二十三 いつから
六月になった。
ある日の夜、拓真はベッドに寝転がったまま、スマートフォンを眺めていた。
大和とのトーク画面を開く。
最後にやり取りをしたのは、五日前だった。
「……五日?」
小さく声が漏れた。
そんなに経っていたことに、今まで気付いていなかった。
大和がこの街を離れたばかりの頃は、ほとんど毎日のようにメッセージが来ていた。
新しい教室。
慣れない通学路。
担任の話。
購買のパンがまずいとか、体育の先生が怖いとか。
どうでもいいことばかりだった。
拓真も、その日にあったことを返していた。
生徒会で先生に捕まったとか。
黒川に甘そうな新作パンを勧められたとか。
クラスの誰かが授業中に寝て怒られたとか。
一日何も届かないだけで、少し珍しいと思っていた。
それが今では、五日空いていても気付かなかった。
拓真は画面を閉じた。
向こうには向こうの生活がある。
自分にも、こっちの生活がある。
ただ、それだけだ。
そう思った。
翌日の昼休み、スマートフォンが震えた。
大和からだった。
『昨日こいつらとカラオケ行ってきた』
写真が一枚添えられている。
大和と、見覚えのない男子生徒が三人。
全員で変なポーズをして笑っていた。
拓真は少しだけ写真を眺めた。
楽しそうだった。
知らない制服。
知らない教室。
知らない三人。
そこに大和だけが、いつもと同じ顔で写っている。
『楽しそうじゃん』
送る。
すぐには既読がつかなかった。
拓真はスマートフォンを机へ置いた。
「水嶋君?」
声を掛けられて顔を上げる。
黒川が近くに立っていた。
「うん」
「写真?」
「見る?」
「いいの?」
「別に」
スマートフォンを渡す。
黒川は写真を見て笑った。
「すごい馴染んでるね」
「早いよな」
「水嶋君だもん」
「どういう意味?」
「どこでも友達作りそう」
「それは分かる」
拓真も笑った。
黒川がスマートフォンを返す。
「夏休みとか、会いに行けばいいじゃん」
「急だな」
「だって連絡取ってるんでしょ?」
「取ってるけど」
「じゃあ予定合えば行けば?」
「まあね」
「水嶋君、喜びそう」
「どうだろ」
「喜ぶでしょ」
黒川は当然のように言って、自分の昼食を取りに戻っていった。
拓真はもう一度画面を見る。
まだ既読はついていない。
会いに行く。
言われてみれば、それだけのことだった。
電車に乗れば行ける。
連絡だって取れる。
それなのに、自分から予定を聞こうとはしていなかった。
午後の授業が始まる直前。
大和から返信が来た。
『こいつらうるさすぎる笑』
その下に、もう一件。
『今度拓真もこっち来いよ』
拓真は画面を見た。
行きたい。
一番最初に浮かんだのは、その言葉だった。
『暇だったら行く』
打つ。
少し迷って、そのまま送信した。
すぐに既読がつく。
『暇作れよ笑』
拓真は小さく笑った。
『考えとく』
『そこは行くって言えよ』
『うるさい』
『待ってるわ』
そこでチャイムが鳴った。
拓真はスマートフォンをしまう。
『待ってるわ』
最後の一文だけが、少し頭に残った。
放課後。
帰り支度をしていると、クラスメイトの一人に声を掛けられた。
「如月、今日カラオケ行かね?」
「今日?」
「うん。何人かで」
「俺も?」
「何その確認」
横から別の友人が入ってくる。
「最近来ないじゃん」
「そう?」
「そうだろ。今日、生徒会ないんだろ?」
「ないけど」
「じゃあ来いよ」
拓真は鞄へ教科書を入れながら考えた。
今日は、母親が早く帰ると言っていた。
一緒に夕食を食べる約束をしているわけではない。
何か頼まれているわけでもない。
家に帰らなければならない理由なんて、特になかった。
それでも、家へ帰った方がいいような気がした。
「……今日はやめとく」
「そっか」
友人はあっさり頷いた。
「じゃ、また今度な」
「うん」
「行こうぜ」
「おう」
引き止められなかったことに、少しほっとした。
以前なら、大和が勝手に人数へ入れていた。
『いいから来いって』
そう言って肩を掴まれ、そのまま連れていかれたこともある。
今は大和がいない。
それに、自分が断ったのだから、誰も悪くない。
教室を出ていく友人たちの背中を見る。
笑い声が廊下へ遠ざかっていった。
無理に誘われなくて助かった。
そう思う。
そのはずなのに、少しだけ取り残されたような気がした。
拓真は一人で鞄を持った。
家へ帰る。
「ただいま」
返事はなかった。
玄関を見ると母親の靴は無かった。
「……なんだ」
思わず声が漏れた。
今日は早く帰ると言っていたはずだった。
スマートフォンを確認する。
連絡は来ていない。
拓真はリビングへ入った。
誰もいない部屋は静かだった。
さっきのクラスメイトたちは、今頃カラオケに着いた頃だろうか。
行けばよかったかもしれない。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、今から連絡するのも何となく嫌だった。
冷蔵庫を開ける。
夕食の準備らしいものはなかった。
以前なら、母親が遅くなる日は何か用意されていることが多かった。
拓真は少しだけ冷蔵庫の中を見たまま立っていた。
たまには、そんな日もある。
そう思い直して、冷凍庫から適当なものを取り出した。
電子レンジの音だけが、リビングに響いた。
母親が帰ってきたのは、それから一時間ほど後だった。
「ただいま」
「おかえり」
拓真はリビングから顔を出した。
「遅かったね」
「うん。ちょっと仕事長引いちゃって」
「今日、早く帰れるって言ってなかった?」
「そうだったんだけどね」
母親は疲れたように笑った。
「ごめん。ご飯まだでしょ?」
「もう食べた」
「あ……そっか」
「冷凍のやつ」
「ごめんね」
「謝らなくていいって。仕事だったんでしょ?」
「うん」
母親が鞄を置いた。
そのまま冷蔵庫を開ける。
何か食べるものを探すのかと思った。
取り出したのは、酒の缶だった。
拓真の視線が、その手元で止まる。
ぷしゅ、と小さな音がした。
「ご飯食べないの?」
「あとで」
「そっか」
母親は椅子に腰を下ろし、一口飲んだ。
それから長く息を吐く。
「母さん」
「何?」
「今日、仕事大変だった?」
「まあね」
「何かあった?」
母親が拓真を見る。
少しだけ考えるように間が空いた。
けれど、すぐに笑った。
「何もないよ」
「……ほんと?」
「大丈夫」
また、その言葉だった。
拓真は母親を見る。
大丈夫。
本当に平気な時だけに使う言葉ではない。
それは、もう知っている。
だから、もう一度聞いても良いはずだ。
何があったの。
本当に大丈夫なの。
そう聞けばいい。
「……そっか」
結局、口から出たのはそれだけだった。
母親は缶を持ち上げた。
拓真も、それ以上は聞かなかった。
夜のうちに降り始めた雨は、翌朝になっても止んでいなかった。
拓真は自転車を家に置き、傘を差して学校へ向かった。
雨の日に歩くと、いつもの道が少し長く感じる。
傘を打つ雨粒。
濡れたアスファルトを走る車の音。
水たまりを避けながら歩いていると、橋が見えてきた。
拓真は足を緩めた。
この橋で、もう一人の自分を見た。
九月九日の朝。
あの頃。
学校には大和がいた。
家には父親がいた。
母親は毎日のように夕食を作っていた。
それを特別なことだなんて、考えたこともなかった。
夢の中の如月は、今の自分とは逆だった。
誰も寄せ付けなかった。
黒川にも。
クラスの連中にも。
母親にも。
話しかけられれば嫌そうな顔をして。
必要がなければ、自分から関わろうとはしなかった。
けれど最後に見た頃の如月は、少し違っていた。
『……ただいま』
母親に、そう返した。
夕食に呼ばれれば。
『……今行く』
そう答えるようになった。
ほんの少しずつ、誰かが自分に近付いてくることを、拒まなくなっていた。
夢の中の如月は、人に近付いていった。
自分はどうだ。
拓真は雨の向こうを見る。
大和は遠くへ行った。
父親は家を出た。
それは、自分が決めたことではない。
でも、大和に「会いに行く」と言わなかったのは、自分だった。
カラオケを断ったのも。
母親に「大丈夫」と言われて、その先を聞かなかったのも。
自分だった。
少し前までなら、誰かと一緒にいることが当たり前だった。
夢の中の如月は、人に近付いていった。
それなのに自分は、少しずつ、離れている。
「……いつからだよ」
小さく呟いた。
答える声はなかった。
もう一人の自分は、夢にも現れない。
雨の音だけが続いていた。
拓真は再び歩き出した。
橋を渡る。
その先には、同じ制服を着た生徒が何人か歩いていた。
傘を寄せ合うようにしながら、何か話して笑っている。
追いつこうと思えば、追いつける距離だった。
それでも拓真は、歩幅を変えなかった。




