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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十八 今度こそ

 翌朝。


 昨夜の母親の声が、まだ残っていた。


『ごめんね』


『ありがとう』


 気にしなくていいと言った。


 本当は、ずっと気にしていたのに。


 拓真は身体を起こした。


 昨夜、決めた。


 今度こそ、ちゃんと言う。




 リビングへ下りると、母親は起きていた。


 ダイニングテーブルに座り、マグカップを両手で包んでいる。


「おはよう」


「おはよ」


「早いね」


「もう九時だけど」


「あ、そんな時間?」


 母親が時計を見る。


 髪は簡単にまとめているだけで、まだ化粧もしていなかった。


「今日、仕事は?」


 拓真が聞く。


「休む」


「……今日も?」


 母親の手が止まった。


「うん」


「会社には?」


「連絡するよ」


「まだしてないの?」


「あとでね」


 拓真はその場に立ったまま、母親を見る。


 何でもない。


 そう言えば終わる。


 いつもみたいに。


 でも今日は言わなかった。


「母さん」


「ん?」


「話がある」


 母親が少し驚いたように顔を上げる。


「何?」


 それだけで逃げたくなった。


「最近さ」


「うん」


「仕事、休む日増えてるよね」


 母親の表情がわずかに固くなった。


「そうかな」


「増えてるよ」


「有給もあるし――」


「そういうことじゃなくて」


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


 母親が黙る。


 拓真は一度息を吸った。


「酒も増えてる」


「……」


「この前、床で寝てたし」


「あれは、ちょっと寝ちゃっただけでしょ」


「呼んでもすぐ起きなかった」


「でも起きたじゃない」


「そうだけど」


 声が大きくなりそうになって、抑える。


 責めたいわけじゃない。


 怒りたいわけでもない。


 ただ今度こそ、伝えたかった。


「俺、怖かったんだよ」


 母親が拓真を見る。


 口にした自分の方が驚いていた。


「帰ってきたら母さんが床にいて、呼んでも起きなくて」


 あの数秒が蘇る。


「次もそうだったらどうしようって思うし」


「拓真……」


「仕事だって、何日も休んでるし。酒も前より飲んでるし」


 母親は視線を落とした。


「心配しすぎよ」


 少し間を置いて、いつもの言葉が続く。


「大丈夫だから」


 拓真は母親を見た。


 今までなら、その言葉を聞けば、引き下がっていた。


 母親本人がそう言っている。


 なら、自分がそれ以上言う必要はない。


 そうやって終わらせてきた。


 でも。


「大丈夫じゃない」


 母親が目を見開いた。


 部屋が静かになった。


 テレビもついていない。


 聞こえるのは、外の蝉の声だけだった。


「……拓真」


「俺には分かんないよ」


「何が?」


「どうしたらいいのか」


 言葉が止まりそうになる。


 それでも続けた。


「母さんがどのくらいしんどいのかも分かんないし、酒飲んでるのがどのくらいまずいのかも分かんない」


「……」


「俺が大げさなのかもしれない」


 黒川に話した時も、同じことを言った。


 本当にそこまでではないのかもしれない。


 母親が嫌がるかもしれない。


 でも。


「それでも、俺一人じゃ分かんない」


 母親の顔が歪んだ。


「だから……病院とか」


 言葉を探す。


「どこでもいいから、ちゃんと相談してほしい」


「……」


「俺じゃ分かんないから」


 最後の言葉は、思っていたより弱くなった。


 母親はしばらく何も言わなかった。


 マグカップに視線を落としたまま、指先だけが動いている。


「そんなに」


 やがて、小さな声がした。


「そんなに心配してたの?」


「……うん」


 今度は迷わなかった。


「言わなかったけど」


「そう」


「母さんが大丈夫って言うから」


「……うん」


「でも、もう大丈夫って思えない」


 母親は唇を結んだ。


 しばらくして、目元を押さえる。


「ごめんね」


 また、その言葉だった。


「だから」


 拓真は首を振る。


「謝ってほしいんじゃない」


 以前も同じことを言った。


 床で眠っていた母親を起こした時。


 あの時は、その先まで言えなかった。


「ちゃんとしてほしいとか、そういうことじゃなくて」


「……うん」


「一人で何とかしようとしないでよ」


 言ってから、自分にも返ってくる言葉だと思った。


 母親がゆっくり顔を上げる。


「拓真に言われちゃった」


「何が」


「一人で何とかしようとするなって」


「……悪い?」


「ううん」


 母親は小さく笑った。


 笑ったあと、目尻を指で拭った。


「病院……調べてみる」


「ほんと?」


「うん」


「行ってよ」


「分かってる」


「絶対?」


「そんなに言わなくても」


 少しだけ、いつもの母親の声に戻った。


 拓真は息を吐く。


「会社にも、ちゃんと話す」


「うん」


「あと」


 母親が言いにくそうに視線を逸らした。


「お酒も、ちょっと減らす」


「ちょっと?」


「いきなり全部は無理よ」


「……そっか」


 それ以上は言わなかった。


 母親が何をできて、何をできないのか、自分には分からない。


 でも今日は、母親の「大丈夫」で話が終わらなかった。


 それだけは分かった。




 自分の部屋へ戻る。


 扉を閉めた瞬間、身体から力が抜けた。


「……疲れた」


 ベッドへ座る。


 手を見ると、わずかに震えていた。


 あれだけのことを言うのに、こんなに緊張するとは思わなかった。


 怖かった。


 母親が怒るかもしれないと思った。


 泣かせるかもしれないと思った。


 嫌な顔をされるかもしれないと思った。


 それでも、言えた。


『大丈夫じゃない』


 あの言葉だけは、はっきり覚えている。


 スマートフォンを手に取る。


 黒川との画面を開いた。


 少し迷ってから文字を打つ。


『母さんに話した』


 送る。


 しばらくして、返事が来た。


『そっか』


 それだけだった。


 もう一通。


『話せたんだね』


『うん』


『お母さんは?』


 拓真は少し考える。


『病院調べるって』


『そっか』


 また同じ言葉。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


『よかったね、とはまだ言わない方がいい?』


 拓真は少し笑った。


『知らない』


『じゃあ言わない』


『何それ』


『分かんないこと適当に言わない主義なので』


 喫茶店で言っていたことを思い出す。


『そうだったな』


『うん』


 それで会話は終わった。


 拓真はスマートフォンを伏せる。


 黒川に話した時もそうだった。


 何かが解決したわけではない。


 今日も同じだ。


 母親に言ったからといって、明日から全部元に戻るわけではない。


 それでも、言わなかった昨日までとは違った。




 午後。


 拓真は生徒会の用事で学校へ向かった。


 夏休み中の校舎は静かだった。


 普段なら人で埋まっている廊下にも、部活動へ向かう生徒が時々通るくらいだった。


「会長、これどこまでやればいいですか?」


 生徒会室へ入るなり、後輩に声を掛けられる。


「それ、先生に出すところまで」


「今日ですか?」


「今日」


「うわあ」


「昨日やっとけばよかっただろ」


「それは言わない約束です」


「してないけど」


 周りから笑い声が上がった。


 拓真も笑う。


 資料を確認しながら、指示を出す。


 こういうことなら分かる。


 何をすればいいのか。


 誰に渡せばいいのか。


 いつまでに終わらせればいいのか。


 答えがある。


 家のことには、答えがなかった。


 だからずっと怖かったのかもしれない。


 それでも、分からないなら、分からないと言えばいい。


 今日ようやく、それができた気がした。




 夕方、家へ帰る。


「ただいま」


「おかえり」


 すぐに返事があった。


 リビングへ入ると、母親はテーブルに座っていた。


 目の前にはスマートフォンと、一枚のメモ用紙が置かれている。


「何してるの?」


「病院、ちょっと見てた」


 拓真の足が止まる。


「……ほんとに?」


「何その顔」


「いや」


「自分で言ったんでしょ」


「そうだけど」


 メモには、病院らしい名前がいくつか書いてあった。


 拓真は細かく見ないようにした。


「いつ行くの?」


「まだ決めてない」


「そっか」


「電話して聞いてみようかなって」


「うん」


 それだけ答えた。


 嬉しい、と言っていいのか分からなかった。


 安心するのも、まだ早い気がした。


 でも朝よりは、呼吸がしやすかった。


「今日、ご飯どうする?」


 母親が聞く。


「何でも――」


 言いかけて止まる。


 母親が首を傾げた。


「何?」


「……カレー」


「カレー?」


「食べたい」


「珍しい」


「何が」


「拓真が食べたいもの言うの」


 拓真は一瞬黙った。


 それから。


「最近、練習してるから」


「何の?」


「何でもない」


「結局言うんじゃない」


 母親が笑った。


 拓真も笑った。




 夜。


 母親と一緒に夕食を食べた。


 カレーは、いつもの味だった。


 母親は全部は食べなかったけれど、半分以上は口にした。


 食後、母親が冷蔵庫を開ける。


 拓真の視線が、無意識にそちらへ向いた。


 母親は中を見たあと、麦茶を取り出した。


 拓真は何も言わなかった。


 母親も何も言わず、ただ、グラスへ麦茶を注いだ。


 それだけだった。


 たった一日、それだけで何かが変わったなんて、思わない方がいい。


 明日はまた違うかもしれない。


 病院へ本当に行くのかも、まだ分からない。


 それでも、何も言わずにいた昨日までとは違う。


「今日はもう寝るね」


 母親が立ち上がる。


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


 母親は自分の部屋へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 家は静かになった。


 拓真はしばらくリビングに残っていた。


 今朝、ちゃんと言えた。


 母親がこれからどうなるのかは、分からない。


 自分の言葉で何かが変わるのかも、分からない。


 でも、言わなかったことを後悔するのとは違う。


 今日は怖いと言えた。


 大丈夫じゃないと言えた。


 それだけでいい。


 今は、そう思った。




 自分の部屋へ戻る。


 ベッドへ横になり、目を閉じる。


 家は静かだった。


 けれど、その静けさが今日は昨日までと少し違って聞こえた。


 久しぶりに眠れそうな気がした。

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