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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十二 大丈夫

 五月も半ばに差しかかっていた。


 新しい学年にも、少しずつ慣れてきた。


 教室の席にも、授業の流れにも。


 大和がいない朝にも。


 最初の頃は、何かあるたびに無意識に隣を見ていた。


 笑い声が聞こえれば、大和かと思った。


 廊下で後ろから足音が近付けば、名前を呼ばれるような気がした。


 けれど最近は、それも減った。


 大和とは今でも連絡を取っている。


 毎日ではない。


 二、三日空くこともある。


 向こうの学校であったことを写真付きで送ってきたり、拓真が生徒会の愚痴を返したり。


 離れる前なら、その日のうちに話していたようなことを、今はスマートフォンの画面越しに知る。


 それでも、連絡は取れる。


 また会おうと思えば会える。


 大和がいなくなったわけではない。


 拓真は、そう思っていた。





 放課後。


 家へ帰ると、リビングからテレビの音が聞こえてきた。


「ただいま」


「おかえり」


 母親の声が返ってくる。


 鞄を置き、リビングを覗いた。


 母親はソファに座ってテレビを見ている。


 テーブルの上には、酒の缶が置かれていた。


「今日休みだったっけ?」


「ううん。仕事行ってたわよ」


「もう帰ってきたの?」


「今日は早く上がれたの」


「へえ」


 壁の時計を見る。


 まだ夕方だった。


 父親がいた頃、この時間に母親が酒を飲んでいるところを見た記憶はない。


「拓真、ご飯何がいい?」


「何でもいいよ」


「また何でも?」


「じゃあ……カレー」


 母親がこちらを見る。


「昨日もカレーだったでしょ」


「あ、そうだっけ」


「食べた本人が忘れないでよ」


「じゃあ何がある?」


「それを今から考えるの」


「俺に聞いた意味ないじゃん」


「参考にしようと思ったのよ」


「却下されたけど」


「二日連続は嫌でしょ?」


「俺は別に」


「私が嫌なの」


「じゃあ最初から聞くなよ」


 母親が笑う。


 拓真も笑った。


「冷蔵庫見て適当に作るね」


 母親が立ち上がる。


「手伝おうか?」


「いいわよ。疲れてるでしょ」


「母さんも仕事だったじゃん」


「私は大丈夫」


 母親はそう言って、キッチンへ向かった。


 拓真はその背中を見た。


 大丈夫。


 どこにでもある言葉だった。


 それなのに、今日は少しだけ耳に残った。





 夕食を食べながら、母親は学校のことを聞いてきた。


「三年生、どう?」


「別に。そんな変わんない」


「進路は?」


「先生がうるさい」


「大事なことだからでしょ」


「分かってるよ」


「大学は前に言ってたところ?」


「まだ分かんない」


「そっか」


 母親はそれ以上聞かなかった。


 拓真も食事を続ける。


 食卓の端には、さっき見た酒の缶が置かれていた。


 ふと目が向く。


「最近、前より飲むようになった?」


 母親が箸を止めた。


「そう?」


「なんか、見ること増えた気がする」


「そんなに飲んでないわよ」


「別に駄目って言ってるわけじゃないけど」


「分かってる」


 母親は笑った。


「拓真、真面目ね」


「どういう意味」


「心配してくれてるんでしょ?」


「……まあ」


 否定するのも変な気がして、そう答えた。


「ありがと」


 母親は少し嬉しそうに笑った。


 その顔を見ると、余計なことを言った気がした。


 けれど、少し迷ってから口を開く。


「飲みすぎない方がいいんじゃない?」


 母親は一瞬だけ拓真を見る。


 それから、いつもの調子で笑った。


「大丈夫よ」


「……」


「何?」


「いや」


 何でもない。


 そう言いかけて、やめた。


「その言葉」


「大丈夫?」


「うん」


「何か変?」


「……別に」


「変な子」


「母さんに言われたくない」


「何よ、それ」


 母親が笑う。


 拓真も少しだけ笑った。


 大丈夫。


 自分も何度も使ってきた。


 聞かれたくない時。


 心配されたくない時。


 そう言ってしまえば、たいていの話はそこで終わった。


 それだけは、よく知っていた。





 翌日の昼休み。


「如月君、今日放課後暇?」


 近くの席から黒川が声を掛けてきた。


「生徒会」


「また?」


「またって何だよ」


「最近ずっと残ってるじゃん」


「新年度だから仕事多いんだよ」


「会長って大変だね」


「黒川は?」


「駅前に新しいクレープ屋できたの知ってる?」


「知らない」


「今日、友達数人で行く」


「いいな」


「如月君も来る?」


「女子たちに混ざって男、俺一人?」


「うん」


「嫌だよ」


「即答」


「そこに普通に混ざれるほどメンタル強くない」


「如月君なら馴染めそうだけど」


「何を根拠に」


「何となく」


「一番信用できないやつ」


 黒川が笑う。


「じゃあ、生徒会終わってから来れば?」


「何時までいるつもりだよ」


「閉店まで」


「迷惑な客だな」


「ちゃんと買えばお客さんです」


「一個で何時間粘るんだよ」


「二個食べる」


「そこじゃないだろ」


 拓真が笑う。


「写真送ってあげる」


「いらない」


「すごく美味しそうなやつ」


「余計いらない」


「じゃあ送るね」


「話聞いてた?」


「聞いてたよ」


「なら送るなよ」


「大丈夫、大丈夫。見るだけなら太らないから」


「そういう問題じゃない」


 口にしてからふと、聞き慣れた声が頭に浮かんだ。


『その二回言うやつが信用ならねえんだよ』


 拓真は小さく笑った。


「何?」


 黒川が首を傾げる。


「いや、何でもない」


「一人で笑うの怖いよ」


「そこまで言う?」


「ちょっとだけ」


「ひど」


 黒川が笑う。


 大和がいたら、今の会話に何か言ってきただろう。


 そんなことを思った。


 けれど、以前のように隣を見ることはなかった。


 そこに大和がいないことを、もう知っていた。





 放課後。


 生徒会室を出た頃には、外が少し暗くなり始めていた。


 スマートフォンを見る。


 黒川から写真が届いている。


 クリームと苺が山ほど乗ったクレープだった。


『でか』


 送る。


 すぐに既読がついた。


『美味しかった』


『二個食べた?』


『無理だった』


『弱』


『一個で十分です』


 拓真は笑って画面を閉じようとした。


 その時、別の通知が入った。


 父親だった。


『学校はどうだ?』


 短い文章だった。


 拓真はしばらく画面を見る。


 返信欄を開いた。


『普通』


 いつもの二文字を打つ。


 そこで指が止まった。


 昼間の黒川の顔が浮かんだわけではない。


 誰かに何か言われたからでもなかった。


 ただ、この二文字だけで終わらせるのは、何となく違う気がした。


 拓真は「普通」を消した。


『三年だから進路の話増えた。生徒会も今ちょっと忙しい』


 送信する。


 しばらくして返事が来た。


『そうか。無理するなよ』


 続けて、もう一件。


『また時間ある時に進路の話もしよう』


『うん』


 それだけ返した。


 スマートフォンをポケットへしまう。


 何でも話せるようになったわけではない。


 離婚のことだって。


 父親が家を出た日のことだって。


 聞きたいことは、まだたくさん残っている。


 それでも今日は、「普通」の二文字で終わらせなかった。


 ほんの少しだけ。


 それでいいような気がした。





 その夜。


 部屋で勉強しているうちに喉が渇き、拓真は一階へ下りた。


 リビングの明かりがついている。


「母さん?」


 中を覗く。


 母親はソファにもたれ、目を閉じていた。


 テレビはついたままだった。


 テーブルには、夕食の食器が残っている。


 その脇に酒の缶が置かれていた。


「母さん」


「……ん?」


 母親がゆっくり目を開ける。


「寝てた?」


「あれ……寝ちゃってた?」


「みたい」


 母親は目元を擦った。


「疲れてるじゃん」


「ちょっとね」


「ベッドで寝た方がいいよ」


「そうする」


 小さく欠伸をしながら立ち上がる。


「食器、明日でいいかな」


「俺やっとくよ」


「いいの?」


「これくらい」


「ありがとう」


「うん」


 母親がリビングを出ていく。


「おやすみ」


「おやすみ」


 階段を上がっていく足音が聞こえなくなってから、拓真はテーブルへ戻った。


 食器を重ねて、キッチンへ運ぶ。


 最後に残った缶へ手を伸ばした。


『大丈夫よ』


 夕食の時の母親の声が浮かぶ。


 少しだけ気にはなった。


 けれど。


 今日は仕事にも行った。


 夕食も作った。


 さっきだって、呼べばすぐに起きた。


 ただ疲れて、うたた寝した。


 それだけに見えた。


 拓真は缶を片付けた。





 二階へ戻る。


 部屋へ入る前に、一度だけ階下を振り返った。


 明かりを消したリビングは暗い。


 何の音もしなかった。


 少し前までなら、その静けさが気になった。


 今はもう、それにも慣れ始めている。


 部屋に戻り、ベッドへ横になる。


 スマートフォンの画面を開く。


 父親との短いやり取りが残っていた。


『三年だから進路の話増えた。生徒会も今ちょっと忙しい』


 自分が送った文章を、もう一度読む。


 ちゃんと自分が思うことを伝えられた。


 それだけは、少し変わった。


 画面を消す。


 目を閉じる。


『大丈夫よ』


 母親の声が、また浮かんだ。


 大丈夫。


 自分だって、何度も使ってきた言葉だった。


 本当に平気な時もあった。


 平気ではないのに言った時もあった。


 その違いを、誰かが見ただけで分かるものなのだろうか。


 拓真には分からなかった。


 母親がどちらなのかも、分からなかった。


 ただ、大丈夫だと言った母親を、信じる方が楽だった。


 だから、その夜も何も言わなかった。

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