五 違うはずの声
雨だった。
夢の世界にも、雨は降るらしい。
風まで強く、校門近くの木々は大きく揺れ、枝同士がぶつかってざわざわと音を立てている。
「また風強いな……」
この前の夢も、こんな天気だった。
拓真は校門近くの屋根の下に立ち、降り続く雨をぼんやりと眺めていた。
夢だと分かっているのに、湿った空気まで肌にまとわりついてくる。
しばらくすると、雨の向こうに見覚えのある姿が現れた。
あの男子生徒だ。
いつも通り、今日も一人だった。
傘も差さずに歩いている。
「いや、濡れるだろ……」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
その後ろから、女子生徒が追いかけてくる。
前にも見た女子生徒だった。
「待って」
男子生徒は止まらない。
「傘」
女子生徒が声を上げる。
「忘れてるでしょ」
それでも反応はなかった。
男子生徒は、そのまま歩いていく。
「もう……」
女子生徒が呆れたように息を吐いた。
その時だった。
強い風が吹き抜けた。
「あっ!」
女子生徒の手から傘が離れた。
風に煽られ、くるくると回りながら車道の方へ飛んでいく。
女子生徒が反射的に追いかける。
「危なっ――」
拓真の身体が先に動いた。
屋根の下から飛び出し、道路へ転がる寸前の傘を掴む。
冷たい雨が一気に制服を濡らした。
「……よし」
傘を持ち上げる。
そこへ女子生徒が駆け寄ってきた。
「ありがとう」
「いや、別に――」
顔を上げる。
その瞬間、拓真は固まった。
女子生徒も、目を見開いている。
「……え」
拓真には、その顔に見覚えがあった。
毎日のように学校で見ている、同じクラスで学級委員の……。
「黒川……?」
黒川結衣だった。
現実の世界にいる黒川と、同じ顔。同じ声。髪型まで同じだった。
頭の中が追いつかない。
どうして黒川がここにいる?
いや、それよりも――。
黒川は今、自分の顔を見ている。
今まで拓真は、この世界の人間から身を隠してきた。
見つかったらどうなるのか。そもそも自分の姿がどう見えているのか。
何も分からない。
「……」
逃げた方がいいのか。
そう思った時だった。
「ありがとう」
黒川がもう一度言った。
不思議そうな顔はしているが、怖がってはいない。
それどころか。
「でも、びっくりした」
「……何が?」
思わず聞き返した。
黒川は少し笑った。
「そんなことするんだ」
「え?」
「だって今まで絶対しなかったじゃん」
拓真は言葉を失った。
今まで。
その一言で分かった。
黒川は、自分を知っている。
いや違う。
自分だと思っているわけじゃなく、あの男子生徒だと思っているんだ。
同じ苗字を持つ、顔の見えないあいつ。
「いや、俺は――」
そこまで言って、口を閉じた。
なんて説明するんだ。
自分は別の世界から来た如月拓真です、とでも言うのか。
そんな話、信じてもらえるはずがない。
黒川は首を傾げた。
「今日は変だね」
「……そう?」
「うん」
そして、少しだけ笑う。
「でも、ありがとう」
今度の笑顔は、本当に嬉しそうだった。
拓真は手の中の傘を見た。
それから、黒川を見る。
何とも言えない気分だった。
感謝されたこと自体は嬉しい。
なのに、素直に喜べない。
この「ありがとう」は、自分に向けられたものじゃない。
黒川が見ているのは、如月拓真。
けれど、それは自分ではなく――あいつだ。
黒川は傘を受け取ると、雨の中へ歩き出した。
拓真はその背中を見送る。
ふと、さっきの会話が頭をよぎった。
『そんなことするんだ』
自分の顔を見ても、黒川は驚かなかった。
それどころか、ごく自然に「あいつ」として話しかけてきた。
拓真は小さく息を呑んだ。
それなら……声は?
自分とあの男子生徒は、似てはいても同じ声ではない。
少なくとも、拓真にはそう聞こえていた。
さっき自分は、確かに黒川へ返事をした。
それなのに、彼女は何も気付かなかった。
雨音が、やけに大きく聞こえた。
「……どういうことだよ」
答える者はいない。
遠ざかっていく黒川の背中をぼーっと眺めていた。
拓真はしばらくその場から動けなかった。




