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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十四 遠ざかる声

 七月。


 梅雨が明けると、急に夏らしい暑さになった。


 朝から窓を開けていても、入ってくるのは生ぬるい風ばかりだった。


「暑……」


「まだ一時間目始まってないぞ」


「もう帰りたい」


「早すぎだろ」


 教室のあちこちから、似たような声が聞こえてくる。


 拓真は教科書で軽く顔を扇ぎながら、窓の外を見た。


 空は嫌になるほど青かった。





 昼休み。


「来週の土曜って空いてる?」


 少し離れたところから聞こえた声に、拓真は何となく顔を上げた。


「花火だろ?」


「そう。駅前集合でいいかな?」


「何時?」


「六時くらい?」


 何人かがスマートフォンを見ながら予定を決めている。


 去年も同じ花火大会へ行った。


 その時は大和もいた。


 帰りの電車が混みすぎて、途中から歩いて帰った。


『絶対電車の方が早かったって』


『乗れなかっただろ』


『一本待てばよかったじゃん』


『お前が歩こうって言ったんだろ』


 そんな会話まで思い出せる。


「如月は?」


 名前を呼ばれて、拓真は顔を上げた。


「え?」


「来週の花火」


「ああ……」


 声を掛けられると思っていなかった。


「どうする?」


「まだ分かんない」


「家の予定?」


「別に、そういうわけじゃないけど」


「じゃあ、来れそうなら連絡して」


「うん」


「一応グループに時間送っとくわ」


「ありがと」


 それだけで会話は終わった。


 すぐにまた、誰が来るとか、屋台で何を食べるとか、そんな話が始まる。


 拓真は机へ視線を戻した。


 誘われた。


 だから、今までと何も変わらない。


 ただ、以前のように無理に引っ張られなかっただけだ。


 それなのに。


『来れそうなら連絡して』


 その言葉が、少しだけ残った。


 最初から自分が来るとは思われていなかったような気がした。


 でも、何度も断ってきたのは自分だ。


 そう考えると、それ以上何も思えなくなった。





 その日の夜。


 風呂から上がり、拓真はベッドへ寝転がった。


 何となくスマートフォンを開く。


 大和との最後のやり取りは、三日前だった。


 前なら長いと思ったはずなのに、今はそれほど気にならない。


 画面を閉じようとした時、新しいメッセージが届いた。


『夏休み一回そっち帰るかも』


 拓真はすぐに身体を起こした。


『マジ?』


『たぶん』


『いつ?』


 少しして返事が来る。


『まだ分かんない』


 続けて。


『こっちの奴らとも予定入ってるから』


 拓真の指が止まった。


 こっちの奴ら。


 それが誰を指しているのか、だいたい想像はつく。


 前に写真で見た、大和の新しい友人たち。


『そっか』


 送る。


『決まったら連絡する』


『うん』


 そこで一度、会話が途切れた。


 拓真は画面を見たまま動かなかった。


 大和には、新しい学校がある。


 新しい友達がいる。


 当たり前のことだった。


 むしろ、馴染めてよかったと思う。


 大和が一人でいるより、ずっといい。


 それなのに何となく、このまま画面を閉じたくなかった。


 返信欄を開く。


『最近さ』


 そこまで打ったが、指が止まる。


 母親のこと。


 酒を飲むことが増えていること。


 夕食が用意されていない日があったこと。


 大丈夫と言われても、本当なのか分からないこと。


 誰かに話したいのかもしれない。


 でも、何から書けばいい。


 大和は向こうで新しい生活を始めている。


 夏休みの予定だってある。


 わざわざ心配させるほどのことなのだろうか。


 母親は仕事にも行っている。


 普通に話もする。


 ただ少し、酒を飲むようになっただけだ。


 拓真は入力した文字を消した。


 しばらくして、大和からもう一通届く。


『帰れそうなら遊ぼうぜ』


 拓真は画面を見た。


『うん』


 それだけ送った。





 週末、花火大会の日。


 昼過ぎに、クラスのグループへ集合時間の確認が流れてきた。


 その少しあと。


『如月、今日どうする?』


 個別にメッセージが届いた。


 拓真は返信欄を開いた。


 予定はない。


 母親は仕事だし、家で待っていてほしいとも言われていない。


 だから行こうと思えば行けた。


『ごめん、今日はやめとく』


 送信する。


 すぐに返事が来た。


『了解! また今度な』


 拓真はスマートフォンを伏せた。


 行かない理由は、結局自分でも分からなかった。





 夕方。


 拓真はリビングのソファに座り、テレビを眺めていた。


 母親はまだ帰っていない。


 外が少しずつ暗くなる。


 やがて遠くから、低い音が聞こえた。


 少し遅れて、窓の外が明るくなる。


 花火が始まったらしい。


 どん、とまた音がする。


 拓真はカーテンの隙間から外を見た。


 ここから花火そのものは、ほとんど見えない。


 ただ、ときどき空が明るくなる。


 スマートフォンを開く。


 クラスメイトたちの投稿が流れていた。


 浴衣。


 屋台。


 たこ焼き。


 ピントのずれた花火。


 笑っている顔。


 行けばよかった。


 一瞬、そう思った。


 昼に「やっぱり行く」と送れば、それだけで済んだ。


 今からでも、終わる前に着けるかもしれない。


 そこまで考えて、拓真はスマートフォンを伏せた。


 もういいか。


 そう思った。


 忘れようとするかのようにテレビの音を少しだけ大きくした。





「ただいま」


 玄関の扉が開いたのは、花火の音がほとんど聞こえなくなった頃だった。


「おかえり」


 拓真はリビングから答えた。


 母親が入ってくる。


「今日、花火だったのね」


「うん」


「行かなかったの?」


「別にいいかなって」


「そう」


 母親はそれ以上聞かなかった。


 鞄を置き、大きく息を吐く。


「暑かった」


「お疲れ」


「疲れた」


 珍しく、はっきりそう言った。


 拓真は母親を見る。


「大丈夫?」


 口にしてから、少しだけ変な感じがした。


 いつも自分が聞かれる側だった言葉。


 母親は靴下を脱ぎながら笑った。


「大丈夫よ」


 やっぱり。


 同じ答えだった。


 母親は冷蔵庫を開ける。


 取り出したのは酒だった。


「また飲むの?」


 思わず言う。


 母親の手が止まった。


「またって何?」


「いや……最近多くない?」


「そう?」


「前より」


「仕事のあとくらいいいでしょ」


「別に駄目って言ってないけど」


 母親の表情が、一瞬だけ変わった。


「じゃあいいじゃない」


 少し強い声だった。


 拓真は黙る。


「……うん」


 母親はすぐに視線を逸らした。


 缶を開ける。


 ぷしゅ、と音がした。


 テレビでは、花火大会の中継が流れていた。


 色とりどりの光が画面いっぱいに広がっている。


 少しして、冷蔵庫の扉がもう一度開く音がした。


 拓真はテレビを見たまま動かなかった。


 振り返らなかった。





 翌朝キッチンへ行くと、母親はもう起きていた。


「おはよう」


「おはよ」


 いつもの声だった。


 昨日の少し強い言い方など、最初からなかったように。


 拓真は少しだけ安心した。


「今日仕事?」


「うん」


「日曜なのに大変だね」


「仕方ないわよ」


 母親が笑う。


「拓真は?」


「家いる」


「友達と出掛けないの?」


「別に予定ないし」


「そっか」


 パンを皿へ載せながら、母親がふと言った。


「最近、家にいること多いね」


「そう?」


「前はもっと出掛けてなかった?」


「三年だから」


「受験勉強?」


「……まあ」


「偉いじゃない」


「何その言い方」


「褒めてるのよ」


「ほんとかな」


 母親が笑う。


 拓真も笑った。


 本当は、それだけではない。


 受験勉強をしているから、遊びに行かないわけではない。


 母親のために家にいる、と言い切れるほど何かをしているわけでもない。


 自分でも理由が分からない。


 だから、説明しなかった。





 月曜日の昼休み。


「花火、来なかったね」


 黒川が近くへやって来た。


「うん」


「家の用事だった?」


「いや」


「じゃあ何で?」


「何となく」


「何となくかあ」


 黒川はそれだけ言った。


「何?」


「別に」


「その言い方気になるんだけど」


「如月君に言われたくない」


「俺そんな言う?」


「言う」


「即答」


 黒川が笑った。


 拓真も少し笑う。


 少し離れたところでは、花火へ行ったクラスメイトたちが屋台の話をしていた。


「焼きそば、ほんとひどかったよね」


「あれ六百円は高いって」


「でも全部食ってたじゃん」


「もったいないだろ」


 笑い声が上がる。


 黒川もそちらを見る。


「土曜の焼きそば、ほんと微妙だった」


「黒川も食べたの?」


「食べた。途中で後悔した」


「じゃあ行かなくて正解だったな」


「それは違うでしょ」


「何が」


「焼きそば食べに行ったわけじゃないし」


「確かに」


 黒川は少し笑った。


 それから、何気ない調子で続けた。


「最近さ、みんな如月君のこと、忙しいって思ってるみたい」


「俺が?」


「うん」


「なんで?」


「生徒会あるし、すぐ帰ること多いし」


「ああ」


「誘っても来ないこと多いから、『如月は無理かな』って最初から言ってる時あるよ」


 拓真は黙った。


 先週の昼休みのことを思い出す。


『来れそうなら連絡して』


 嫌われているわけじゃない。


 避けられているわけでもない。


 ただ、何度も断っているうちに、誘わなくてもいい人になり始めている。


「……そっか」


「別に悪く言われてるわけじゃないよ」


「分かってる」


「ならいいけど」


 黒川はそこで話を終えた。


「あ、そういえば」


「何?」


「土曜の花火、最後だけめちゃくちゃ綺麗だったよ」


「急に自慢?」


「動画見る?」


「見せたいだけだろ」


「ばれた?」


「分かりやすい」


 黒川がスマートフォンを取り出す。


「ほら」


「近い近い」


「ちゃんと見て」


「見てるって」


 画面の中で、大きな花火が夜空いっぱいに広がった。


 周りから歓声が上がっている。


 黒川の笑い声も入っていた。


 拓真は動画を最後まで見た。


「綺麗じゃん」


「でしょ?」


「行けばよかったかも」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 黒川が拓真を見る。


「じゃあ、次は行けば?」


「何それ」


「そのまま」


「適当だな」


「でも、行きたくなった時に行けばいいじゃん」


「……まあね」


 黒川は笑った。


 拓真も笑った。





 放課後。


 スマートフォンを確認する。


 大和から新しい連絡はなかった。


 拓真も何も送らなかった。


 教室の向こうでは、数人のクラスメイトが何か話して笑っている。


 黒川もその中にいた。


 呼ばれていないわけではない。


 近付いてはいけないわけでもない。


 自分から入っていけば、たぶん普通に迎えてくれる。


 拓真は鞄を肩に掛けた。


 教室を出る。


 家に帰れば、母親がいる。


 学校へ来れば、黒川がいる。


 友人だっている。


 大和とも、まだ連絡は取れる。


 誰もいなくなったわけじゃない。


 廊下を歩く。


 背後から、教室の笑い声が聞こえた。


 前なら、その中にいることを何とも思わなかった。


 今は、聞こえているだけだった。


 声は消えていない。


 ただ、前より少しだけ、遠く聞こえた。

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