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白い世界で君は笑った  作者: pino


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二十一 静かな家

 父親が家を出たのは、離婚の話を聞いてから二週間ほど後だった。


 拓真は母親とこの家に残り、父親は別の場所で暮らす。


 そう決まった。




 日曜日の朝。


 玄関の近くには、いくつかの段ボール箱が積まれていた。


 服や仕事で使うもの。


 本。


 細かい荷物。


 昨日まで棚やクローゼットにあったものが、箱の中へ収まっている。


 毎日そこにあったものが一つずつ消えていくたび、本当に父親がいなくなるのだと分かっていった。


 拓真は階段の途中から、その様子を眺めていた。


「それで最後?」


 母親が聞く。


「ああ。たぶん」


「忘れ物があったら連絡して」


「分かった」


 必要なことだけを話している。


 喧嘩をしているわけではなく、怒鳴り合ってもいない。


 それなのに、以前の二人とはまるで違って見えた。


 父親が顔を上げる。


「拓真」


「……何?」


「ちょっと来い」


 拓真は階段を下り、父親の前に立つ。


「向こうに着いたら連絡する」


「うん」


「何かあったら、お前からも連絡しろよ」


「分かってる」


「学校のこととか、進路のこともな」


「うん」


 返事ばかりだった。


 本当は、もっと何か言うべきなのかもしれない。


 けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


「父さん」


「ん?」


 呼び止めたものの、言葉が続かなかった。


 また日曜、会える?


 聞きたかったのは、それだった。


 去年の秋。


 父親の仕事で、三人で出かけるはずだった日曜日がなくなった時、自分は「仕方ないよ」と笑った。


 あの時は、次の日曜があると思っていた。


 今は、それすら分からない。


「……仕事、頑張って」


 父親が一瞬だけ黙った。


「ああ」


 少し笑う。


「拓真もな」


「うん」


 結局、それだけだった。


 父親は最後の箱を持ち上げ、玄関の外へ運んでいった。


 何度か家と車を往復する。


 最後に戻ってきた時には、もう手に何も持っていなかった。


「じゃあな」


「……うん」


 母親は何も言わなかった。


 父親が一度だけ二人を見る。


 何か言いかけたように見えた。


 けれど、そのまま靴を履いた。


 玄関の扉が閉まる。


 しばらくして、車のエンジン音がした。


 その音も、少しずつ遠ざかっていった。





 静かだった。


 拓真は玄関に立ったまま、閉じた扉を見つめていた。


 たった一人いなくなっただけなのに、家の中が少し広くなったように感じた。


「拓真」


 母親に呼ばれる。


「何?」


「朝ご飯、まだでしょ?」


「……うん」


「食べよ」


 母親はいつもと変わらない声で言った。


「分かった」


 二人でリビングへ戻る。


 テーブルには、パンとサラダと目玉焼きが置いてあった。


 いつもの朝食だった。


 父親が座っていた椅子だけが、空いている。


 母親は何も言わず、自分の席に座った。


 拓真も向かいに座る。


「いただきます」


「いただきます」


 パンを一口かじる。


 味は、いつもと同じだった。


 テレビをつければ、休日の朝らしい明るい声が流れ始める。


 それでも、三人だった時よりテレビの音が大きく聞こえた。





 それから、二人だけの生活が始まった。


 最初のうちは、それほど大きく変わったようには思えなかった。


「今日遅くなる?」


「生徒会あるから、ちょっと」


「分かった。先に食べてるね」


「うん」


 朝になれば母親が朝食を作る。


 拓真は学校へ行く。


 帰れば夕食がある。


 二人でテレビを見ることもあった。


 父親がいないこと以外は、それまでと同じ生活だった。


 少なくとも、そう見えた。


 けれど、小さな違いは、思っていたよりいろいろなところに残っていた。





 ある日の夕食。


 拓真がテーブルにつこうとして、手を止めた。


「母さん、それ」


「え?」


 母親が顔を上げる。


 テーブルには、三人分の箸が並んでいた。


 一膳。


 二膳。


 そして、父親が使っていた場所にも一膳。


「あ……」


 母親の視線が、三膳目に落ちる。


「間違えちゃった」


 笑いながら、その箸に手を伸ばした。


「癖って怖いね」


「……うん」


 拓真も笑った。


 母親は三膳目を揃えた。


 けれど、すぐには持ち上げなかった。


 ほんの少しだけ、そのまま指先を置いていた。


 やがて箸を持ち上げ、引き出しへ戻す。


 ぱたん、と引き出しが閉まった。


「食べよっか」


「うん」


 それだけだった。


 拓真も、それ以上何も言わなかった。





 別の日。


 リビングで母親が洗濯物を畳んでいた。


 拓真が冷蔵庫から飲み物を取り出していると、母親の手が止まった。


「どうしたの?」


「ん?」


 母親が持っているものを見る。


 見覚えのあるシャツだった。


「それ、父さんのじゃない?」


「そうみたい」


「置いてったんだ」


「ね」


 母親はシャツを広げた。


 しわを伸ばすように、手のひらで布を撫でる。


「連絡しとく?」


「……今度でいいわ」


「そっか」


「急ぐものでもないし」


 母親はいつもと同じようにシャツを畳んだ。


 袖を内側へ折って。


 形を整えて。


 最後にもう一度、手のひらで押さえる。


 それから、他の洗濯物とは別の場所へ置いた。


 拓真は何も言わなかった。





 連休明けの昼休み。


「聞いてよ、如月君」


 黒川が前の席の椅子を引き、こちらを向いて座った。


「何?」


「この前の連休に、家族でキャンプ行ったんだけど」


「へえ」


「うちのお父さん、火起こすの得意だってずっと言ってたの」


「うん」


「全然つかなかった」


「駄目じゃん」


「でしょ?」


 黒川が笑う。


「しかも三十分くらい粘ったあと、お母さんがやったらすぐついた」


「最初から母親に任せればよかったじゃん」


「それ言ったら、お父さんめちゃくちゃ不機嫌になった」


「面倒くさいな」


「ほんとにね」


 拓真も笑った。


「でも、久しぶりだったな」


「何が?」


「家族で出かけるの。小さい頃は結構行ってたんだけど」


「へえ」


「テント張るのも久しぶりすぎて、お父さんとお母さん説明書見ながら喧嘩してた」


「楽しそうじゃん」


「喧嘩してるのに?」


「それ込みで」


「他人事だと思って」


 黒川がストローを咥える。


 それから、何気ない調子で聞いた。


「如月君の家って、家族でどっか行ったりする?」


「俺んち?」


「うん」


 拓真はすぐには答えられなかった。


 家族で出かけた記憶ならある。


 三人で過ごした休日も。


 父親の仕事が入って、母親と二人になった日も。


 何でもない話をしながら食事をした日も。


 思い出そうとすれば、いくつも浮かぶ。


 ただ、それを今の話としてどう答えればいいのか分からなかった。


「……最近は、あんまり」


「そっか」


 黒川はそれだけ言った。


「三年だと忙しいもんね。生徒会もあるし」


「まあ」


 事情を話すこともできた。


 父親はもう家にいない、と。


 母親と二人で暮らしている、と。


 けれど、拓真は何も言わなかった。


「あ、そうだ」


 黒川が机の上のパンを持ち上げた。


「これ、新作なんだって」


「急に話変わったな」


「一口いる?」


「いらない」


「即答?」


「甘そう」


「甘いよ」


「じゃあいらない」


「美味しいのに」


「なら全部食べればいいだろ」


「そうする」


 黒川が袋を開ける。


「……ほんとにいらない?」


「いらないって」


「後悔してもあげないからね」


「しないよ」


 黒川が笑う。


 拓真も笑った。


 会話は、それで終わった。


 けれど、授業が始まってからも一度だけ思い出した。


『如月君の家って、家族でどっか行ったりする?』


 家族。


 父親は家を出た。


 けれど、父親ではなくなったわけではない。


 母親とは今も同じ家で暮らしている。


 それなのに、さっきの質問にどう答えるのが正しかったのか、拓真にはよく分からなかった。





 その日の夜。


 夕食を終え、部屋へ戻ろうとした時だった。


 テーブルの上に、見慣れない缶が置いてあることに気付いた。


「母さん、お酒飲むんだ」


「たまにはね」


 母親が笑う。


「前から飲んでたっけ?」


「飲むわよ、それくらい」


「そうだっけ」


「拓真が気付いてなかっただけじゃない?」


「そうかも」


 母親は缶を持ち上げ、一口飲んだ。


「美味しい?」


「んー……まあまあ」


「じゃあなんで飲んでんの」


「大人には色々あるの」


「何それ」


「拓真も大人になったら分かるわよ」


「分かりたくないな」


「そのうち勝手に分かるの」


「嫌だな、それ」


 二人で笑った。


 母親はいつも通り笑っていた。


 顔色が悪いわけでもない。


 酔っているようにも見えなかった。


 だから、その時は気に留めなかった。


「じゃあ、俺部屋行く」


「うん。おやすみ」


「まだ寝ないけど」


「じゃあ、また後で」


「何それ」


 拓真は笑いながらリビングを出た。





 部屋へ戻る。


 机の上に鞄を置き、ベッドに横になった。


 家の中の音が、以前より少ないことに気付く。


 父親が帰ってくる音は、もうしない。


 玄関が開いて。


 母親が「おかえり」と言って。


 父親が何か返す。


 そんな声も聞こえない。


 テレビの音がする。


 母親が一人でキッチンを動く気配がする。


 それだけだった。


 拓真は目を閉じた。





 しばらくして、階下から小さな音がした。


 乾いた音。


 缶がテーブルに触れたような音だった。


 拓真は一度だけ目を開けた。


 暗い天井を見る。


 耳を澄ませる。


 それ以上は、何も聞こえなかった。


 少し待ってから、拓真はまた目を閉じた。


 その夜も、如月は夢に現れなかった。


 家は、静かだった。

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