一 優等生
如月拓真は、誰からも好かれる人間だった。
少なくとも、周囲からはそう見えているらしい。
「拓真ー! おはよう!」
校門へ向かって自転車を押していると、後ろから女子生徒に声を掛けられた。
「おはよ」
軽く手を上げて返す。
「おはよう、拓真君」
今度は別のクラスの生徒だった。
「おはよう」
校門をくぐるまでの短い間にも、何人かから声を掛けられる。そのたびに挨拶を返していると、横から伸びてきた腕が肩に回った。
「お前ってほんと人気者だよな」
「そうか?」
「まじか。自覚ねぇのかよ」
拓真は苦笑した。
自分がそんなに好かれるような人間だとは、一ミリも思っていない。
話しかけられれば話す。困っている人がいれば手伝う。頼まれたことが、自分にできそうなら引き受ける。
ただそれだけだ。
教室へ入れば友人が集まってくる。先生に呼び止められれば、プリントを運んだり、ちょっとした雑用を頼まれたりする。後輩から相談されれば話くらいは聞く。
誰かの役に立てるのは、嫌いじゃなかった。
むしろ、嬉しかった。
昼休みも終わりに近づいた頃。
学級委員の黒川結衣が、次の授業で使うプリントを配っていた。
拓真が友人と話していると、教室の入り口から聞き慣れた声が飛んできた。
「おー、黒川ー。拓真いる?」
生徒会長だった。
黒川が教室の奥を指差す。
「あそこにいますよ」
「あ、ほんとだ。ありがとう」
そのまま、満面の笑みでこちらへ歩いてくる。
嫌な予感がした。
こういう顔をしているときの生徒会長は、だいたい何か頼みごとがある。
「おーい拓真! 頼みがあるんだけど」
やっぱり。
「なんですか?」
「文化祭実行委員が一人足りないんだ」
「……もしかして」
「やってくれない?」
拓真は思わず苦笑した。
文化祭まで、そう時間はない。今でも生徒会の仕事を抱えている。クラスの準備だってこれから本格的に始まる。
ここで引き受けたら、自分が忙しくなるのは分かっていた。
断った方がいい。
たぶん、その方がいい。
「まあ……俺で良ければいいですよ」
気付けば、口はそう答えていた。
「本当!? 助かる! ありがとう!」
会長の顔が一気に明るくなる。
「さすが拓真!」
「頼りになるー」
近くにいたクラスメイトまで好き勝手なことを言う。
「はいはい」
拓真は笑いながら手を振った。
引き受けてしまったものは仕方ない。どうにかなるだろう。
――たぶん。
放課後。
校舎を出たところで、後ろから声を掛けられた。
「拓真」
振り返ると水嶋大和だった。
中学からの付き合いで、拓真がほとんど遠慮をしなくていい数少ない相手だ。
「お前、また生徒会長の頼み引き受けたのか」
「まあな」
「文化祭実行委員?」
「そう」
大和は盛大にため息をついた。
「お前、今でもいろいろ忙しいだろ」
「んー、まあ……たぶんなんとかなるって」
「なんとかならなくても、お前ってそう言うよな」
「何だよそれ」
拓真は笑った。
「心配性だな」
「違う。お前がお人好しなんだって」
「別に嫌じゃないし」
「本当に?」
あまりに真っ直ぐ聞かれて、言葉が一瞬止まった。
文化祭実行委員をやりたかったのか、と聞かれれば、別にやりたかったわけではない。
でも、困っていた。自分が引き受ければ生徒会長は助かる。
それなら、それでいい。
「……本当だって」
いつものように笑う。
大和はしばらく拓真の顔を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
「まあ、倒れるんじゃねーぞ」
「ああ。大丈夫、大丈夫」
「その二回言うやつが信用ならねえんだよ」
「うるさいな」
二人で笑った。
校門の前で大和と別れ、拓真は自転車に跨がった。
家に着く頃には、空が薄い茜色に染まっていた。
「ただいま」
玄関を開ける。
「おかえりなさい」
キッチンから母親の声が返ってきた。
朝と同じような、聞き慣れた声。リビングでは父親がテレビを見ている。キッチンからは夕食の匂いが漂っていた。
「今日、遅かったのね」
「生徒会」
鞄を置きながら答える。
「そっか。大変ねえ」
母親は料理の手を止めずに言った。
「あなた、何でも頑張っちゃうでしょ。無理しないのよ?」
「平気、平気」
朝、大和にも似たようなことを言われた気がする。
拓真は笑ってリビングへ向かった。
夕食は三人で食卓を囲んだ。
学校であったこと。テレビで流れていたニュース。父親の会社の話。
特別なことなんて何もない。
くだらない話で笑って、母親に「食べながら笑わないの」と注意される。
拓真は、こういう時間が好きだった。
「そうだ」
食事の途中、父親が箸を置いた。
「今度の日曜なんだけどな」
「うん?」
父親が申し訳なさそうに手を合わせる。
「仕事、入っちゃった」
「ああ……」
今度の日曜は、家族で出掛ける予定だった。前から少し楽しみにしていた。
「悪いな」
父親の顔を見る。
残念じゃないと言えば、嘘になる。
でも仕事なら仕方がない。父親だって、好きで予定を潰したわけではない。
「そっか。まあ、仕事なら仕方ないよ」
拓真は笑った。
父親の表情がふっと緩む。
「今度、埋め合わせするから」
「いいって。別に」
母親も安心したように笑っていた。
それを見て、拓真は箸を動かす。
これでいい。
父親が申し訳なく思わなくて済む。母親だって変に気を遣わない。
誰も嫌な気持ちにならない。
その方がずっといい。
さっきまで楽しみにしていた日曜のことは、考えないことにした。
夕食を終え、自分の部屋へ戻る。
鞄を床に置いた途端、拓真はベッドへ倒れ込んだ。
「疲れた……」
天井を見上げる。
生徒会にクラスの文化祭準備。今日から文化祭実行委員まで増えた。
やることはいくらでもある。
確かに忙しい。
でも、嫌ではない。
人に頼られることは嬉しい。誰かが喜んでくれるなら、それでいい。
――たぶん。
枕元のスマートフォンが光った。
手を伸ばして画面を見ると、大和からだった。
『無理すんなよ』
それだけ。
拓真は小さく笑った。
『了解』
短く返して、スマートフォンを伏せる。
時計を見ると、二十二時を回っていた。
「もうこんな時間か」
明日も学校だ。
電気を消して布団へ潜り込み、そして目を閉じる。
すると、朝の光景が不意に蘇った。
橋の上に立っていた、もう一人の自分。
拓真は目を開けた。
暗い天井が見える。
昼間は忙しくて、ほとんど忘れていたのに。静かになると、やけにはっきり思い出せた。
遠くて顔すらよく見えなかった。それなのになぜ自分は、あれを「俺だ」と思ったのだろう。
「……考えすぎか」
小さく呟いた。
もちろん、返事なんてない。
しばらくすると眠気が戻ってくる。
拓真はもう一度目を閉じた。
やがて意識は、ゆっくりと沈んでいった。
そしてその夜、拓真は初めてあの世界の夢を見る。




