二十五 助けて
七月も終わりに近付いていた。
夏休みは、もうすぐそこまで来ている。
教室では旅行の予定や部活の大会、夏期講習の話が飛び交っていた。
去年なら、大和と何をするか適当に話していた頃だった。
今年はまだ、夏休みの予定を一つも決めていない。
大和がこちらへ帰ってくる日も、まだ分からなかった。
それでも今の拓真には、夏休みより気になることがあった。
朝。
目を覚ますと、家の中が静かだった。
時計を見ると七時を過ぎている。
「……母さん?」
いつもなら、キッチンから何かしら音が聞こえる時間だった。
階段を下りる。
リビングには誰もいない。
昨夜使った食器が、テーブルの端に残っていた。
その横に、空になった酒の缶が置かれている。
拓真はしばらくそれを見た。
以前なら、朝には片付いていた。
「母さん?」
もう一度呼ぶ。
返事はなかった。
母親の部屋の前まで行き、少し迷ってから扉を叩く。
「入るよ」
返事はなかった。
少し待ってから、扉を開けた。
母親はベッドに横になっていた。
目は開いている。
「起きてたの?」
「……うん」
声にいつもの張りがなかった。
「もう七時過ぎてるけど」
「そうね」
「仕事は?」
母親は少し黙った。
「今日は休む」
「え?」
「ちょっと体調悪くて」
拓真はベッドのそばまで近付いた。
「どっか痛い?」
「そういうのじゃないの」
「熱は?」
「ないと思う」
「病院行く?」
「大丈夫よ」
また、その言葉だった。
母親は笑おうとした。
けれど、いつもの笑顔には見えなかった。
「寝てれば治るから」
「……ほんとに?」
「ほんと」
拓真は時計を見る。
学校へ行かなければならない。
でも、このまま母親を置いていっていいのだろうか。
「俺、休もうか?」
「何言ってるの」
母親が少しだけ笑った。
「学校行きなさい」
「でも」
「大丈夫だから」
拓真は何も言えなくなった。
「……昼、何か食べてね」
「はいはい」
「ちゃんとね」
「分かったから。遅刻するよ」
「うん」
部屋を出ようとして、振り返る。
母親はもう目を閉じていた。
「行ってきます」
返事は少し遅れて聞こえた。
「……行ってらっしゃい」
拓真は扉を閉めた。
学校へ着いてからも、母親のことが頭から離れなかった。
「如月」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「はい」
教師がこちらを見ていた。
「次」
「……え?」
「二十五ページ。続き読んで」
「あ、はい」
慌てて教科書を開く。
ページが違っていた。
近くの生徒が小声で教えてくれる。
「そこじゃない。次」
「……ありがと」
言われたページを開き直す。
教室の前から教師のため息が聞こえた。
「珍しいな、如月がぼーっとしてるなんて」
「すみません」
何人かが笑った。
拓真も少し笑ってごまかした。
けれど教科書の文字は、しばらく頭に入ってこなかった。
昼休み。
拓真はスマートフォンを開いた。
朝、家を出てから送ったメッセージには、まだ返事がない。
『起きた?』
既読もついていなかった。
「食べないの?」
声に顔を上げる。
黒川がいた。
「何?」
「それ」
机の上を見る。
買ってきたパンが、袋に入ったまま置いてある。
「ああ」
「いらないならもらうけど」
「食べるよ」
「じゃあ食べなよ」
「今食べようと思ってた」
「ほんと?」
「ほんと」
袋を開ける。
一口食べたところで、またスマートフォンを見る。
まだ変わっていない。
「誰かから連絡待ってる?」
「……まあ」
「水嶋君?」
「違う」
答えてから、自分でも少し驚いた。
黒川も一瞬だけ黙る。
「そっか」
それだけ言って、自分の飲み物へ手を伸ばした。
拓真はパンをもう一口食べる。
味がほとんどしなかった。
「黒川」
「ん?」
気付けば呼んでいた。
「……」
「何?」
母さんが。
そこまで言いそうになった。
口を閉じる。
「いや」
「また何でもない?」
「……うん」
黒川は拓真を見た。
以前なら、そこで何か言われると思った。
けれど今日は違った。
「分かった」
黒川はストローを咥える。
拓真は少しだけ肩の力を抜いた。
これでいい。
「でも」
黒川が言う。
「今日、なんか変だよ」
「そう?」
「授業でも先生に当てられて固まってたし」
「見てたの?」
「同じ教室にいるんだから見るでしょ」
「恥ずかしいな」
「珍しかった」
「寝不足かも」
「そっか」
黒川はそれ以上追及しなかった。
そのままパンの袋を見て言う。
「それ、美味しい?」
「普通」
「あ、また言った」
「今日はパンの感想だからいいだろ」
「それなら許す」
「何様だよ」
少しだけ笑った。
いつもの会話だった。
それなのに、笑ったあとで胸の中に何かが残った。
黒川なら。
一言くらいなら、言ってもいいのだろうか。
「……家でさ」
声が出た。
黒川がこちらを見る。
「うん」
「母さんが、ちょっと……」
そこで止まった。
「体調悪い?」
「……たぶん」
「朝から?」
「うん」
「そっか」
黒川は静かに頷いた。
「心配なんだ」
拓真は答えなかった。
心配。
たぶん、そうなのだと思う。
でも、それだけではない気もした。
「帰った方がいいんじゃない?」
「そこまでじゃないよ」
「そう?」
「本人も大丈夫って言ってたし」
口にしてから、少しだけ引っかかった。
黒川は何も言わない。
「……何?」
「何も」
「絶対何か思っただろ」
「本人が大丈夫って言ってるなら、私には分かんないし」
「だよね」
「でも、如月君が気になるなら早く帰れば?」
それだけだった。
「……うん」
「今日、生徒会ある?」
「あるけど、そんな遅くならない」
「じゃあ終わったら帰りなよ」
「黒川に言われなくても帰るって」
「ならいいです」
黒川はいつもの調子で笑った。
拓真も少しだけ笑った。
母親のことを誰かに話した。
たったそれだけ。
何がどうなったわけでもない。
それでも、ずっと胸の中にあったものを、ほんの少しだけ外へ出せた気がした。
放課後。
生徒会の仕事を終えると、拓真はいつもより早く学校を出た。
途中でスマートフォンを見る。
母親からの返信はまだない。
電話を掛けようか迷う。
結局、そのままポケットへ戻した。
家に着けば分かる。
そう思って、自転車を漕ぐ速度を上げた。
「ただいま」
玄関を開けるが返事はない。
母親の靴はある。
「母さん?」
リビングへ向かう。
扉を開けた瞬間、拓真の足が止まった。
「……母さん?」
母親が床にいた。
ソファの前。
カーペットの上に身体を横たえるようにして、眠っている。
テーブルの上には、朝にはなかった酒の缶。
片付けられていない食器。
「母さん!」
鞄を放り出し、駆け寄る。
「母さん!」
肩へ手を置く。
一度目は反応がなかった。
息が止まりそうになった。
「母さん!」
「……ん」
母親の眉が動いた。
ゆっくりと目を開ける。
「……拓真?」
その声を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。
「何してんの」
「え……?」
「床で寝てる」
母親はぼんやり周囲を見る。
「ああ……寝ちゃったのね」
「何でここで」
「分かんない」
「分かんないって……」
言葉が強くなる。
母親は目元を押さえながら身体を起こした。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃなくて」
「うん」
「朝から体調悪かったんでしょ」
「ちょっと寝不足だっただけ」
「だったら何で飲んでるの」
母親が黙った。
拓真も、言ってから黙る。
こんな言い方をしたかったわけではなかった。
「……水、持ってくる」
キッチンへ行く。
コップへ水を入れる手が、少し震えていた。
母親へ渡す。
「ありがと」
「ちゃんと飲んで」
「うん」
母親は少しずつ水を飲んだ。
「病院行こうよ」
「今日はちょっと疲れてただけだから」
「朝もそう言ってたじゃん」
「寝たら少し楽になったよ」
母親は笑った。
拓真はその顔を見る。
本当にそうなのか。
もう分からなかった。
「父さんに連絡する?」
「しなくていい」
返事は早かった。
「でも」
「大丈夫だから」
また。
拓真は唇を噛んだ。
「……分かった」
そう言うしかなかった。
母親が部屋へ戻ったあと、拓真は一人でリビングに残った。
テーブルを片付ける。
食器を流しへ運ぶ。
空になった缶を手に取る。
空っぽなのに、手の中で妙に重く感じた。
少し前までは、母親がお酒を飲んでいるくらいで、何を気にしているのだろうと思っていた。
仕事にも行っていたし食事も作っていた。
笑っていた。
大丈夫だと言っていた。
今日だって、ただ床で眠っていただけだ。
呼べば起きたし話もできた。
水も飲んだ。
だから、大丈夫。
そう思えばいいはずだった。
でも、さっき母親が目を開けなかった、ほんの数秒。
頭に浮かんだものが消えなかった。
もし、次は呼んでも起きなかったら。
もし、本当に何かあったら。
その時、自分一人で、どうすればいい。
父親に電話する?
病院へ連れていく?
誰かに相談する?
誰に。
大和。
黒川。
父親。
学校の先生。
名前はいくつも浮かぶ。
誰もいないわけではない。
それなのに、誰に何を言えばいいのか分からなかった。
母さんがおかしい。
怖い。
どうしたらいいか分からない。
頭の中には、言葉がいくつもあった。
その奥からたった一つ。
今まで考えたことのなかった言葉が浮かんだ。
――助けて。
拓真は動きを止めた。
助けてほしい。
母親を。
それとも。
自分を。
どちらなのか分からなかった。
ただ、自分一人では、もう分からなかった。
夜。
自分の部屋へ戻っても、なかなか眠れなかった。
スマートフォンを手に取り大和との画面を開く。
閉じる。
父親との画面を開く。
閉じる。
黒川の名前も見えた。
指はどこにも触れなかった。
誰か一人を選んでたった一言、言えばいいのかもしれない。
助けて。
それだけでいいのかもしれない。
なのに、その三文字が、自分のことになるとひどく重かった。
拓真はスマートフォンを伏せた。
目を閉じる。
母親が床に倒れていた姿が浮かんだ。
すぐに目を開ける。
怖かった本当は。
ずっと怖かったのかもしれない。
いつからなのかは、もう分からない。
父親が家を出た時からか。
母親が酒を飲むようになった頃からか。
それとも、もっと前から。
喉の奥が痛くなった。
拓真は布団を顔まで引き上げた。
「……」
言おうとした。
けれど、声にならなかった。
代わりに、涙が一つ落ちた。
それをきっかけにしたように、次から次へと溢れてくる。
拓真は声を殺した。
誰にも聞こえないように。
誰にも気付かれないように。
久しぶりに、泣いた。
助けて、と言えないまま。




