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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十六 何でもよくない

 夏休みに入った。


 朝から蝉の声が響いている。


 窓を閉めても、遠くで鳴いているのが分かった。


 学校へ行かなくていい朝は、もっと気楽なものだと思っていた。


 去年なら、昼まで寝て大和からの連絡に気付かなかったり、急に呼び出されて自転車で出掛けたりしていた。


 今年は、目覚ましが鳴らなくても早く目が覚める。


 起きると最初に、家の中の音を確かめるようになった。


 母親が起きているか。


 仕事へ行く準備をしているか。


 それとも、今日も、休むのか。




 母親が仕事を休む日は、少しずつ増えていた。


 毎日ではない。


 朝早く起きて、いつも通り化粧をして出掛ける日もある。


 夕方になれば買い物袋を下げて帰ってきて、簡単な夕食を作ることもあった。


 だからこそ、拓真には分からなかった。


 本当に体調が悪いのか。


 ただ疲れているだけなのか。


 自分が心配しすぎているのか。


 最初は、体調が悪いと言って休んだ。


 その次は、


「有給余ってるから」


 と笑った。


 さらに何日かして、また母親が家にいた時、拓真は理由を聞かなかった。


 聞いても、また何かしらの答えが返ってくる気がした。




 昼過ぎ。


 自分の部屋から下りると、母親はリビングのソファに座っていた。


 テレビでは昼の情報番組が流れている。


 けれど、母親は画面を見ているようで見ていなかった。


「母さん」


「ん?」


 振り向いた声は、いつもと変わらない。


「今日も休み?」


「うん」


「体調悪いの?」


「今日は平気」


「じゃあ何で?」


 母親の視線が一度テレビへ戻った。


「たまにはいいでしょ」


「この前も休んでたじゃん」


「有給あるんだから」


「仕事、大丈夫なの?」


 少し間があった。


「普通よ」


 拓真は母親を見る。


 普通。


 その言葉に、すぐ気付いた。


 自分が何度も使ってきた言葉だった。


 学校はどうだった。


 普通。


 最近どう。


 普通。


 何かあった。


 別に。


 大丈夫。


 何でもない。


 話を終わらせたい時には、便利な言葉だった。


「……普通って?」


「え?」


「何が普通なの」


 思っていたより低い声が出た。


 母親が驚いたようにこちらを見る。


「何って……仕事よ」


「休む日、増えてるのに?」


「そんなに休んでないわよ」


「増えてるよ」


「拓真」


 名前を呼ばれた。


 怒っているわけではなく、困ったような声だった。


 それだけで、続きが止まった。


 言いたかった。


 この前みたいに倒れていたら怖い。


 酒も減らしてほしい。


 仕事のことだって、本当に大丈夫なのか知りたい。


 一人で無理なら、誰かに頼ってほしい。


 けれど。


「……いや」


 母親の顔を見ると、言葉が引っ込んだ。


「ごめん」


「何で謝るの」


「別に」


 また。


 自分で言ってから分かった。


 母親が小さく笑う。


「変な子」


「うるさい」


「お昼食べた?」


「まだ」


「何か食べる?」


「何でもいい」


「じゃあ、そうめんでいい?」


「うん」


 母親は立ち上がった。


 キッチンへ向かう背中を見る。


 普通に歩いている。


 普通に返事もする。


 普通に昼食を作ろうとしている。


 それを見ると、さっきまで自分が感じていた不安の方が、間違っているような気がしてきた。




 数日後。


 昼前にスマートフォンが鳴った。


 黒川からだった。


『明日暇?』


『急だな』


 すぐに返事が来る。


『駅前の喫茶店行きたい』


『友達誘えよ』


『誘った』


『じゃあそいつと行けよ』


『部活だって断られた』


『俺は補欠かよ』


『友達なんだからいいでしょ』


 拓真は画面を見て、少し笑った。


『暇だけど』


『じゃあ決まり』


『勝手だな』


『一時ね』


 断ろうとは思わなかった。


 それが自分でも意外だった。




 翌日。


 駅前は夏休みに入った学生で混んでいた。


「遅い」


「まだ一時前だろ」


「三分前」


「間に合ってるじゃん」


「私は十分前からいた」


「それは黒川が早いだけ」


 黒川は納得していない顔をしながら歩き出した。


 制服ではなく、薄い色のシャツにロングスカートを穿いている。


 学校以外で会うこと自体が珍しく、いつもとは少し違って見えた。


「制服じゃないと、なんか違うな」


「そりゃ夏休みだからね」


「制服で来たら面白かったのに」


「如月君だけ制服で来ればよかったじゃん」


「嫌だよ」


「ちゃんと嫌って言えるじゃん」


「そこ褒めるところ?」


「どうだろ」


 黒川が笑う。


 拓真も笑った。


 駅前の喫茶店へ入る。


 窓際の席へ案内され、二人でメニューを開いた。


「私これ」


 黒川がすぐに一つを指差す。


 桃が山ほど載ったパフェだった。


「でかくない?」


「これ食べに来たんだから」


「昼飯それ?」


「昼飯は食べた」


「よく入るな」


「別腹」


「便利な言葉だな」


 黒川がメニューを閉じる。


「如月君は?」


「俺?」


「何食べる?」


「何でもいい」


「それ禁止」


「は?」


「何でもって言わない」


 黒川が真顔で言った。


「何で」


「如月君、それ多すぎ」


「そう?」


「そう」


「別に何でもいい時だってあるだろ」


「じゃあ今日は?」


 拓真はメニューを見る。


 コーヒー。


 サンドイッチ。


 プリン。


 ケーキ。


 いくつも写真が並んでいる。


「……何でもいい」


「禁止って言ったでしょ」


「決まんないんだよ」


「じゃあ決まるまで待つ」


「店員より厳しいな」


「如月君が決めなさすぎなんでしょ」


 黒川は笑いながら、頬杖をついた。


「甘いのと甘くないの、どっち?」


「……甘いのかな」


「じゃあケーキとプリン」


「二択にするなよ」


「選びやすいでしょ」


 もう一度写真を見る。


 どちらでもいい。


 そう言おうとして、止めた。


「……プリン」


「はい、決まり」


「子どもみたいに言うな」


「ちゃんと選べるじゃん」


「プリン一個で何なんだよ」


「別に」


「それ俺のやつだろ」


 黒川が吹き出した。


 拓真も笑った。


 注文を終えてからも、しばらくどうでもいい話をした。


 夏休みの課題が多いとか。


 生徒会は夏休みも何日か学校へ行かなければならないとか。


 黒川が家でエアコンの設定温度を下げすぎて、母親に怒られたとか。


 久しぶりに、自分が高校生らしい話をしている気がした。


 やがて注文したものが運ばれてくる。


 黒川の前には、写真よりさらに大きく見えるパフェ。


 拓真の前には、小さなプリン。


「そっちの方が絶対いいな」


「今さら?」


「一口くれない?」


「嫌」


「即答」


「自分でプリン選んだでしょ」


「そうだけど」


 スプーンを入れる。


 一口食べる。


 思っていたより、ちゃんと美味しかった。


「美味しい?」


「うん」


「普通じゃないんだ」


「今日はちゃんと美味しい」


「成長したね」


「馬鹿にしてるだろ」


「半分くらいは褒めてる」


「どっかで聞いたな、それ」


 また笑った。


 そのあと、黒川がパフェの桃を一つ口に入れてから言った。


「そういえば」


「ん?」


「この前、お母さん体調悪いって言ってたじゃん」


 拓真の手が止まる。


「……うん」


「その後どう?」


 聞かれた後、いつもの言葉が浮かんだ。


 大丈夫。


 普通。


 もう平気。


 どれか一つ言えば、この話は終わる。


「……仕事、休む日増えてる」


 黒川が顔を上げた。


「そうなんだ」


「毎日じゃないけど」


「体調?」


「分かんない」


 プリンをスプーンですくう。


 けれど、口には運ばなかった。


「酒も、前より飲んでる」


 そこまで言ってから、拓真は視線を落とした。


 自分から口にした。


 誰かに。


 初めてだった。


「この前、帰ったら床で寝てて」


「え」


「呼んだら起きたけど」


「……そっか」


「病院行こうって言っても行かないし」


 黒川はすぐには何も言わなかった。


 それがありがたかった。


「俺さ」


「うん」


「どうしたらいいんだろうな」


 声に出してから、自分でも驚いた。


 助けて。


 あの夜、言えなかった言葉とは違う。


 でもたぶん、近いところにある言葉だった。


 黒川は困ったように眉を寄せた。


「……ごめん。私には分かんない」


「だよな」


「うん。家のことも、お母さんのことも知らないし」


 黒川はそう言ってから、少し考えた。


「変なこと言って、余計困らせたくないし」


「正直だな」


「適当なこと言うよりよくない?」


「まあね」


「でも」


 黒川が拓真を見る。


「話くらいなら聞けるよ」


「それだけ?」


「それ以上できないもん」


 あまりに普通の言い方で。


 拓真は笑った。


「そっか」


「うん」


「……ありがと」


「どういたしまして」


 黒川はまたパフェを食べ始めた。


 それ以上、母親について聞いてこなかった。


 拓真も話さなかった。


 けれど、黙ったままでも、さっきまでとは少し違った。


 誰かが知っている。


 母親が仕事を休むようになったことを。


 酒が増えていることを。


 自分が困っていることを。


 何も解決していない。


 それでも、一人で知っているのとは、少しだけ違った。




 店を出る頃には、夕方になっていた。


「結局パフェ全部食べたな」


「余裕」


「途中苦しそうだったけど」


「気のせい」


「最後無言だったじゃん」


「集中してたの」


「何に」


「桃に」


「意味分かんない」


 黒川が笑う。


 駅前で別れる。


「じゃあね」


「うん」


「あ」


 黒川が振り返った。


「プリン、美味しかった?」


「まだ言う?」


「大事だから」


「……美味しかったよ」


「よし」


「何がよしなんだよ」


「じゃあ、また」


「また」


 黒川は手を振って歩いていった。


 拓真も反対方向へ向かう。


 久しぶりに長い時間、家の外にいた。


 母親のことを忘れていたわけではない。


 それでも、笑えた。


 食べたいものを一つ、自分で選んだ。


 母親のことも、少しだけ話せた。


 それだけのことなのに、帰り道の足取りは、来た時より軽かった。




「ただいま」


「おかえり」


 すぐに返事があった。


 拓真は靴を脱ぎながら、少し安心する。


 リビングへ入ると、母親はソファに座ってテレビを見ていた。


 髪も整っている。


 テーブルの上にも、酒の缶はなかった。


「出掛けてたの?」


「うん」


「誰と?」


「クラスのやつ」


「珍しいね」


「そう?」


「最近ずっと家にいたから」


「まあ」


「楽しかった?」


「……うん」


 母親が笑う。


「よかった」


 その顔は、昔と何も変わらないように見えた。


「何か食べた?」


「プリン」


「それだけ?」


「コーヒーも」


「お昼は?」


「食べたよ」


「ならいいけど」


「子どもじゃないんだから」


「親から見たら子どもよ」


 いつもの会話。


 いつもの母親。


 拓真はソファの横に立ったまま、その顔を見た。


 今日黒川に話したことが、急に大げさだったような気がした。


 仕事を休む日が増えている。


 酒を飲む量が増えた。


 床で眠っていた。


 それは全部本当なのに、今、目の前にいる母親は普通に笑っている。


「何?」


「いや」


「変な顔」


「してない」


「してる」


「母さんこそ」


「何それ」


 二人で笑った。


 その時母親が立ち上がった。


「喉渇いた」


 冷蔵庫へ向かう。


 扉を開ける。


 拓真はその背中を見た。


 母親の手が、酒へ伸びる。


「母さん」


「ん?」


 振り返る。


 言葉は、もうあった。


 飲むのをやめてほしい。


 仕事を休んでいるのが心配だ。


 また倒れていたら怖い。


 病院へ行ってほしい。


 誰かに頼ってほしい。


 自分一人で抱えないでほしい。


 そして。


 俺一人にしないでほしい。


 何でもよくなかった。


 どうでもよくなかった。


 言いたいことは、もう分からないわけではなかった。


「……明日、仕事?」


「んー」


 母親は冷蔵庫の中を見ながら答える。


「明日は休もうかな」


「そっか」


「夏休みなんだから、拓真もゆっくりしなさいよ」


「うん」


 母親が缶を取り出した。


 ぷしゅ、と音がする。


 拓真は何も言わなかった。


 言葉は、もう見つかっていた。


 ただ、母親に向けて声にすることだけが、まだできなかった。

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