幸せだものお」
「……そっか」
心の底からそう言い切れるネリネが眩しくて、憎らしかった。
思えば、僕はこいつに対して、騎士団の詰所で覚えた敗北感をずっと抱え続けていたのかもしれない。誰かに嘱望される才能も、自分の道を貫く強さも、応援してくれる親も僕にはないものだったから。
そして今、また負けたと思った。きっと僕は一生勝てないまま、こいつのことが嫌いなままなのだろう。
イブニお前見る目あるなあ、とネリネに聞こえないような声で僕は呟いた。
「荷物貸して。こけそうだし、家まで運んであげる」
「ありがとお。でも、自分で持って帰るよお。これからは全部自分でやらなきゃだから」
そう言って僕の横を通り抜けたネリネは、数歩も歩かないうちに盛大に転んだ。言わんこっちゃない。だが、彼女はすぐに起き上がって、転がった荷物を集め始める。僕は手を貸さず、彼女が荷物を全て拾い終えるまで待った。
自力で立ち上がったその小さな背に声をかける。
「ネリネ。——————元気で。ボン・ヴォヤージュ」
擦りむいた手のひらにふうふうと息を吹きかけていたネリネが、弾かれたように振り返った。つぶらな瞳をヒイラギの実みたいに赤くして、二度と会わないであろう幼馴染は、道の端まで届きそうな大声を出した。
「お兄ちゃんこそ、ボン・ヴォヤージュ! 大好きだったよお! 優しくしてくれて、ありがとう!」
本当に最後の最後まで、空気の読めない奴だ。




