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白い世界で君は笑った  作者: pino


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三十 守れなかった

 『住所を教えてください』


 拓真は、自分の家の住所を言おうとした。


 毎日書いているはずの住所なのに、途中で言葉が詰まった。


 電話の向こうから、落ち着いた声で確認される。


 住所。


 母親の名前と年齢。


 呼び掛けに反応するか。


 聞かれたことに、一つずつ答えた。


 何度も言葉に詰まった。


 それでも、電話は切らなかった。


『救急車が向かっています』


「はい」


『そのまま電話をつないでいてください』


「……はい」


 母親を見る。


「母さん」


 返事はない。


「母さん」


 もう一度呼ぶ。


 それでも、何も返ってこなかった。




 遠くから、サイレンの音が聞こえた。


 次第に大きくなる。


 玄関の方で人の声がした。


 そのあと何人もの足音。


 拓真は言われるままに場所を空けた。


 救急隊員たちが母親を囲む。


 何をしているのかほとんど分からなかった。


 短い言葉が飛び交う。


 器具の音。


 誰かが拓真に尋ねる。


「最後に会話したのはいつですか?」


「昨日の夜です」


「何時頃?」


「九時……過ぎくらい」


「その時は会話できましたか?」


「はい」


「普段飲んでいる薬は分かりますか?」


「……分かりません」


 答えながら、身体が震えた。


 知らない。


 分からない。


 そんなことばかりだった。


「ほかに連絡できるご家族はいますか?」


 拓真は一瞬黙った。


「父がいます」


「お父さんに連絡できますか?」


「……はい」


 スマートフォンを握る。


 父親の名前を開く。


 指が止まる。


 それでも、発信を押した。


 何度か呼び出し音が鳴る。


『もしもし?』


「父さん……」


『拓真? どうした?』


「母さんが……」


 その先が出なかった。


 何を言えばいい。


 倒れている。


 起きない。


 救急車が来た。


 言葉は頭の中にあるのに、声にならない。


「……」


『拓真?』


 救急隊員がこちらを見る。


「代わりましょうか」


 拓真は黙ってスマートフォンを差し出した。


「お電話代わりました。救急隊です」


 その声を聞いて、拓真は初めて、自分がずっと息を詰めていたことに気付いた。




 救急車の中。


 拓真は端の席に座っていた。


 すぐ近くに母親がいる。


 なのに、ひどく遠かった。


 救急隊員の声が聞こえる。


 何かの音が鳴っている。


 車体が揺れる。


 窓の外を景色が流れていく。


 拓真は膝の上で両手を握りしめていた。


「母さん」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


 昨日の朝、目玉焼きを作っていた。


『最近うるさいね、拓真』


『誰のせいだよ』


『私かな』


 笑っていた。


 確かに、笑っていた。


 仕事にも行った。


『……ちょっと不安』


 そう言えた。


 病院にも行くと言っていた。


 だから、少しずつ。


 本当に少しずつ。


 良くなっていくのだと思っていた。


 そう思ってもいいのだと、思っていた。




 病院に着いてからのことは、途切れ途切れにしか覚えていなかった。


 母親が運ばれていく。


 自分だけが残される。


 名前を聞かれる。


 紙を渡される。


 椅子に座るよう言われる。


 時計を見る。


 また見る。


 針は進んでいるはずなのに時間が動いている感じがしなかった。


 父親が来たのは、それからしばらくしてだった。


「拓真」


 聞き慣れた声だった。


 顔を上げると父親が立っていた。


 急いで来たのか、鞄を持ったままだった。


「母さんは」


「……分かんない」


「そうか」


 父親が隣へ座る。


「いつ気づいた?」


「朝」


「昨日は?」


「話した」


 それだけで喉が詰まった。


「夜も話した。ちゃんと返事してた」


「……そうか」


「水も飲みなって、部屋の前に置いといた」


「うん」


「朝になったら……」


 続きが出なかった。


 父親は何も言わなかった。


 ただ、拓真の肩に手を置いた。


 その手が、ひどく重かった。




 どれくらい待ったのか、本当に分からなかった。


 扉が開いた。


 白衣を着た医師がこちらへ歩いてくる。


 父親が立ち上がった。


 拓真も遅れて立つ。


「如月さんのご家族ですね」


「はい」


 父親が答えた。


 医師の表情を見る。


 その瞬間、何かが身体の奥へ落ちた。


 聞きたくない。


 そう思った。


「お母さまですが、搬送された時には非常に厳しい状態でした」


 医師が話している。


「できる限りの処置を行いましたが――」


 言葉が遠くなる。


 拓真は医師の口元だけを見ていた。


「残念ですが」


 やめて。


 頭の中で誰かが言った。


「お亡くなりになりました」


 音が消えた。


 隣で父親が何かを聞いている。


 医師が答えている。


 詳しい原因については、今の段階ではまだ断定できないこと。


 飲酒や、ここ最近の体調の悪化が影響した可能性があること。


 そんな言葉が聞こえた気がした。


 けれどほとんど意味にならなかった。


 母親が死んだ。


 それだけだった。


「……母さんが?」


 自分の声が聞こえた。


 誰に聞いたのかも分からない。


 医師がこちらを見る。


 その顔で、もう一度分かった。


 母親が死んだ。


 もう、帰ってこない。




 そのあとのことは、さらに曖昧だった。


 父親が誰かに電話をしていた。


 病院の人から説明を受けていた。


 親戚という言葉も聞こえた。


 何かを聞かれて頷いたような気もする。


 自分が何を答えたのかは覚えていない。


 気付けば父親と一緒に、別の部屋の前に立っていた。


「……入るか?」


 父親が聞いた。


 拓真は頷いた。


 扉が開く。


 母親がいた。


 静かだった。


 ただ眠っているようにも見えた。


 昨夜と同じように。


 今にも、


『何その顔』


 と笑いそうだった。


 拓真は母親のそばへ行く。


「母さん」


 返事はない。


 分かっている。


 もう。


 返事はない。


「起きろよ」


 言ってみる。


「病院、行くって言ったじゃん」


 声が震えた。


「来週って」


 返事はない。


「仕事も行ったじゃん」


 何を言っているのか、自分でも分からなかった。


「朝飯も作ってたじゃん」


 喉が痛くなる。


「……何でだよ」


 母親は何も答えなかった。


 視界が滲む。


「ごめん」


 言葉が落ちた。


「ごめん」


 もう一度。


 何に謝っているのか、分からなかった。


 もっと早く気付けばよかった。


 もっと早く父親に連絡していれば。


 もっと強く病院へ行けと言えば。


 本人が嫌がってても、何かできたんじゃないか。


 頭の中に、いくつもの「もし」が浮かぶ。


 病院へ行ってほしいとは言った。


 大丈夫じゃないとも言った。


 怖いとも言った。


 そして今朝、助けてくださいと、言った。


 何もしなかったわけではない。


 何も言わなかったわけでもない。


 それなのに拓真の頭に浮かぶのは、できたことではなく、できなかったかもしれないことばかりだった。


「もっと……」


 声が掠れる。


「もっと何かできただろ」


 誰に言っているのか分からない。


 母親に。


 自分に。


 それとも、どこにもいない誰かに。


「俺が、もっとちゃんとしてれば……」


 涙が落ちた。


 止められなかった。


「守れたんじゃないのかよ」


 父親が少し離れたところにいる。


 何も言わなかった。


 ただ、拓真が泣き終わるまで、そこにいた。




 部屋を出ると、廊下の窓の外は暗くなっていた。


 朝だったはずなのに、もう夜だった。


 父親が隣にいる。


 病院の廊下には人がいる。


 遠くから、誰かの話し声も聞こえる。


 誰もいないわけではない。


 それでも拓真の中には、何もなかった。


 母親の声も。


 朝の笑顔も。


 いつもの「おかえり」も。


 もう聞けない。


 スマートフォンが震えた。


 画面を見る気にはなれなかった。


 そのままポケットへ戻す。


「拓真」


 父親に呼ばれる。


「……うん」


「今日は一緒に帰ろう」


 拓真は答えなかった。


 少しして小さく頷いた。


 歩き出す。


 父親の隣を。


 何も考えられないまま。


 ただ一つだけ、頭の中に残っている言葉があった。


 守れなかった。


 何度消そうとしてもその言葉だけが消えてくれなかった。

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