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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十九 少しだけ

 八月も半ばを過ぎた。


 あれから、母親には少しだけ変化があった。


 朝になっても起きてこない日もあったし、食事をほとんど取らない日もあった。


 だから毎日ではない。


 それでも、以前より早く起きる日が増えた。


 酒を飲まずに眠る日もあった。


 病院にも電話をして、相談する日を決めたと言っていた。


 会社にも、体調のことを相談したらしい。


 何もかもが元に戻ったわけではないことは、拓真にも分かっていた。


 けれど、少しだけ。


 本当に少しだけ、前へ進んでいるように見えた。




 朝。


 リビングへ下りると、キッチンから音がした。


 拓真は階段の途中で足を止める。


 フライパンの上で、何かが焼ける音。


 久しぶりに聞いた。


「おはよう」


 母親が振り返った。


「……おはよう」


「何その顔」


「いや」


「変な顔してる」


「してない」


「してるよ」


 母親が笑う。


 テーブルには、トーストと目玉焼きが並んでいた。


 豪華でも何でもない。


 以前なら、特別に思うこともなかった朝食。


 それなのに、拓真はしばらく見ていた。


「食べないの?」


「食べる」


 椅子へ座る。


 母親も向かい側へ座った。


「今日、仕事?」


「うん」


 拓真は顔を上げる。


「行くの?」


「午前だけね」


「大丈夫?」


 聞いてから、自分で少し笑った。


 母親も気付いたらしい。


「その言葉、使っていいの?」


「今は質問だからいいだろ」


「何それ」


「で、どうなの」


 母親は少し考えた。


「……ちょっと不安」


 拓真は瞬きをした。


 そんなふうに答えるとは思わなかった。


「でも、会社とも話したし。無理だったら帰ってくる」


「そっか」


「うん」


 大丈夫とは言わなかった。


 それだけで拓真は少し安心した。


「病院は?」


「来週」


「忘れないでよ」


「忘れません」


「ほんとかな」


「最近うるさいね、拓真」


「誰のせいだよ」


「私かな」


「分かってるじゃん」


 母親が笑った。


 拓真も笑った。


 こんな朝がずっと続けばいいと思った。




 その日は、夏休み中の登校日だった。


 教室へ入ると、久しぶりに大勢の声が聞こえた。


「おはよ、如月」


「おはよう」


「久しぶり」


「この前学校来てただろ」


「生徒会だろ? 俺らいなかったじゃん」


「俺が見かけただけか」


 何人かが笑う。


 拓真も鞄を机へ置きながら笑った。


 少し前までこの輪に自分から入ることが難しくなっていた。


 今も、完全に元通りではない。


 でも今日は、前ほど遠く感じなかった。


「おはよう」


 近くから声がする。


 黒川だった。


「おはよう」


 黒川は拓真の顔を見て、少し首を傾げた。


「何?」


「今日はちょっと違う」


「また顔?」


「うん」


「そんな分かりやすい?」


「分かりやすい時だけね」


「どっちだよ」


 黒川が笑う。


「お母さん?」


 拓真は少しだけ迷ってから頷いた。


「今日、仕事行った」


「そっか」


「午前だけだけど」


「うん」


「病院も予約したって」


 黒川は一瞬黙った。


 それから。


「そっか」


 いつもの返事だった。


「それだけ?」


「前に『よかったね』はまだ言わないって決めたので」


「律儀だな」


「でしょ」


「でも」


 拓真は自分の席へ座る。


「ちょっとだけ、よかったかも」


 黒川が笑った。


「じゃあ、ちょっとだけね」


「うん」


 それくらいが、今はちょうどよかった。




 放課後。


「如月」


「ん?」


 帰り支度をしていると、クラスメイトに呼ばれた。


「今度の日曜空いてる?」


「日曜?」


「カラオケ。何人かで行くけど」


 一瞬だけ、返事が止まった。


 少し前なら。


 家のことが気になる。


 予定がまだ分からない。


 また今度。


 そんな言葉を探していたと思う。


 けれど。


「空いてる」


「マジ?」


「何で驚くんだよ」


「最近ずっと来なかったじゃん」


「悪かったな」


「じゃあ来いよ」


「行く」


 言ってから自分でも少し驚いた。


「お、珍しい」


「うるさい」


「じゃあ時間あとで送るわ」


「うん」


 クラスメイトが離れていく。


 拓真は鞄を肩に掛けた。


 行く。


 たった二文字。


 それだけなのに。


 少し前より、言いやすくなっていた。




 家へ帰る。


 玄関を開けた。


 酒の匂いはしなかった。


「ただいま」


「おかえり」


 少し遠くから返事があった。


 拓真は息を吐く。


 母親の部屋の方からだった。


「帰ってたの?」


「うん」


「仕事どうだった?」


「ちゃんと行ってきたよ」


「午前だけ?」


「午前だけ」


「そっか」


 部屋の扉は閉まっている。


「どうだった?」


「疲れた」


 母親が笑う。


「でも、行けたよ」


「そっか」


「少し寝るね」


「ご飯は?」


「あとで食べる」


「分かった」


「拓真は先に食べてていいから」


「うん」


 返事がある。


 普通に会話ができる。


 それだけ確認して、拓真はリビングへ向かった。


 テーブルの上には、朝使った食器がきれいに片付けられていた。


 冷蔵庫を開ける。


 酒は目に入った。


 でも、母親が今日飲んだのかは分からない。


 拓真は麦茶を取り出した。


 グラスへ注ぐ。


 昨日までなら、冷蔵庫を開けるたびに酒のことばかり気にしていた。


 今日はそれだけではなかった。


 母親は仕事へ行った。


 病院の予定も決めた。


 朝食も一緒に食べた。


 全部が良くなったわけではない。


 分かっている。


 それでも少しだけ、期待してもいいような気がした。





 夜。


 簡単な夕食を作り、一人で食べた。


 母親は起きてこなかった。


 九時を過ぎた頃、拓真は母親の部屋の前まで行った。


 扉を軽く叩く。


「母さん?」


「……ん?」


 少し遅れて返事があった。


「ご飯食べる?」


「今日はいいかな」


「何か食べた方がいいんじゃない?」


「あとで食べるよ」


「ほんと?」


「うん」


 声は眠そうだった。


「水、いる?」


「今はいらないかな」


「分かった。じゃあ、ここに置いとく」


 ペットボトルの水を扉の前へ置いた。


「ありがと」


「おやすみ」


「おやすみ」


 返事を聞いて、自分の部屋へ戻った。


 朝から仕事へ行ったのだ。


 疲れて眠っているのだと思った。




 翌朝。


 目覚ましが鳴った。


 七時。


 拓真はベッドから起き上がる。


 階段を下りる。


 家の中は静かだった。


 キッチンにも、リビングにも母親はいない。


 昨日の朝とは違う。


 でもそれだけなら、珍しいことではなかった。


「母さん?」


 呼ぶが、返事はない。


 拓真は母親の部屋へ向かった。


 昨夜、扉の前に置いた水が、そのまま残っていた。


 足が止まる。


「母さん?」


 扉を叩くが返事はない。


「母さん、入るよ」


 少し待つ。


 何も聞こえない。


 扉を開けた。


「……母さん?」


 視線が止まる。


 母親が、ベッドの脇の床に倒れていた。


 一瞬、何を見ているのか分からなかった。


「母さん」


 声が震える。


 駆け寄る。


「母さん!」


 呼び掛ける。


 反応がない。


「母さん、起きて」


 もう一度。


 しかし、返事はなかった。


 頭の中が真っ白になる。


 怖い。


 何をすればいい。


 分からない。


 それでも以前とは違った。


 分からないなら、分からないと言えばいい。


 一人で何とかしなくていい。


 拓真は震える手でスマートフォンを取り出した。


 一、一、九。


 指先がうまく動かなかった。


 それでも、番号を押す。


 呼び出し音が、ひどく長く感じた。


 やがて相手の声が聞こえた。


『119番です。火事ですか、救急ですか』


「……救急です」


 拓真は息を吸う。


「母が……起きなくて」


 声が震える。


「呼んでも、反応がなくて」


 言葉が詰まる。


 それでも今度は飲み込まなかった。


「助けてください」


 初めて、その言葉を声にした。

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