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後編

 緑の屋根を切り払い、一騎の竜が躍り出た。慌てて止めようとする翼蛇の群の中に、ためらう様子もなく突っ込んで行く。

 翼蛇とはよく言ったものだ。まさに蛇としか形容しようのない長細い体に、不釣合いに巨大な羽が、趣味の悪い工作のようにくっ付いている。直哉が、今、運命をゆだねている竜とは似ても似つかない、醜悪極まりない生き物だった。

 翼蛇は速さは侮りがたいものがあるが、力は遠く竜に及ばない。アルヴィスが翼を一羽ばたきしただけで、すぐにもバランスを失い、無様に弾き飛ばされる。

「強い……!」

 重体の女騎士を左腕に支え、右腕に手綱を巻きつけ、直哉は素足で鱗の地面を踏みしめる。余裕など全く無いはずだが、それでも、見惚れずにはいられなかった。

 なんて強くて綺麗な生き物なのだろう……! その背中に立っている自分が、むしろ誇らしくてたまらない。目も眩むような高さも、油断すればたちまち浚われてしまいそうな強風も、直哉を怯えさせる材料にはなり得なかった。

 大空を独り占めにしている、鳳の気分。

「止めろ! 止めろ! たかが一人に、なんてざまだ!」

 翼蛇の兵士たちが叫びあう。止められるものなら止めてみろ。直哉は笑った。騎手の意向を汲んでか、竜がさらに速度を上げる。このまま風になって西の彼方へ、と思ったが、そのとき、重体の騎士が、大量の血を吐き出した。

「……………おい! 大丈夫か!?」

「かまうな。急げ!」

 騎士は叫んだが、直哉は竜の速度を抑えた。高度を下げ、さらに強く、彼女を支える片腕に力を込めた。

 彼女を死なせるわけにはいかない。

 直哉は、飛翔自慢をしたくて竜に乗ったわけではないのだ。ただ、目の前にいる傷ついた人間を見捨てることが出来なかった。ほんの少しの無理でいい。普段より、二割増しだけ、頑張ればいい。そうしたら、消えかけた命も救えるかもしれないと、そう思っただけなのだ。

 まだ名前すら聞いていない女騎士に、直哉は、不思議な親しみを感じ始めていた。

「私を降ろせ! 二人では逃げ切れん。お前だけで行け!」

「うるさい! 叫ぶ元気があるなら、黙って俺にしがみついていろ!」

 翼蛇の兵士が、追いすがる。ひょろ長い体をくねらせて、体当たりを仕掛けてきた。対空中戦用に開発された特殊な長槍が、襲いかかる。直哉はタイミングを見計らい、それを掴んだ。奪い取った。一瞬にして、敵の凶器が護身の武器となる。

 槍術など知らないが、本能の命じるままに、槍を繰り出した。胴をなぎ払われた翼蛇の兵士が、鞍上から叩き落された。

「殺されてたまるか……! 絶対に、絶対に、逃げ切ってやる!」

 敵にとっては、悪夢としか言いようがなかっただろう。たった一人の竜騎士に、引っ掻き回されている。まだ十代と思われる蒼竜の操り手は、動きも粗雑で、特に素晴らしい乗竜の名手というわけでもなかった。むしろ技術は素人に近い。

 それなのに、捕らえられない。殺せない。紙一重ですべての攻撃を防ぎきる。そして、守りきる。確実に、西の山の稜線に近づいていた。かの山の向こうは、イナディール。竜騎士の祖国。竜騎士の守るべき国。

 山を越えてしまったら、翼蛇の兵士は、追跡を断念するしかないのだ。

「殺せ! 山を越えさせるな!」

 直哉は再び高度を上げた。西の山は、落日の光を背に受けて、輪郭が黄金に煙って見えた。碧空は、いつの間にか、燃えるような茜色に染まっていた。直哉は目を細めた。誰に教えられたわけでもないのに、わかる。

 あの山の向こうが、終着点。

 目指すべき地。

「借りるぞ!」

 直哉は、騎士が佩いている剣を抜いた。滑らかな刃は、まるで鏡のように直哉の顔を映し出した。すぐ背後に、敵兵の気配を感じる。向こうも必死だ。イナディールの名高き蒼竜は、たとえ死体でも十分に価値がある。そして、その乗り手を殺してしまえば、竜の脅威は永遠に断たれるのだ。

「殺せ!」

 山を越えた、その瞬間。

 直哉は高く剣を掲げた。急に開けた視界には、紅蓮の太陽が煌々と燃えている。騎士の剣は、真紅の光を乱反射して、追いすがってきた翼蛇の兵士らの目を一瞬でつぶした。強烈な閃光に瞳を焼かれ、誰もまともに目を開けていられない。味方同士で激突し、無様に墜落する者が続出した。

「おのれ……!」

 竜はついに山を越えた。なす術もなく呆然と見守る兵士らをあざ笑うかのように、その姿は見る間に遠ざかり、やがて、消えた。

「撤退する!」

 翼蛇の兵士らは去った。

 勝ったのだ。直哉の命がけの行為が、まさに奇跡を呼んだ瞬間だった。








「…………降ろしてくれ」

 日没がかなり進み、東の空が闇に包まれ始めたころ、唐突に、騎士が言った。

 さすがに疲れたのだろうかと、直哉はそれに従った。彼らは高い崖の上に降り立った。はるか彼方に、イナディールの王都の街並みが見渡せる。遠目からでも、美しい都なのはよくわかった。落日の光の中に浮かび上がるひときわ巨大な白亜の建物が、王城だろう。

「あんたの故郷だろ?」

 そう言えば、まだ名前を聞いていなかった。直哉は、ようやく、遅い自己紹介の機会を得ることが出来た。

「俺は直哉っていうんだ。神崎直哉。あんたは?」

「レイリア……。レイリア・イリュース」

 答える騎士の顔は、紙のように白くなっていた。橙色の陽光を浴びてなお、不吉なほどに色が無い。ざわざわと嫌な予感が這い上がってくるのをあえて無視して、直哉は、ことさらに明るい声で話しかけた。言葉が通じないのは百も承知だが、あまりに重苦しい沈黙に、耐えかねた。

「私を、立たせてくれ」

 騎士が言った。直哉は首を振った。

「ちょ……何やってんだよ。寝てろよ」

「王都を、よく見ておきたいんだ」

「馬鹿! 立てるような状態じゃないだろ。怪我人が無理するな!」

「感謝する。ナオヤ。二度と、帰ることはないと、そう、思っていた」

「だから、動くなってば……」

 しぶしぶと、直哉は騎士に肩を貸した。崖の上から、直哉にとっては初めての、レイリアにとっては懐かしい故郷を見やる。

 やがて、騎士の体から、力が抜けていった。崩れ落ちる彼女を抱きとめながら、直哉は、いつしか泣き出していた。どうしようもないほどに、視界が歪んだ。

 何でだよ。

 呻くように、呟く。

「すぐそこじゃないか。王都は、目と鼻の先じゃないか! 何でだよ! 馬鹿野郎! 目ぇ覚ませよ!」

 助けようと思ったのだ。

 助けようと思ったのだ。

 こんな結末、考えてもいなかった。

「レイリア!」

 直哉の腕の中で、既に事切れてしまった女騎士の名を、呼び続ける。無駄とわかっているのに、そうせずにはいられなかった。

 有り得ない奇跡を信じたかったわけではない。たとえここが異世界でも、死は、やり直しがきかない絶対普遍の終着駅だ。決して、そこから呼び戻すことは、かなわない。

 人間ごときが土足で踏み込むことの許されぬ神秘の領域であり、神でさえもうかつには手出しできない禁忌の(ことわり)である。

「レイリア!」

 竜が鳴いた。直哉の声を呑み込んで、泣いた。それはまさに慟哭だった。最も近しき者を救えなかった、憤怒と、悔恨と、怨嗟の、嘆きの叫びに他ならなかった。

 夜の闇が完全に天を支配した頃、竜と、騎士の亡骸と、異邦人を迎えに、王城から無数の飛竜(ワイバーン)の騎士が来た。彼らは亡き竜騎士に最高の敬意を持って礼を払うと、得体も知れぬ異邦人を、快く城に案内してくれた。

「レイリア様を、貴方が、敵国よりお救いして下さったのですね」

「俺は助けられなかった」

 かたくなに言い張る直哉を、飛竜の騎士たちは、気遣わしげに、けれどどこか優しい眼差しで、見守っていた。

 救出は絶望的と思われた、イナディールの誇る竜騎士を、たったひとりで敵国より連れ出してくれた異邦人。気高き蒼竜アルヴィスを、生まれたときからの知己のように、彼は手なずけてしまっていた。騎士の遺志を継ぐ者として。竜の親愛を受く者として。

「俺は、助けられなかったんだ」

 落ち度など一つもないのに、直哉は、自分を責め続ける。目の前で逝った命の重みを、彼は誰よりもよく知っているようだった。もっと何かが出来たはずだと、思い返さずにはいられない。彼女は死んだのだ。故郷を目の前にして、死んだのだ。助けた、などと、自分を誇れるはずもなかった。

「それでも、我々は、貴方に心から感謝する……。遠き世界の、異国人よ」

 







 竜騎士レイリアの使命は、敵国に奪われたイナディールの王女を奪回するというものだった。彼女はそれを一人でやり遂げ、目的は達したものの、敵の執拗な追跡に徐々に追い詰められ、ついには命を落としてしまった。

 故郷の地に帰ることを、騎士はとうの昔に諦めていた。いや、この任務を与えられたときから、死は覚悟していたのだろう。戦場で命を落とすことは、何も珍しいことではない。難しい任務を与えられることは名誉であるし、騎士にとって、名誉は、時に信じられない強固さを持って生命の上に君臨する。

「アルヴィスを継いでください。ナオヤ。イナディールの蒼竜は、既に貴方の友です」

 王女の言葉は、直哉に何の感慨ももたらさなかった。騎士の名誉など彼は興味なかったし、亡き人をひっそりと偲ぶ竜を、自分勝手に乗り回すのは、気が引けた。

 それが、ついに、わかりましたと頷いたのは、高貴な御方の薦めに乗せられたわけではなく、その他大勢の、名もよく知らぬ平凡な兵士たちの願いに、心動かされたからだった。

「アルヴィスを継いで下さい。ナオヤ殿。でなければ、レイリア様の生きた証が、無くなってしまいます」

 人間と主従関係を結んだ竜は、決して野生に帰ることはない。直哉が竜を拒めば、アルヴィスは永遠に飛翔の機会を失ってしまう。竜は、天空に羽ばたいてこそ、竜なのだ。いつも地上に繋がれていては、ただ鈍重なだけの、場所ばかりとる邪魔な獣に過ぎない。

「アルヴィスは、貴方と共でなければ、二度と飛びません。蒼き竜の翼を、どうか、奪わないでください」

 







 イナディール暦六八九年。

 風爽やかな初夏のある日、異界出身の初の竜騎士が誕生した。

 名は、ナオヤ・カンザキ。

 イナディールの長い歴史の中でも、五指に入る名将として、彼は、この後、様々な逸話を残す。

 敵陣に単身乗り込み将の首級を挙げた活躍は、イナディールの子供たちのごっこ遊びの定番である。密かに囁かれていた王女との恋の行方は、詩人により劇的に脚色され、酒場や舞台での人気演目の一つとなった。



 しかし、それは、また、別の物語でもある……。



だいぶ前に書いて、自サイトにUPしていたものです。こちらにも投稿してみました。

もしかしたら、見覚えのある方もいるかも?

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