二十七 ごめんね
八月に入った。
夏休みは半分近く過ぎたのに、暑さは少しも弱くならなかった。
朝から蝉が鳴いている。
けれど、家の中は静かだった。
拓真は、その静けさに慣れ始めていた。
母親が仕事へ行かない日が増えた。
少し前までは、休んだ翌日にはいつもの時間に起きて、化粧をして、仕事へ向かっていた。
今は違う。
朝になっても部屋から出てこない。
昼になって、ようやくリビングへ下りてくる。
そんな日の方が増えていた。
それでも、まったく仕事へ行かなくなったわけではない。
何日か家にいたあと、何事もなかったように出勤する日もある。
だから拓真には、余計に分からなかった。
どこからが、本当に心配しなければならない状態なのか。
もう、その境目を越えているのか。
それともまだ、大げさに考えすぎているだけなのか。
昼過ぎ。
自分の部屋から下りると、母親がダイニングテーブルに座っていた。
冷たい麦茶を飲みながら、スマートフォンを眺めている。
「今日も休み?」
拓真が聞くと、母親は顔を上げた。
「うん」
「会社には連絡した?」
「したよ」
「何て?」
「体調悪いって」
「体調悪いの?」
「今日はちょっとだるいかな」
ちょっと。
その言葉も、最近よく聞くようになった。
「病院は?」
「行くほどじゃないよ」
「でも、この前も――」
そこまで言って、止まる。
床で眠っていた母親の姿が浮かんだ。
呼んでも、すぐには起きなかった。
「何?」
「……いや」
母親は少しだけ拓真を見た。
「心配しすぎ」
「してないよ」
反射的に答えた。
言ったあとで、自分でも分かった。
嘘だった。
母親は麦茶の入ったグラスを持ち上げる。
「大丈夫だから」
拓真は何も言わなかった。
大丈夫。
もう、その言葉を聞いて安心することはできなかった。
それでも。
「そっか」
返したのは、やっぱりそれだけだった。
数日後。
夕方になって、黒川からメッセージが来た。
『今暇?』
拓真はベッドに寝転がったまま画面を見る。
『暇』
返すと、すぐに既読がついた。
『駅前いるんだけど』
『何してんの』
『公園でアイス食べてる』
『一人で?』
『悪い?』
『別に』
『暇なら来れば』
少し迷った。
リビングからは、テレビの音が聞こえている。
母親は今日は起きていた。
昼にはパンも食べていた。
『行く』
送信して、起き上がった。
駅前までは、自転車で十五分ほどだった。
駐輪場に自転車を停め、駅前の公園へ向かう。
夕方になっても、まだ空気は暑い。
蝉の声に混じって、噴水の近くでは子どもたちの声が聞こえていた。
黒川は木陰のベンチに座っていた。
手には棒アイス。
「ほんとに食べてる」
「何だと思ったの?」
「知らない」
「じゃあ言わないでよ」
黒川が隣を軽く叩く。
拓真は少し間を空けて座った。
「いる?」
「何が」
「アイス。もう一本ある」
「何で二本買ったんだよ」
「二個買うと安かったから」
「一人で二本食べるつもりだった?」
「悪い?」
「食べすぎだろ」
「じゃあいらない?」
「いる」
「素直」
渡されたアイスを受け取る。
袋を開けると、冷気が指に触れた。
「この前のプリンとどっちが美味しい?」
「まだそれ引っ張るの?」
「大事だから」
「……こっちはまだ食べてないだろ」
「あ、そっか」
「馬鹿なの?」
「失礼」
少し笑った。
喫茶店で話した時と同じだった。
何でもない話をしている間だけは、家のことを考えなくて済む。
アイスを少し食べたところで、黒川が言った。
「そういえば」
「ん?」
「お母さん、その後どう?」
やっぱり。
その話になるのかと思った。
「……あんまり変わってない」
「仕事は?」
「休んでる」
「ずっと?」
「ずっとじゃないけど」
拓真は溶け始めたアイスを見る。
「行かない日の方が多いかも」
「そっか」
「今日も休んでた」
「体調悪いって?」
「うん」
「病院は?」
「行かない」
黒川はそれ以上すぐには聞かなかった。
二人の間を、蝉の声が埋める。
「如月君」
「何?」
「この前さ」
「うん」
「私、話くらいなら聞けるって言ったじゃん」
「言ったね」
「でも、ちょっと考えたんだよね」
「何を」
黒川は食べ終わったアイスの棒を袋へ戻した。
「私だけ知ってていい話なのかなって」
拓真は黒川を見る。
「どういう意味?」
「だって、私は聞くことしかできないし」
「それは前にも言ってたじゃん」
「うん」
黒川は少し困ったように笑った。
「だから、先生とか……もっとちゃんと分かる人にも話した方がいいのかなって」
「先生に?」
「例えばね」
「何て言うんだよ」
「それは……」
黒川が詰まる。
「ほら」
「だから私も分かんないって」
「じゃあ駄目じゃん」
「駄目ではないでしょ」
少しだけ強い声だった。
拓真は黙る。
黒川も一度黙ったあと、言った。
「この前、如月君、自分で言ってたじゃん」
「何を」
「どうしたらいいんだろうって」
覚えていた。
喫茶店で自分から口にした言葉だった。
「……言ったけど」
「だったら、分からないまま一人で考え続けなくてもいいんじゃない?」
「でも」
「うん」
「母さん、嫌がると思う」
「そっか」
「大げさにしたくないし」
「うん」
「本当にそこまでじゃないかもしれないし」
言いながら、自分が誰を納得させようとしているのか分からなくなった。
黒川は何も否定しなかった。
少しして、拓真の手元を見る。
「溶けてるよ」
「え?」
「アイス」
「あ」
溶けた雫が指に垂れていた。
「最悪」
「何やってんの」
「黒川が変な話するからだろ」
「私のせい?」
「半分くらい」
「絶対違う」
黒川が笑う。
拓真も笑った。
それで、その話は終わった。
黒川は答えを知らない。
自分も知らない。
それでも、自分以外にも、このことを考えている人がいる。
その事実だけは、少し不思議だった。
家へ戻ると、玄関を開けた瞬間に酒の匂いがした。
もう、驚かなくなっていた。
「ただいま」
「おかえり」
返事がある。
それだけで少し安心する自分が嫌だった。
リビングへ入ると母親はソファに座っていた。
テレビがついている。
テーブルの端には、飲みかけの酒が置かれていた。
「出掛けてたの?」
「駅前」
「暑かったでしょ」
「うん」
「誰かと?」
「黒川」
「ああ、お友達?」
「まあ」
「女の子?」
「そうだけど」
「へえ」
「何」
「別に」
母親が少し笑った。
「何だよ」
「何でもない」
「俺の真似?」
「そんなつもりないわよ」
久しぶりに、母親と普通の会話をした気がした。
拓真はソファの反対側へ座る。
テレビでは、どこかの観光地を紹介していた。
海。
青い空。
大勢の観光客。
しばらく二人で黙って見ていた。
「拓真」
母親が言った。
「ん?」
「……ごめんね」
拓真は母親を見る。
「何が?」
母親はテレビを見たままだった。
「最近」
「最近?」
「ご飯とか、ちゃんと作れてないし」
「別にいいよ」
「家のことも」
「俺できるし」
「そうじゃなくて」
母親がようやくこちらを見る。
少し疲れた顔をしていた。
「色々」
それ以上は言わなかった。
拓真は母親を見る。
今だった。
そう思った。
言葉は、もうあった。
黒川にも言われた。
一人で考えなくていいのかもしれない。
「母さん」
「ん?」
母親が見る。
言え。
今なら。
「……」
喉まで出てきた。
けれど、母親の顔を見ていると困らせたくないと思った。
これ以上、自分まで心配を増やしたくないと思った。
結局。
「気にしなくていいよ」
口から出たのは、それだった。
母親の目が少し揺れた。
「……そっか」
「うん」
短い沈黙。
母親は小さく笑った。
「ありがとう」
拓真は何も返せなかった。
夜。
ベッドへ入ってからも、母親の声が残っていた。
『ごめんね』
何に対する謝罪だったのだろう。
ご飯を作れないこと。
仕事を休んでいること。
酒を飲んでいること。
それとも、もっと別のこと。
分からない。
ただ。
『ありがとう』
そちらの方が、なぜか耳から離れなかった。
気にしなくていい。
自分はそう言った。
でも本当は、気にしていた。
ずっと怖かった。
母親がどうなってしまうのか。
この家がどうなるのか。
自分はどうしたらいいのか。
気にしなくていいなんて思っていなかった。
言葉は見つかっていたはずなのに。
また、本当とは逆のことを言った。
拓真は目を閉じた。
次にまた同じように言葉を飲み込みそうになったら。
その時こそ。
今度こそ。
ちゃんと言おう。
そう思った。




