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02. 誘い

 家に帰ると、玄関に飛ぶようにやって来た母親に出迎えられる。空のバスケットを受け取り、母親はどこか媚びるように僕を見上げた。


「カラルクさんの容態はどう?」

「元気そうだったよ。もうすぐ退院できるんじゃない」

「……親方さんは?」

「見舞ってないから知らないけど、回復してはいるみたいだよ」

「そう……。良かったわね、アスター」


 何が良かった、だ。機嫌を損ねまいとする猫なで声がウザくてしょうがない。まだ何か言おうとする母親の横をすり抜け、自室のベッドへ直行。だけど、自室にこもっても心が安らぐわけではない。板が打ちつけられた窓が目に入るたび、憂鬱な気分になるからだ。


 ベッドでぼんやりしていると、階段を上るひそやかな足音が聞こえた。足音は階段を上りきると僕の部屋の前で止まり、動かなくなった。

 見えないけれど、ドア一枚挟んで何をするでもなく、ただ僕の部屋から聞こえてくる物音に耳をそばだてる母親の姿が細部まで思い描ける。凄まじい生理的嫌悪感を掻き立てる光景。綿毛みたいに軽やかな僕の髪の毛が抜け落ちそうだ。


 僕がわざと大きく寝返りを打ち、ベッドを軋ませると、ほっと息を吐く音の後、今度は遠ざかっていく足音がした。


「ジャックに操られた」


 両親にはそう説明した。ソニアに化けたジャックが窓を叩いたところまでは覚えているけれど、その後の記憶は曖昧で、気づいたら騎士団の詰所でカラルクと向かい合っていたと。

 この話を両親が信じたかは分からない。ジャックの事件以来、同じ屋根の下で暮らす上で必要最低限の言葉しか交わしていないから、確かめようもなかった。


 家の中に料理の匂いが漂いだした。鼻の奥を刺激する香りからして、今日の夕飯はカレーらしい。



 ヤゴのようにのろのろと日々を泳ぐ僕の元に、イブニを連れたネリネが訪れたのは、カラルクの見舞いから一週間が経った冬の昼下がりのことだった。両親はちょうど部品の買いつけで留守にしていた。


 玄関でネリネと対面した僕は、すぐに彼女だと分からなかった。焼きたてのパンみたいだった頬がこけ、げっそりと痩せた彼女は別人のようだった。


「アスターお兄ちゃん、ジャックさんに会いに行こう」

「は……?」


 ジャックは騎士団の厳格な監視下に置かれている。一般人が、ましてや被害者の身内であるネリネが面会するなんてできないはずだ。


「あのね、ジャックさんがイブニさんになら、黄金の魔法の解き方を教えてくれるって言っているらしいのお。だから、どうしても聞きたくて。イブニさんや騎士の方にも無理をたくさん言って、一緒に話を聞かせてもらえることになったのお」


 ネリネは彼女らしくもない早口でまくしたててくる。頬が萎んだことで前に押し出されたその瞳は、異様な光をたたえていた。


「アスターお兄ちゃんもジャックさんに言いたいこと、あるでしょお? このまま終わりたくないって、思っているんじゃないのお?」


 僕は迷った。ネリネの後ろに控えるイブニの表情は硬く、僕と目を合わせようとしない。何も言わないけれど、僕の同行に反対しているのは一目瞭然だった。


 ふと、ネリネの着ている黒のロングコートに目がいった。それは、デートの時にソニアが着ていたものだった。よく似合っていると褒めると、柄にもなく照れていたっけ。

 細いラインのコートは、ネリネの今の体型にぴったりで、その事実が無性に悲しかった。


「いいよ」

 僕は頷いた。ちょっと待ってて、と声をかけ、身支度を整えるべく自室へ戻った。

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