三 嵐の教室
夢のことを考えていたのは、最初の数日だけだった。
学校が始まれば忙しい。生徒会の仕事は多いし、文化祭の準備だってある。
気付けば誰かに声を掛けられているし、頼みごとをされることも珍しくない。
やることはいくらでもあった。
「拓真ー!」
昼休み。
教室のドアが勢いよく開き、大和が顔を覗かせた。
「生徒会長が探してたぞ」
「また?」
「また」
近くにいたクラスメイトたちが笑う。
拓真もつられて苦笑した。
「分かった。行ってくる」
「頑張れ、優等生」
「他人事だと思って」
そう返しながら教室を出る。
小さくため息は出た。けれど、不思議と嫌ではない。
誰かに頼られることは嬉しかった。
少なくとも、今は。
その夜。
拓真は再び、あの夢を見た。
目を開ければ、夕暮れの校舎。赤く染まった廊下。
「……またここか」
拓真は辺りを見回した。
一度見ただけの場所なのに、なぜかもう知っている場所のような感覚があった。
前に見た夢の続きなのだろうか。
いやそもそも、夢に「続き」なんてあるものなのか。
それにしては、あまりにも現実味がありすぎる。
拓真は昇降口へ向かった。
すると、そこに見覚えのある後ろ姿があった。
「あ……」
あの男子生徒だ。
今日も一人だった。誰とも話さず、誰からも話しかけられない。静かに靴を履き替えている。
顔は相変わらず見えなかった。
横から覗こうとしても、俯いた髪に隠れる。角度を変えて見ようとしても、夕日の影が顔を覆ってしまう。
まるでそこだけ、見せないようにされているみたいだった。
男子生徒が校舎を出る。
拓真は少し離れて、その後を追った。
何のために追っているのか自分でもよく分からない。ただ、あの男子生徒がどこへ行くのか気になった。
校門の近くまで来た時だった。
「待って」
女子生徒の声がした。
男子生徒は足を止めるが振り返りはしない。
女子生徒が小走りで追いついた。
その顔も、なぜかぼやけていてよく見えなかった。
「今日のプリント」
一枚の紙を差し出す。
男子生徒は無言で受け取った。
「先生、提出しろって怒ってたよ」
返事はない。
「聞いてる?」
沈黙。
女子生徒は少し困ったように笑った。
「相変わらずだね」
怒っているようには見えなかった。むしろ、こういう態度に慣れているようだった。
やがて女子生徒は「じゃあね」と小さく手を振って去っていく。
男子生徒も何も言わず、再び歩き出した。
「友達……なのか?」
拓真は首を傾げた。
少なくとも、完全に誰とも関わっていないわけではないらしい。
それだけが、少し意外だった。
三度目の夢を見たのは、その二日後だった。
目を開けた瞬間、風の音が聞こえた。
ゴウッ、と窓が震える。
「うわ……」
廊下の窓の向こうでは、木々が大きく揺れている。
台風でも来ているのかと思うほどの暴風だった。
前の夢とは違い、今日は校舎に人が多い。
拓真は人目を避けるように、そっと教室を覗いた。
放課後らしい。
クラスメイトたちが鞄を持ち、帰る準備をしている。
そして――。
いた。
窓際の席に、あの男子生徒が一人で座っていた。
周囲には人がいるのに、そこだけ少し空間が空いているように見えた。
「なあ」
数人の男子生徒が、その席へ近付いていく。
拓真は無意識に眉を寄せた。
前の夢で見た光景が頭をよぎる。
「ホームルームで聞いてたと思うけど、文化祭の出し物決まったから」
男子生徒は何も答えない。
「お前も参加だからな」
無言。
「聞いてんのか?」
一人が肩を叩くが、それでも反応しない。
周囲から、小さな笑い声が漏れた。
さっきまで騒がしかった教室が、違う意味でざわつき始める。
拓真は唇を噛んだ。
またかよ。
このままにしておくのは嫌だった。
けれど、直接あの中へ入っていく勇気はない。
そもそも、この世界の人間に自分がどう見えているのかすら分からない。
何かないかと、拓真は辺りを見回した。
その時、教卓に積まれたプリントの山が目に入った。
次に、廊下の窓を見る。
外では相変わらず、強い風が吹き荒れている。
「……いけるか?」
拓真は窓に手を掛けた。
一瞬迷う。
それから、一気に開けた。
ゴオッ――!
暴風が廊下へ吹き込んだ。
そのまま開いていた教室の扉を抜け、教卓のプリントをさらっていく。
白い紙が一斉に宙へ舞った。
「うわっ!」
「ちょ、何これ!」
教室が一気に騒然となる。
男子生徒たちも反射的に散らばったプリントを追った。
「窓閉めろって!」
「プリント拾え!」
誰も、窓際の男子生徒を見ていない。
その隙に彼は静かに席を立った。
急ぐ様子すらなく、鞄を持ち、何事もなかったように教室を出ていく。
拓真は廊下の陰から、その姿を見送った。
「……助かった、かな」
思わず小さく笑う。
今回も、男子生徒は一度も振り返らなかった。
拓真がそこにいることなど、知らないまま。
翌日。
現実世界では、文化祭の準備が本格的に始まっていた。
放課後の教室では、机が動かされ、あちこちで話し声が飛び交っている。
「拓真!」
振り返ると、大和がいた。
「今日も残るんだろ?」
「まあな」
「ほんと好きだな」
「何が?」
大和が呆れたように笑った。
「人助け」
拓真も笑った。
その言葉を、否定はしなかった。
たしかにそうなのかもしれない。
現実でも、夢の中でさえ。困っている人を見ると、どうしても放っておけない。
ただ――。
拓真はふと、手を止めた。
どうして、あいつなんだろう。
名前も知らない。顔すら見たことがない。話したことだってない。
それなのに、また夢を見たら、きっと探してしまう。
そんな気がしていた。




