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09. 開花

「お邪魔しまーす」


 話題の人、ソニア・デュフーリの突然の乱入に、僕らは咄嗟に動けなかった。その隙に、ソニアは自分が部屋の主であるかのように、堂々と入ってくる。ネリネが慌てたように立ち上がった。


「お姉ちゃん! その、その」

「分かってるって。あたしを仲間外れにしようってわけじゃないんしょ。ちょっぴり傷ついたけどー」

「ソニアさん、ネリネさんはあなたを心配しているんです。ジャックに狙われている今、軽々しく出歩かないほうが」

「ああ、イェリンまでつれないことを言うー。あたしは悪くないんだよ? このキレーな足が私を使って歩いて、ってあたしに言ってくるの」


 苦言を呈すイブニを意に介さず、元カノは悪戯っ子のように笑った。水面を滑る花びらのように、つるりと白い指がふくらはぎをなぞる。


「そんなこと言っている場合じゃないですよ……」

 イブニがソニアと言い争っている間、僕の脳内は空白に覆われていた。


 なんて――――――なんて、彼女は美しいんだろう。


 ソニアはうっすらと化粧をしていた。まなじりに引かれた赤い線が、くっきりとした目元をさらに際立たせている。粉をはたいた肌はきめ細やかで、紅を引いた唇なんて、言葉を紡ぐたびにふるりと震える。


 表情、仕草、その一つ一つが匂い立つような色香で溢れている。こいつに見惚れるなんて、という意地はあっという間に溶かされた。気づけば、僕はソニアの一挙手一投足を熱心に追っていた。


「どうしたの?」


 ソニアが僕を振り返った。心臓がバッタより高く大大大ジャンプ。


「イェリンって何だよ。お前そんなに人にグイグイ行くタイプだったっけ。陰険さだけ先にジャックに盗んでもらったの?」


 精一杯平静を装おうとしたけれど、できたかは自信がない。ソニアの顔をまともに見れなかった。


「イェリんは特別。だって、未来の弟でしょ?」


 たちまち、イブニとネリネの頬が、天道虫みたいに真っ赤になった。


「ちょ、お姉ちゃん……!」

「……ソニアさん、ネリネさんは俺に返事をしていません。弟になると決まったわけでは……」

「じゃあ、ここで返事すればいいじゃん。もちろんイエスでしょ? ほらほら」


 ソニアは満面の笑みを浮かべ、妹をせっついた。「わ、私は」と上ずった声を出すネリネは、今にも湯気を上げて倒れてしまいそうだ。


 どういうことだ。あれほどネリネとイブニの距離が縮まることを嫌がっていたのに。


 僕はようやく元カノの異変に目を向ける気になった。まず、口調や雰囲気がまるで違う。ネリネは別人のようと評していたが、なるほどその通りだ。清楚な恋人から陰険女王に変貌したかと思えば、次は浮かれ恋バナ女子になるとか、節操のない奴。彼女時代は僕の好みそうな女子を演じていたと言っていたし、明るい女子が好きそうな男でも好きになったのだろうか。


 そこまで考えた時、急速に嫉妬心が膨れ上がってきて、僕はそんな自分に動揺した。彼女との恋は終わった。終わりはソニアが僕を振る形だったけれど、僕の中の彼女への気持ちだって冷めきっていたはずなのに。


 イブニとネリネに絡むソニアが、視界の端に入ってくる。よく動く瞳は、例え望遠鏡で太陽を覗いたとしても敵わないほどに眩しく煌めいている。この輝きが僕よりも美しさで劣る男に向けられるなんて許せそうになかった。


「ほらほら返事は」

「やめてください」


 イブニがぴしゃりと言い放った。室内が水を打ったように静まりかえる。


 イブニは険しい顔で立ち上がり、ソニアの腕を乱暴に掴んだ。


「帰りましょう。人の家に長居するのは良くない」

「え、ええええ。あたし、もうちょっと」


 イブニは僕とネリネに、「またな」とだけ言って、有無を言わせずソニアを引きずり、部屋から出ていってしまった。



「で、いつまでいるつもりなの」


 僕は出ていくタイミングを失して、ぽつねんと部屋に取り残されたネリネに声をかけた。インテリアとしては美しくないし、話し相手としても楽しくないから、さっさと出て行ってほしい。


「ご、ごめんなさい」

「謝んなくてもいいけどさ」

 僕の器が狭いみたいじゃないか。


「えと……この前、お父さんが失礼なこと言ったよねえ。ごめんなさい」


 いきなり話が飛んだ。「言ったっけ」と空とぼけると、「アスターお兄ちゃんは優しいね」とまた話が明後日の方向へ。ああもう、何なんだこのとんま。


「絶対謝ってもらうから。それまで、私が代わりに何回でも謝るから、一生懸命謝るから、もしお父さんたちがアスターお兄ちゃんに謝ってくれたら、許してあげて欲しいなあ」

「許すも何も怒ってないよ。ソニアを守ろうと必死なだけでしょ。そりゃイブニにかけた言葉は撤回してほしいけど、僕は別にいい」


「……ほんとお?」

「怒ってないって」

「アスターお兄ちゃんは、自分のお父さんたちに怒っているのにい?」


 言葉に詰まった。ネリネはどこか憐れむような目で、僕を見ている。


「お兄ちゃんのお父さんたちに、やめてって言いたい?」


 プライドに亀裂が入る音が聞こえる。やめろ。虫籠の中の芋虫に、「守ってあげるからね」と語りかける子どものような声を出すな。


「言いたいなら、お手伝いさせてよお。私、いつも助けてもらってるから、お兄ちゃんを助けたいよお」

「何もしないで!」


 叫ぶように自分を拒絶した僕に、ネリネはゆっくりと目を瞬かせた。言われたことが分からないという顔だ。「何もしないで」と僕はもう一度繰り返した。


「父さんと母さんとは僕が話す。うちの事情に他の人を巻きこみたくないんだよ。だから、何もしないで」

「でも、でも」

「ネリネならなおさらだよ。僕にとっては可愛い妹分なんだから」

「えっ……うん。お兄ちゃんがそう言うなら」


 鳥肌が立つ腕をさすりながら繰り出した「可愛い」の威力は絶大だった。誉め言葉を言われ慣れていないネリネは、その言葉にあっさりと陥落し、嬉しそうに頷いたのである。


 お兄ちゃん頑張ってねえ、とにこにこするネリネを横目に、胸の中でひとりごちる。


 助ける? お前が僕を? ダメだそんなのは。お前だけは僕を助けちゃいけない。


 だって、お前に、街一番のとんまに助けられたら、惨めすぎるじゃないか。

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