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白い世界で君は笑った  作者: pino


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三十三 橋の上

※本話には、希死念慮や自傷を想起させる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 三日が経った。


 九月八日の夜。


 父親は、翌朝早く仙台へ向かうことになっていた。


 仕事の都合で、二、三日はこの家へ戻れない。


 リビングのテーブルには、着替えの入った鞄が置かれていた。


「やっぱり一緒に来るか?」


 父親が聞いた。


「行かない」


「じゃあ、おばさんのところに泊まるのは」


「いいって」


 思っていたより強い声が出た。


 父親が黙る。


「……ごめん」


「いや」


 拓真は視線を逸らした。


「一人で平気だから」


「拓真」


「何かあったら連絡する」


「でもな」


「学校だって……そのうち行くから」


 言いながら、自分でも曖昧な言葉だと思った。


 いつ行けるのか。


 本当に行くつもりがあるのか。


 それすら分からない。


 父親も同じことを思ったのだろう。


 眉を寄せたまま、しばらく拓真を見ていた。


「飯は冷蔵庫に入れてある」


「うん」


「足りなかったら金、置いとくから」


「分かった」


「電話する」


「うん」


「ちゃんと出ろよ」


「出るよ」


「……本当に?」


 拓真は苦笑した。


「しつこいな」


「しつこくもなるだろ」


 父親も笑おうとした。


 けれど、うまく笑えていなかった。


 拓真は気付かないふりをした。


「大丈夫だから」


 また、その言葉を使った。


 父親の表情が変わる。


「それを言われると余計に心配になる」


「分かってる」


「じゃあ言うなよ」


「……ごめん」


 短い沈黙が落ちた。


 父親が息を吐く。


「何かあったら、何時でもいいから電話しろ」


「うん」


「何もなくても電話していいからな」


 拓真は一瞬、父親を見た。


「……分かった」


 その夜は、それ以上話さなかった。


 父親も、拓真も、まだ言えることがあったのかもしれない。


 けれどどちらも、それを探さなかった。






 九月九日、午前六時半。


 拓真は目を覚ました。


 カーテンの向こうは薄い灰色だった。


 雨は降っていない。


 風もない、静かな朝だった。


 しばらく天井を見たあと、身体を起こす。


 耳を澄ませた。


 が、何も聞こえない。


 ここ数日は、朝になると階下から父親の物音がしていた。


 冷蔵庫を開ける音。


 食器を置く音。


 階段の下から呼ばれる声。


 今日は、何もなかった。


 父親は夜が明ける前に家を出ていった。


 二、三日は帰らない。


 家には拓真しかいなかった。


 階段を下りる。


 リビングにも誰もいない。


 テーブルの上に、父親の字で書かれたメモが置いてあった。


『ちゃんと食えよ』


 その下に。


『電話出ろ』


 拓真は少しだけ口元を緩めた。


「しつこいって」


 返事があるわけもなく、ただ静かな空気が流れた。


 冷蔵庫を開けると、父親が用意していった食事が並んでいた。


 何か食べようと思った。


 けれど、手は伸びなかった。


 扉を閉じる。


 向かいの椅子が目に入った。


 母親が座っていた場所。


 ほんの少し前、そこで一緒に朝食を食べた。


 一緒に笑った。


 一緒に話した。


 それが、ずっと昔のことのように思えた。


 拓真は二階へ戻った。






 八時を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。


 父親からだった。


『起きてるか?』


 画面だけを見る。


 返さなかった。


 十分ほどして。


『朝飯食った?』


 また届く。


 拓真はスマートフォンを伏せた。


 しばらくすると、もう一度震えた。


 今度は黒川だった。


『おはよう』


 続けて。


『今日はどう?』


 返信欄を開く。


『分からない』


 そこまで打った。


 昨日なら、送れたかもしれない。


 けれど、その日は指が動かなかった。


 文字を消す。


 画面を閉じた。


 心配されている。


 分かっている。


 返事をすれば、黒川は返してくれる。


 父親だって電話をくれる。


 それも分かっている。


 なのに、何を言えばいいのかもう分からなかった。






 昼を過ぎても、拓真は部屋にいた。


 腹が減っているのかどうかも分からなかった。


 眠くもない。


 何かをしたいとも思わない。


 ただ時間だけが進んでいく。


 何となくスマートフォンを手に取り、大和とのトーク画面を開いた。


 以前は、どうでもいいことで何度もやり取りしていた。


 学校の愚痴。


 くだらない写真。


 意味のない一言。


 向こうへ引っ越したばかりの頃は、連絡も多かった。


 今は、間が空くことが増えた。


 大和には新しい学校がある。


 新しい友達がいる。


 新しい生活がある。


 当たり前だった。


 大和が悪いわけではない。


 拓真自身も、何も送っていなかった。


 トーク画面を閉じる。


 クラスのグループを開いた。


『明日の小テスト範囲どこ?』


『プリントの後ろまで』


『終わった』


『まだ始まってもないだろ笑』


 メッセージが次々流れている。


 誰かが写真を送る。


 スタンプが返る。


 また誰かが笑う。


 拓真はしばらく眺めていた。


 自分がいなくても教室はいつも通りだった。


 生徒会の連絡も開いてみる。


 確認事項。


 先生からの連絡。


 誰が何を担当するか。


 これまでなら、拓真が返していたこともあった。


 今は別の役員が返している。


 話は進んでいた。


 何も止まっていなかった。


「……そっか」


 声が出た。


 自分がいなくても、大丈夫なんだ。


 本来なら安心することなのかもしれない。


 ずっと、そうなるようにしてきた。


 頼まれたら断らない。


 困っている人がいれば手を貸す。


 誰かに迷惑を掛けない。


 自分がいなくなっても困らないくらいちゃんとやっておく。


 それがいいことだと思っていた。


 なのに。


 誰も困っていないことがひどく寂しかった。


「……勝手だな」


 呟いた。


 必要とされたら苦しくなるくせに、必要とされなくなれば寂しい。


 自分でも意味が分からなかった。






 午後。


 父親から電話が来た。


 一度目は出なかった。


 切れたあと、少ししてもう一度鳴った。


 拓真は画面を見つめてから、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『拓真』


 声を聞いただけで、父親が心配しているのが分かった。


『朝から返事ないから』


「寝てた」


 嘘だった。


『飯食ったか』


「食べた」


 また、嘘をついた。


『本当に?』


「うん」


 少し間が空く。


『今日、学校は?』


「行ってない」


『そうか』


「……うん」


『明日、俺――』


「父さん」


『何だ?』


「仕事してていいよ」


『……急に何だよ』


「別に」


『拓真』


「こっちは平気だから」


『平気じゃないだろ』


「平気だよ」


『だったら何で朝から返事しない』


「寝てたって言っただろ」


『拓真』


 責められているわけではないことは分かっていた。


 ただ心配されているだけだ。


 それなのに、声を聞いているのが苦しかった。


「もういいって」


『何が』


「俺のことはいいから」


『よくない』


「父さんだって仕事あるだろ」


『そんな話してない』


「俺一人いなくても――」


 言葉が止まった。


 電話の向こうが静かになる。


『……何だよ』


「何でもない」


『拓真』


「切る」


『待て』


 通話を切った。


 すぐにまた着信が表示される。


 拓真は出なかった。


 鳴り止む。


 少しして、もう一度。


 出なかった。


 やがて静かになった。


 拓真はスマートフォンの電源を落とした。


 その瞬間、部屋から音が消えた。






 夕方。


 部屋の中は薄暗くなっていた。


 電気はつけなかった。


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 廊下へ出る。


 母親の部屋の前で、足が止まった。


 扉を開ける。


 あの日から、ほとんど入っていなかった。


 ベッド。


 鏡。


 棚。


 母親が使っていたものが、そのまま残っている。


 机の上に、小さなメモ帳があった。


 病院の名前と、予約した日時。


 母親が自分で調べたものだった。


 来週、行くはずだった。


「……行くって言ったじゃん」


 声が掠れた。


 あの日のことを思い出す。


 母親と向き合ったこと。


 初めて言えたこと。


 母親が頷いたこと。


 少しだけ変われると思ったこと。


 メモ帳を握る指に力が入る。


「俺、ちゃんと言ったよな」


 返事はない。


「……なのに」


 その先が出なかった。


 拓真はメモ帳を元の場所へ戻した。


 部屋を出る。


 扉を閉めた。


 静かな音だった。


 それなのに、何かが完全に閉じたような気がした。





 玄関に立つ。


 靴を履いた。


 財布は持たなかった。


 スマートフォンも部屋に置いたままだった。


 鍵だけを手に取り外へ出る。


 空は朝と同じ灰色だった。


 夕方になったのに、今日という一日が何も進んでいないように見えた。


 拓真は歩き出した。


 行き先を決めたつもりはなかった。


 けれど、曲がる道を迷わなかった。


 信号を渡る。


 住宅街を抜ける。


 少しずつ、川の音が近くなる。


 やがて橋が見えた。


 拓真は足を止めなかった。


 橋の中央まで歩いた。


 車が時折、後ろを通り過ぎる。


 誰も拓真を見ない。


 ただ歩いている高校生にしか見えない。


 それでよかった。


 欄干の前で立ち止まる。


 川は、灰色の空を映しながら流れていた。


 あの日。


 ここに、自分と同じ顔をした少年がいた。


 何もかもを諦めてしまったような顔で。


 遠くから拓真を見ていた。


 あの時はどうしてそんな顔をしているのか、分からなかった。


 しかし今なら、分かる気がした。


「……疲れた」


 声にした。


 それは今までで一番正直な言葉だった。


「疲れたよ」


 誰に言ったのか分からない。


 ずっと頑張ってきた。


 頼まれたことはやった。


 誰かが困っていれば手を貸した。


 嫌でも笑った。


 困らせないようにした。


 傷付けないようにした。


 自分が我慢すればいいと思った。


 それで、みんなが普通に笑っていればいいと思った。


「ちゃんとやっただろ」


 声が震えた。


「俺なりに、ちゃんとやっただろ」


 大和には、新しい生活がある。


 学校は、自分がいなくても回っている。


 生徒会もそうだ。


 父親にも仕事がある。


 黒川にだって、黒川の日常がある。


 誰も悪くない。


 誰にも、何も奪われていない。


「じゃあ何で……」


 喉が詰まる。


「何で俺だけ、ここから動けないんだよ」


 返事はない。


 川の音がする。


「俺がいなくても、みんな大丈夫なんだろ」


 ずっと望んできたことだったはずなのに、何故か涙が落ちた。


「それでいいはずだったのに」


 必要とされると苦しかった。


 期待されると逃げたくなった。


 断れない自分が嫌だった。


 なのに、誰にも必要とされなくなったように感じた瞬間、怖くなった。


「……寂しいな」


 初めて、その言葉を口にした。


 声にすると、ずっと胸の奥にあったものが形を持った。


 大和に、行かないでほしかった。


 父親に、家にいてほしかった。


 母親に、いなくならないでほしかった。


 黒川にも、まだ自分を見ていてほしかった。


「俺……」


 息を吸う。


 声が震える。


「一人になりたくなかった」


 涙が止まらなかった。


「誰かにいてほしかった」


 ずっと、言えなかった。


 そんなことを言ったら、相手を困らせると思っていた。


「俺のこと……」


 その先が詰まる。


「必要だって、言ってほしかった」


 風が吹く。


 誰も答えない。


 当然だった。


 もう、何を言えばいいのか分からなかった。


 言葉を覚えた。


 前より、ずっと言えるようになった。


 それでも、母親は戻らない。


 大和も戻らない。


 家族も、元には戻らない。


 世界は何一つ、元通りにはならなかった。


 拓真は欄干に手を置いた。


「……もういいか」


 驚くほど静かな声だった。


 怒りも。


 涙も。


 少しずつ遠くなっていく。


 寂しい。


 苦しい。


 怖い。


 全部が、どうでもよくなっていく。


 もう頑張らなくていい。


 もう考えなくていい。


 そう思った。


 身体が前に傾いたその瞬間。


 腕を掴まれた。


「――っ!」


 強い力だった。


 拓真の身体が引かれる。


 振り返る。


 息が止まった。


 そこに、いた。


 見間違えるはずがない。


 何度も夢の中で見た顔。


 自分とまったく同じ顔。


 同じ目。


 ずっと、会えなかった。


「……お前」


 喉が震えた。


 少年は何も言わない。


 拓真の腕を掴んだまま、こちらを睨んでいる。


「なんで……」


 夢なのか。


 現実なのか。


 そんなことはもう分からなかった。


「なんで、お前がいるんだよ」


 少年は答えない。


「離せ」


 腕を引く。


 離れない。


「離せよ」


 それでも手は緩まなかった。


「離せって!」


「ふざけんな」


 低い声。


 その声。


 間違えるはずがなかった。


 夢の中で何度も聞いた。


 もう一人の自分の声だった。


 拓真は動きを止めた。


 目の前の少年、如月は怒っていた。


 今まで見たことがないほど。


「……何が」


「何が『もういい』だ」


 拓真は唇を噛んだ。


「何が『疲れた』だ」


 その瞬間、何かが切れた。


「だったらどうしろって言うんだよ!」


 声が橋の上に響いた。


 如月が拓真を見る。


「お前が言ったんだろ!」


 止まらない。


「言えって!」


 涙がまた溢れた。


「なんで言わないんだって!」


 ずっと言われてきた。


 夢の中で、何度も。


「だから言ったよ!」


 拓真は叫んだ。


「母さんに言った!」


 息が乱れる。


「大丈夫じゃないって! 怖いって! 病院に行ってほしいって!」


 如月は黙っている。


「あの朝だって、助けてくださいって言った!」


 声が震える。


「ちゃんと全部言ったんだよ!」


 喉が痛かった。


 それでも、もう止められなかった。


「それでも母さんは死んだ!」


 如月の手に力が入る。


「父さんだって、ずっとここにいるわけじゃない!」


「……」


「大和にはもう大和の生活がある!」


「……」


「学校だって、生徒会だって、俺がいなくても普通に回ってる!」


 今まで認めたくなかったことが、全部、言葉になって出ていく。


「黒川だって、いつまでも俺のことばっかり見てられるわけじゃない!」


「……」


「俺がいなくても誰も困らない!」


 涙で顔が歪む。


「俺は誰も守れなかった!」


 如月は何も言わない。


「じゃあ何が残ってるんだよ!」


 拓真は腕を引いた。


 が、離れない。


「離せよ!」


 声が掠れる。


「もう疲れたんだよ……」


 如月は離さなかった。


「俺にはもう何も――」


「残ってるだろ」


 声が重なった。


 拓真は顔を上げる。


「……何が」


 如月は真っ直ぐ拓真を見ていた。


 逃げない。


 目を逸らさない。


 怒っている。


 それなのに、その目は拓真よりも苦しそうだった。


「何が残ってるんだよ」


 拓真は吐き捨てた。


 如月は答える。


「俺がいる」


 風が吹いた。


 川の音が聞こえる。


 拓真は何も言えなかった。


 目の前にいる、もう一人の自分。


 夢の中で何度も会った。


 何度もぶつかった。


 理解できないと思った。


 分かり合えないと思った。


 いつの間にか会えなくなった。


 それでも。


 ずっと。


 どこかで。


 もう一度会いたいと思っていた。


 如月は拓真の腕を離さない。


 強く、痛いほどに。


 まるで今度こそ、絶対に離すものかと。


 そう言っているようだった。

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