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10. 危険な手招き

 数日が経っても、両親は僕の軟禁を解かなかった。僕はひとつ屋根の下にいる両親の存在を意識しないように努めた。彼らについてちらとでも考えたら、怒りでおかしくなりそうだからだ。

 トイレに行きたくなったらノックを一回、渡された食事を食べ終わったらノックを二回。僕らの間に交わされる音はそれだけだった。


 その間、イブニとネリネは連日僕の家を訪れた。

 イブニは時間に追われているようだった。親方の容態と駅の状況を僕に伝えると、何か言いたそうにしつつも、話を切り上げて帰っていく。


 ネリネによると、イブニは親方の見舞い、運行再開に向けた準備の他に、自主的に街の見回りもしているらしい。ソニアには出歩くなと言ったくせに、自分はカラルクがつけた護衛を撒いているようだ。囮になっているだけでしょ、危険だやめろと散々言ったけれど、イブニも「俺にも責任がある」と言い張って譲らない。ダイヤモンドも根負けさせそうな意志の頑強さである。


 反対に、ネリネは来訪するたびに一時間以上居座るものだから、その間に色々な話をした。姉の傍にいなくてもいいのかと尋ねると、「いいの」と寂しげな顔をされた。


「私、お姉ちゃんに避けられてるのお。それに、アスターお兄ちゃんも心配だからあ」


 次第に、僕はネリネの訪問を心待ちにするようになっていった。癪に障る奴ではあるけれど、親方が倒れ、両親とぎくしゃくしている中、唯一態度が変わらない昔馴染と言葉を交わしていると、いくらか肩の力を抜くことができた。


「ねえ、イブニの好意にいつから気づいてたの」


 ある日、前々から気になっていたことを尋ねると、ネリネは目に見えて慌てふためき、「恥ずかしい……」と赤くなった頬を両手で挟んだ。


「イブニさんはお姉ちゃんを女の人として見ていないのに、お姉ちゃん、厳しいから、その……」


 僕は内心舌を巻いた。こいつにも女の勘というやつは搭載されていたらしい。


「で、今はイブニのことどう思ってんの」

「考えてみたい、かなあ。イケメンさんで、優しい人だけど、アスターお兄ちゃんへの『好き』とイブニさんへの『好き』が同じか分からない……」


 ネリネは分かっていないみたいだけど、考えてみようとは、すなわち好意の萌芽である。良かったなイブニ、と心の中でやけくそ拍手。イブニはネリネの「考える」を待てるだろうから、そう遠くない将来、二人は付き合いだすだろう。恋の先生はもうじきお役御免だ。


 ネリネが持参した、クッキーらしき黒い塊を、わざと大きな音を立てて噛み砕く。苦さに悶絶する僕を、ネリネがじっと見ていた。


「何? このクッキーなら焼く時間を大幅に短くした方が」

「お兄ちゃん、本当に一人で解決できるのお?」


 不本意な軟禁生活の中の、唯一の安らぎの時間。だけど、毎回されるこの質問だけは僕を激しく苛立たせた。


「できるって。心配してくれるのは嬉しいけど、可愛い妹分を巻き込みたくないの。見守ってくれるだけで心強いから」


 もはや使いすぎて切り札とも呼べなくなってきた形容詞だけれど、ネリネは毎回頬を染める。イブニのことを考えたいとか言ってるくせに、ちょろい奴。



 だけど本当は、僕は僕を取り巻く状況を打破するための行動を起こしていなかった。正確には、しなかった、ではなく、できなかったのだ。


 ――――――アスター、無事で本当に良かった。


 イブニやネリネが来る時以外は、標本にピンでとめられた蝶のように、ベッドに横たわる時間が続いた。起き上がろうとすると、夢の中から父親の腕が伸びてきて、僕をベッドに挿しなおす。シーツを握りしめ、不本意な微睡に甘んじながら思う。誰か、と。



 沼みたいに重苦しい時間の流れでもがく内に、怪盗ジャックが予告した前日の夜になった。このままでは、ジャックと会うチャンスをまた逃してしまう。

 焦りはたしかに増していくのに、僕はまだベッドから起き上がれずにいた。


 そういえば、昨日来た時にイブニが「相談したいことがある」って言っていたっけ。今日は珍しく来なかったから、詳細は分からないけれど、親方や駅に何かあったのだろうか。


 少し前の僕なら、イブニに頼られたことを素直に喜んだだろう。これで距離が縮まるかもしれないと。だけど今、僕はあいつとの距離感が分からなくなっている。

 

 親方が倒れても、あいつはやるべきことを自ら見つけ出している。街での立場は依然微妙なままだけど、ホイッスルの件で先輩たちにはますます信頼されたようだし、好いている女の子とも徐々に打ち解けつつある。


 あいつ、もう僕がいなくてもいいんじゃないか?


 そして、その逆も。


 ――――――正気じゃない。絶対にダメだ!

 荒削りの鉛筆で怒りのままに引いたみたいな、がたがたの線でできた表情が忘れられない。 


 僕がまんじりと寝返りを打っていると、こん、と窓に何かがぶつかる音がした。僕の部屋は二階にある。何事かと窓を振り返り、心臓が止まりそうになった。


 笑顔のソニア・デュフーリが、窓ガラス越しに僕に手を振っていた。


「おまっ……何してんだよ⁉」


 ソニアは、決して太くはない窓枠にミノムシみたいにぶら下がっていた。しかも片手で。心臓に悪すぎる光景だ。慌てて窓を開け、視線を周囲に巡らせる。ソニアに張りついているはずの騎士の姿はない。


「大丈夫だって言っているのに、皆、ウザくてさ。君までつれないこと言わないでよー」


 撒いちゃったザマミロ、と大きく口を開けて、ソニアが笑う。毒花みたいな赤い舌が、口の奥に見えた。


 ひとまず部屋に引っ張り上げようとした時、ネリネの言葉がよぎった。


 ――――――お姉ちゃんが来たら追い返して。


「ね、デートしよーよ」

 真意の読めぬ微笑を浮かべ、元カノはとんでもないことを言ってきた。


 狂ったか? 

 率直な感想はそれだった。ソニア・デュフーリという女にとって、元カレとはカメムシ以下の存在のはず。やっぱり彼女はおかしくなっている。


 躊躇う僕の前で、白い繊手が降り注ぐ月の光を誘惑するように宙をかいた。おいで、おいで、と十の指がさざめく。その優美な動きを視線で追いそうになる自分を諫める。騙されるな。見なかったふりをして、窓を閉めるべきだ。


 だが、気づけば、服をつないでロープを作っていた。完成したロープを窓の外に垂らし、僕はあっけなく家を抜け出していた。

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