三十一 空っぽ
葬儀の日は、朝から雨が降っていた。
強い雨ではなかった。
傘に当たる音が、途切れずに続いていた。
親戚や母親の同僚、そして拓真の知らない人も何人も来た。
「大変だったね」
「無理しないでね」
「お母さん、本当に優しい人だったよ」
そのたびに、拓真は頭を下げた。
「ありがとうございます」
何度言ったのか分からない。
口だけが勝手に動いていた。
誰が何を話していたのかほとんど覚えていない。
ただ、正面に置かれた母親の写真だけを見ていた。
笑っている。
拓真の知っている顔だった。
朝、眠そうに「おはよう」と言う顔。
夕飯を作りながら振り返る顔。
『何その顔』
そう言って笑ったのも。
ほんの少し前だった。
写真の中では、今も同じ顔で笑っている。
なのに、もういない。
何度考えても、その二つが、うまくつながらなかった。
父親は、ずっと近くにいた。
親戚と話したり。
病院や葬儀のことで電話をしたり。
拓真の代わりに何かを答えたり。
離婚して家を出てから、こんなに長く父親と一緒にいるのは初めてだった。
「拓真」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「少し休むか?」
「大丈夫」
考えるより先に言葉が出た。
父親が黙る。
その顔を見て、拓真も自分が何を言ったのか気付いた。
大丈夫。
ずっと使ってきた言葉だった。
母親も使っていた。
自分も使っていた。
最近はようやく、それ以外の言葉を言えるようになったと思っていた。
それなのに。
「……そっか」
父親はそれ以上聞かなかった。
拓真も何も言わなかった。
葬儀が終わって、家へ戻った。
玄関を開ける。
「ただいま」
と言いかけて、声が止まった。
誰も返さない。
父親は後ろにいる。
人がいないわけではない。
それでも、この家に帰ってくるたびに聞こえていた声は、もうない。
靴を脱ぎリビングへ入る。
テーブル。
ソファ。
キッチン。
何も変わっていなかった。
冷蔵庫を開ければ、母親が買ったものがまだ入っている。
食器棚には、母親が使っていた茶碗もある。
洗面所には歯ブラシがある。
どこを見ても、母親がいた痕跡ばかりだった。
それなのに、母親だけがいない。
「拓真」
父親の声がした。
「今日は俺もここにいるから」
「……うん」
「明日以降のことも、ちゃんと考える」
「うん」
「一人にはしないから」
拓真は答えなかった。
一人じゃない。
父親がいる。
親戚もいる。
学校の先生もいる。
分かっている。
それなのに、家の中は、どうしようもなく空っぽに見えた。
数日が過ぎた。
何をしていたのか、よく覚えていない。
起きる。
何かを食べる。
父親に言われて風呂に入る。
眠る。
また朝になる。
父親はしばらく家に泊まっていた。
仕事の連絡をしたり、親戚と話したりしている声が聞こえた。
拓真に何かを決めさせようとはしなかった。
ただ。
「飯、食えるか」
「眠れたか」
「何か欲しいものあるか」
そんなことだけを聞いた。
拓真はほとんど、
「うん」
「別に」
「大丈夫」
それだけで答えた。
夏休みが終わり、始業式の朝を迎えた。
制服には着替えなかった。
次の日も、その次の日も、学校には行かなかった。
担任から連絡が来た。
生徒会の連絡も来た。
クラスのグループにも、いくつかメッセージが届いていた。
スマートフォンが光る。
見る。
閉じる。
返信する言葉が見つからなかった。
母親が死んだ。
それを書けばいいのか。
つらい。
そう言えばいいのか。
学校へ行けない。
そう伝えればいいのか。
どれも本当だった。
でも文字にした途端に、何かが決まってしまうような気がした。
夕方。
スマートフォンが震えた。
黒川からだった。
『返事はいらないからね』
それだけだった。
しばらくしてもう一つ届いた。
『でも、心配してる』
拓真は画面を見たまま動かなかった。
黒川には母親のことを話していた。
仕事を休んでいること。
酒が増えたこと。
床で眠っていたこと。
病院を予約したこと。
少しだけ、良くなったかもしれないこと。
全部ではないが、それでも、誰より知っていた。
最後に話した時の事を思い出す。
ちょっとだけ、良くなったとあの時は思っていた。
指が文字入力欄に触れる。
『ごめん』
打った。
消した。
『ありがとう』
また消した。
何を返しても違う気がした。
結局、何も送らなかった。送れなかった。
翌日。
担任が家に来た。
父親が玄関で話している声が聞こえた。
拓真は二階から下りなかった。
しばらくして階段を上がる足音がした。
父親が、部屋の扉を軽く叩く。
「拓真」
「……何」
「先生、学校のプリント置いてったぞ」
「そこ置いといて」
「分かった」
足音が遠ざかる。
しばらくしてから、扉を開けた。
床に茶封筒が置いてあった。
中には、何枚かのプリント。
その間に折り畳まれた小さな紙が挟まっていた。
見覚えのある字だった。
黒川だった。
担任に頼んで、入れてもらったのだろうか。
『返事しなくていいって言ったから、本当にしなくていいよ』
そこで一度、読むのを止めた。
その下。
『でも、一人で考え続けなくていいから』
さらに。
『学校じゃなくてもいいし、私じゃなくてもいいから』
最後に。
『また話したくなったら、その時でいいよ』
黒川らしいと思った。
無理に来いとは書いていない。
元気を出せとも、頑張れとも、書いていなかった。
拓真は紙を持ったまま、床に座った。
一人で考え続けなくていい。
前にも似たようなことを言われた。
だから、母親に話した。
怖いと言った。
病院へ行ってほしいと言った。
そしてあの朝。
助けてくださいと言った。
言えた。
ちゃんと。
言えたはずだった。
それでも、助からなかった。
拓真は膝を抱えた。
だったら、今は何を言えばいいのだろう。
誰に。
何を。
頼ればいいのだろう。
分からなかった。
助けてと言えないんじゃない。
助けてと言った先に何があるのか。
もう、分からなくなっていた。
その夜、拓真は部屋を出た。
リビングでは、父親がソファに座っていた。
テーブルの上には、仕事用らしいノートパソコンが開いている。
「どこ行く?」
「……ちょっと歩いてくる」
父親が時計を見る。
「俺も行こうか」
「一人でいい」
「でも――」
「少しだけだから」
父親は何か言おうとした。
けれど。
「スマホ、持ってけよ」
「持ってる」
「何かあったら連絡しろ」
「うん」
玄関へ向かう。
「拓真」
振り返る。
「遅くなるなよ」
「……分かった」
外へ出る。
雨はもう降っていなかった。
昼間まで濡れていた道路が、街灯の光をぼんやり返している。
行く場所は決めていなかった。
ただ歩いた。
曲がり角を曲がる。
信号を渡る。
いつもなら自転車で通る道を、ゆっくり進む。
気付けば、川沿いまで来ていた。
水の音が聞こえる。
少し先に橋が見えた。
拓真は足を止めた。
あの橋だった。
最初に、自分と同じ顔をした誰かを見た場所。
あの日から、夢を見るようになった。
もう一人の自分と出会った。
何度も言い合った。
何度も分からなくなった。
『守れよ』
不意にあの声が蘇った。
拓真は橋を見る。
「……守れなかったよ」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前だった。
夢は、もう来ない。
あいつの声も聞こえない。
川の音だけが続いている。
拓真はしばらくそこに立っていた。
そして、ふと思った。
もし、あの日に戻れたら。
何か変わったのだろうか。
母親に、もっと早く言えただろうか。
父親に、もっと聞けただろうか。
大和に、行かないでくれと、言えただろうか。
分からない、戻れないのだから。
答えなんて出るはずがなかった。
拓真は橋の向こうを見る。
いつも通っていたはずの場所なのに、その夜は、向こう側がやけに遠く見えた。




