01. 涙
清潔な服と包帯にくるまれた親方の身体が、病院の真っ白なシーツの上に横たえられていた。目は固く閉じられ、呼吸は浅い。
「親方」
呼びかける僕の声は、情けないほど震えていた。毛むくじゃらの薄い胸が上下するのを何度も何度も目で追う。目を離した隙に止まってしまうのではと怖かった。
「ジルベールが襲われたのは、駅の近くの裏路地だ。自力で駅まで逃げてきて、最初に会った駅員に、『病院に連れていけ。他の奴らには黙ってろ』と告げて、意識を失ったらしい。もっとも、その駅員がパニックを起こしちまって、結局騒ぎになったんだけどな」
持ってきた花を花瓶に生けていたカラルクが、目を伏せる。
「親方は花なんて喜ばないよ。食えないものよこしやがって、とか文句ばかり言いそう」
「言えてるな。目を覚ましたら、食い切れないって音を上げるまで食い物を持ってきてやろう」
力無く笑ったカラルクの手のひらから、花びらが一枚零れ落ちた。親方の命が擦り減っている暗示のようで、床に落ちたそれを直視できない。
あの日から一週間が経ったけれど、親方は目を覚まさない。手は尽くした、あとは本人次第だ。医者からそう言われた時、目の前が真っ暗になった。
ゴキブリよりも生命力にあふれた親方が死ぬかもしれない。それは、僕にとってあまりに現実味のない現実だった。
「騎士団の方で、親方を襲った犯人の目星はついていませんか?」
静かに親方を見下ろしていたイブニが、カラルクに問うた。僕と比べると、イブニは事件の時からずっとどこか余裕がある。本人曰く「慣れているから」らしい。
カラルクが難しい顔になって首を振った。
「結婚式で皆の意識も警備も駅に集中していた。式に招待されて、街の住人じゃない奴もたくさんいたから、不審者の区別もつきにくくて、目撃情報すら上がっていない状態だ」
「駅反対派だよ。そうに決まってる。あいつら、線路を敷いている時も嫌がらせしてきたし、侯爵家の結婚式で列車の評価がまた上がるのを嫌がったんだよ!」
僕はほとんど叫ぶように言った。脳裏には、ある二人の顔がぼんやりと浮かんでいる。
――――――アスター、無事で本当に良かった。
「アスター」
カラルクが僕の前にやってきて、身をかがめた。僕も背は高い方だが、ムカつくことに、この騎士はさらに長身だ。
「アスター、落ち着いてくれ。騎士団もその線は考えている。だけど、街の人が犯人にしては不自然な点も多いんだ」
ポインセチアみたいに鮮やかな赤の目が、僕の目と同じ高さにあった。カラルクは内緒にしてくれよ、と前置きして、騎士団の見解を話してくれた。
「ジルベールは腹のデカい一撃を除けば、細身の得物で正面から何度も刺されている。おかしいと思わないか? あいつは反撃を躊躇う性格じゃないし、水に変身して逃げることだってできたはずだ。なのに、襲われた現場を調べた奴によると、現場に残っていたのはあいつの血痕だけ。相手の血痕はおろか、魔法を使った痕跡すらなかったんだ」
僕とイブニは顔を見合わせた。たしかに奇妙な話だった。親方が駅反対派を蛇蠍の如く嫌っているのは言うまでもない。彼らが親方を襲ったとして、嬉々として反撃し、追撃に法外な慰謝料を請求するくらいのことはする。そもそも、弱い魔法しか使えないギークの街の人間が、魔法に精通した親方を相手どって、無傷で逃走するのは至難の業だ。反撃させないほどの速さで攻撃することに至っては、不可能と言ってもいい。
となると、親方を襲ったのはよほどの手練れか、あるいは……。
「犯人は、親方が反撃を躊躇ったり、逃げるのを忘れたりするくらい、大事な相手かもしれないってことですね」
言いにくいことを、イブニははっきりと口にした。カラルクが頷く。
「あの日はメルポメネ侯爵家の関係者……ジルベールの縁者や昔の知人も来ていたしな。中にそういう相手がいてもおかしくはない」
「でも、金で人を雇ったかもしれないでしょ。春に追っかけてきた奴らみたいなのをさ。あいつら、そういう卑怯なことだって……!」
「アスター」
いつの間にか必死になっていた僕は、カラルクの優しい声で我に返った。
「騎士団が街の人を疑っているのは事実だ。だけどな、あくまで候補でしかないし、街の人たちの大半はこの件に無関係で、ジルベールを心配してくれてる」
カラルクはここで言葉を切り、初めて会った時のように、僕に騎士の礼をとった。
「こんな話をしちまって言うのもあれだが、アスター。犯人を捜そうとするな。見知った相手に犯人を見出すな。お前が辛いだけだ。人を疑うのは騎士団に任せて、お前はジルベールを待ってやってくれ。お前たちの親方を襲った犯人は俺が必ず捕まえるから、俺を信じてくれ」
カラルクは真っすぐな目で、僕を見ていた。悪人を捕まえるという正義感と、己の実力への自信が燃える、僕が大嫌いな目。
そう……。とどのつまり、親方がずっと目を覚まさないんじゃないかって、僕は不安で仕方ないんだ。犯人をこじつけて、不安と罪悪感から目を逸らそうとした。こいつ程度に親方がやられるわけがないと思える「大したことない犯人」を求めていた。
こんなの、大嫌いなギークの街の大人たちが今まさにやっていることと同じじゃないか。
「あいつに泣いてくれる弟子ができるなんてな。ありがとう、アスター」
違う。この涙は悔し涙だ。強いくせにあっさりやられるバカ親方を持ってしまったことが悔しいだけだ。親方のせいで、僕が街の大人たちみたいになっちゃったじゃないか。断じて親方が心配とかそういうやつじゃない。だいたいカラルクも何様なんだ。あんたは親方の喧嘩別れした元友達に過ぎないだろ。
そう言ってやりたかったけれど、後から後から零れる涙のせいで叶わなかった。目を覚まさない親方の傍らで、子供みたいに僕は泣いた。




