七 少しだけ変わった如月
文化祭まで、あと三週間。
放課後の教室はいつにも増して騒がしかった。
机が端へ寄せられ、床には模造紙や段ボールが広がっている。あちこちから「それ取って」「こっち押さえて」と声が飛び交い、いつもの教室とはまるで違う場所のようだった。
「如月君」
名前を呼ばれ、拓真は振り返った。
黒川結衣が、胸の前に資料の束を抱えて立っている。
「これ、職員室に持っていくんだけど」
「うん」
「そのあと会議室にも寄らなきゃいけなくて」
言いながら、資料の束が少し傾いた。
拓真は立ち上がる。
「持つよ」
「ほんと?」
「うん。重そうだし」
黒川は資料を抱え直した。
「……ごめん。やっぱり大丈夫だよ」
「いや、大丈夫そうに見えないけど」
「そう?」
「そう」
拓真は半分を受け取った。
二人で教室を出る。
同じクラスだから、黒川とはこれまでにも何度か話したことがある。気まずい相手ではない。かといって、放課後に二人でどこかへ行くような間柄でもない。
廊下を並んで歩いていると、黒川がふいに口を開いた。
「如月君ってさ」
「ん?」
「本当に断らないよね」
拓真は苦笑する。
「そんなことないって」
「あるよ」
即答だった。
「先生にも頼まれるし、クラスのみんなにも頼られるし、生徒会でも頼られるし」
黒川は指を折るように数えていく。
拓真は横目で見ながら言った。
「黒川にも頼られてる」
「それは今だけ」
二人とも少し笑った。
その時。
「おーい拓真ー!」
廊下の向こうから大和が手を振っていた。
嫌な予感がする。
「またお前の仕事増えてるぞー!」
「嘘だろ」
「本当だ」
黒川が吹き出した。
「人気者も大変だね」
「笑い事じゃないって……」
拓真はがっくりと肩を落とした。
その夜、また夢を見た。
窓際の席に、顔の見えない如月が座っている。
そして、その前には黒川結衣がいた。
「如月君」
「何」
「文化祭の準備」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「どうせ手伝えだろ」
「うん。手伝って」
「嫌だ」
あまりにも迷いのない返事だった。
黒川が額を押さえる。
「本当に協調性ないよね」
「必要ない」
「クラスなんだけど」
「だから?」
「だからって……」
黒川は呆れたように息を吐いた。
相変わらず会話になっているのか、なっていないのか分からない。
それでも、黒川は怒って立ち去ったりはしなかった。毎回、なんだかんだと如月に話しかける。
拓真にはそれが少し不思議だった。
まるで、放っておけない弟にでも接しているみたいだ。
如月の方も本当に嫌なら、無視をすればいい。それなのに短いながらも返事はする。
二人の距離は、拓真が最初に思っていたよりずっと近いのかもしれない。
次の夢は、文化祭準備の真っ最中だった。
放課後の教室には、まだ何人かの生徒が残っている。
黒川もその一人だった。
大きな段ボールを両手で抱えて歩いている。見るからに重そうだった。
拓真は少し離れたところから、その姿を眺めた。
――あいつなら、絶対手伝わないんだろうな。
そんなことを考えた、その時。
段ボールがぐらりと傾いた。
「あっ」
黒川の身体がよろける。
考えるより先に、拓真は飛び出していた。
「危ない!」
落ちかけた段ボールを横から支える。
どうにか床へ落とさずに済んだ。
「大丈夫?」
「あ……うん」
黒川が顔を上げる。
目が合った。
「ありがとう」
ほっとしたように笑ったあと、黒川は少し不思議そうな顔をした。
「珍しいね」
拓真の動きが止まる。
「何が?」
「こういうことするの」
――しまった。
まただ。
黒川は自分を、あの如月だと思っている。
分かっていたはずなのに、困っているところを見ると身体が勝手に動いてしまう。
今さら「別人だから」なんて言えるはずもない。
「……別に」
そう答えたその瞬間、黒川の表情が変わった。
「やっぱり」
「何?」
「変」
今度は、はっきり言われた。
「最近の如月君」
黒川は拓真の顔をじっと見た。
「優しくなった、とかじゃないんだよね」
「……」
「なんていうか……違う」
その言葉に、拓真は返事ができなかった。
以前にも聞いた。
――今日の如月、違う。
黒川は何かに気付き始めている。
自分と、この世界の如月が同じではないことに。
「ごめん」
黒川が小さく笑った。
「上手く説明できない」
「……そっか」
「うん」
それでも黒川の視線は、しばらく拓真から離れなかった。
さらに次の夢。
「おい、如月」
教室でクラスメイトの男子が声を掛けた。
窓際にいた如月が顔を上げる。
「何」
「黒川助けたんだって?」
一瞬、沈黙した。
「知らない」
「またまた」
周囲から笑い声が上がる。
「最近ちょっと丸くなった?」
「ならない」
即答だった。
また笑いが起きる。
けれど拓真には分かった。
今の声には、わずかに苛立ちが混じっていた。
如月は机の上から視線を上げず、何も言わない。
笑っているクラスメイトたちは、もちろん知らない。
黒川を助けたのが、本当は如月ではなく自分がやったことだということを。
拓真は黙ってその光景を見ていた。
以前なら、クラスメイトは如月に冷たい態度だった。今はこうして、冗談まで言われている。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど、如月の周りが変わり始めている。
それは、良いことのはずだった。
なのに、拓真は素直に喜べなかった。
自分が勝手にしたことで、黒川の中の如月が変わっていく。クラスメイトたちが見る如月まで変わっていく。
そして本人だけが、その理由を知らない。
――いや。
本当に、知らないんだろうか。
さっきの苛立った声を思い出す。
もしかすると如月自身も、何かがおかしいと感じ始めているのかもしれない。
翌朝。
現実世界の教室へ入ると、黒川が一人で黒板を消していた。
昨日の日直が忘れて帰ったのだろう。
「おはよう」
拓真が声を掛けると黒川が振り返った。
「おはよう」
いつも通りの黒川だった。
夢の中のことなんて、何も知らない顔。
拓真も自分の席へ向かおうとする。
けれど、数歩進んだところで、ふと振り返った。
黒川はもうこちらを見ていなかった。
何事もなかったように、黒板を消している。
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
それなのに、夢の世界の黒川とは少しだけ違って見えた。
拓真は何も言わず、自分の席へ向かった。




