三十二 届かない声
朝。
階下から、父親が出掛ける支度をする音が聞こえていた。
母親の葬儀が終わってから、父親はこの家に泊まっている。
仕事も何日か休んでいた。
けれど、その日は久しぶりに仙台の職場へ行くことになっていた。
「拓真」
階段の下から呼ばれる。
「……何」
「今日は仕事に行ってくるからな」
「うん」
「夜には戻る」
「分かった」
「昼、ちゃんと食えよ」
「うん」
「何かあったら連絡しろ」
「分かった」
しばらくして、玄関の扉が閉まった。
家の中が静かになる。
拓真はベッドに横になったまま、天井を見ていた。
机の横には鞄がある。
制服も、ハンガーに掛かったままだ。
学校へ行こうと思えば、準備はできる。
起きて、着替えて、鞄を持って、玄関を出ればいい。
それだけのはずだった。
けれど、そこまで辿り着けない。
昨日も。
その前の日も。
同じだった。
昼を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。
画面には、父親の名前が表示されていた。
仕事の休憩中なのだろう。
しばらく見つめてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『拓真か』
「うん」
『昼、食ったか』
「……一応」
『何食べた』
「パン」
『そうか』
そこで会話が途切れた。
何を聞きたいのかは、何となく分かった。
『調子はどうだ』
「普通」
反射だった。
言ってから、自分でもおかしいと思った。
普通なわけがない。
父親だって分かっている。
少しの沈黙のあと、父親が名前を呼んだ。
『拓真』
「ん」
『仙台の俺のところに来るか』
意味はすぐに分かった。
離婚してから、父親は仕事の都合で仙台へ移っている。
母親が亡くなったことで、今はこの家に泊まっているだけだ。
いつまでも、このままではいられない。
「行かない」
ほとんど考えずに答えた。
『……そうか』
「今さら無理だよ」
少しだけ、声に力が入る。
「父さんと二人とか」
その先は続かなかった。
父親は否定しなかった。
『……そうだな』
その返事が、なぜだか痛かった。
『でも』
父親が続ける。
『ずっとこのままにはできない』
拓真は黙った。
『高校卒業まででもいい。こっちに来た方がいいと思ってる』
「……嫌だ」
『拓真』
「転校とかもしたくない」
『転校するかどうかは、学校とも相談できる。今すぐ決めろって言ってるんじゃない』
「じゃあ今決めなくていいだろ」
『そうじゃなくて』
父親の声が少し強くなる。
『一人でここに残るのは駄目だ』
「一人じゃないだろ」
『俺は毎日ずっといられるわけじゃない』
何も言えなかった。
『頼むから、考えてくれ』
父親の声が掠れた。
父親も、何も平気ではない。
それくらいは分かった。
分かったのに。
「大丈夫だから」
またその言葉が出た。
『大丈夫じゃないから言ってるんだ』
拓真は息を止めた。
――大丈夫じゃない。
少し前。
同じ言葉を、自分も母親に言った。
『大丈夫だから』
『大丈夫じゃない』
あの時は、どうして分からないんだと思った。
どうして一人で何とかしようとするんだと思った。
今、自分が同じことをしている。
分かっていた。
それでも。
「……平気だから」
『拓真』
「また夜」
父親が何か言う前に、通話を切った。
画面が暗くなる。
静かな部屋に、父親の声だけがしばらく残っていた。
夕方。
黒川からメッセージが届いた。
『駅前の公園にいる』
その下に、もう一つ。
『来られそうなら、少しだけ話さない?』
拓真は画面を見つめた。
断ろうと思った。
今日は無理だと。
また今度と。
それくらいなら打てるはずだった。
けれど、何も送らないまま時間だけが過ぎていった。
十分。
二十分。
もう帰っただろうか。
そう思った時、拓真はベッドから起き上がった。
なぜかは分からなかった。
財布とスマートフォンを持ち、玄関を出る。
自転車には乗らず歩いて駅へ向かった。
公園に着くと、黒川はまだいた。
ベンチに座り、スマートフォンを見ている。
拓真に気付くと、顔を上げた。
「あ」
立ち上がる。
「……久しぶり」
「うん」
「来ないと思ってた」
「俺も」
「何それ」
黒川が少し笑った。
拓真は笑えなかった。
それでも、黒川は何も言わなかった。
「座る?」
「うん」
二人でベンチに座る。
少し離れた場所を、小さな子どもと母親が歩いていた。
拓真は視線を逸らした。
「学校」
黒川が言う。
「みんな、気にしてるよ」
拓真は地面を見る。
「担任も、生徒会の人たちも」
「……うん」
「クラスの人も」
「うん」
「如月君の席、そのままだよ」
拓真は顔を上げた。
「そりゃそうだろ」
「まあ、そうなんだけど」
黒川が少し笑う。
「でも、何ていうか……みんな、戻ってくるつもりでいるっていうか」
拓真は答えなかった。
戻る。
学校へ。
生徒会へ。
教室へ。
その言葉が、自分とは関係のない話みたいに聞こえた。
「一つだけ聞いていい?」
「……何」
黒川は少し迷ってから尋ねた。
「今、苦しい?」
拓真は黙った。
苦しい。
そうなのかもしれない。
母親が死んだ。
学校へ行けない。
父親ともまともに話せない。
何もしたくない。
なのに、苦しいという言葉さえ自分から遠くなっていた。
「……分からない」
ようやく出た言葉だった。
黒川は静かに頷いた。
「そっか」
それだけだった。
大丈夫とも。
分かるとも。
言わなかった。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
公園の外を自転車が通り過ぎていく。
「私さ」
黒川が口を開いた。
「何て言えばいいか、やっぱり分かんない」
「……うん」
「前もそうだったけど」
「うん」
「でも」
黒川は拓真を見る。
「一人になろうとしないで」
拓真は何も言えなかった。
「一人になりたい時があるのは分かるよ。でも、全部切らなくていいと思う」
全部。
父親。
黒川。
クラスメイト。
先生。
生徒会。
まだ、声を掛けてくれている。
手を伸ばしてくれている。
分かっている。
なのに、掴めない。
どうやって掴んでいたのか、もう思い出せなかった。
「……そろそろ帰るね」
黒川が立ち上がる。
「うん」
「また連絡する」
「……うん」
数歩進んでから、黒川が振り返った。
「返事は、できる時でいいから」
拓真は頷いた。
黒川が歩いていく。
その背中が見えなくなるまで、拓真はベンチから動かなかった。
家へ戻る頃には、暗くなっていた。
父親はまだ帰っていなかった。
リビングの電気をつける。
静かな家。
母親のいない家。
拓真は二階へ上がり、自分の部屋に入った。
カーテンを開ける。
窓の外を見る。
住宅街の向こう。
川の方角。
ここから橋そのものが見えるわけではない。
それでも、どこにあるのかは分かっていた。
夢が始まった橋。
もう一人の自分を見た橋。
昨夜も、そこまで歩いた。
拓真は窓に額を預けた。
「あいつなら」
声が漏れる。
今の自分を見たら、何と言うだろう。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも……また。
『なんで言わないんだ』
そう言うのだろうか。
「……言ったよ」
誰もいない部屋で呟く。
「ちゃんと言った」
母親に、怖いと。
大丈夫じゃないと。
病院へ行ってほしいと。
言った。
あの朝には、助けてくださいとも。
言った。
それでも、届かなかった。
だから今はもう、何を言えば届くのか分からない。
返事はない。
夢はもう来ない。
白い世界も、もう一人の自分も。
どこにもいない。
スマートフォンが震えた。
父親からだった。
『今から帰る』
短いメッセージ。
拓真はしばらく見つめた。
返信欄を開く。
『分かった』
四文字を打つ。
今度は消さなかった。
送信する。
画面に、自分の言葉が残った。
それでも、部屋の静けさは変わらなかった。
拓真は窓の外を見る。
見えないはずの橋が、そこにあるような気がした。




