プロローグ
九月九日。
いつもと何も変わらない朝。
午前六時三十分。
枕元のスマートフォンがけたたましく鳴り、如月拓真は布団の中から手だけを伸ばした。指先でどうにかアラームを止める。
急に静かになった部屋で、拓真はしばらく目を閉じたまま動かなかった。
「……ねむ」
もう一度寝てしまいたい。けれど二度寝すれば、たぶん遅刻する。
諦めて身体を起こすと、カーテンの隙間から差し込んだ朝日が目に刺さった。
高校二年生の二学期が始まって、一週間と少し。テストや何か特別な行事があるわけでもないごく普通の水曜日だった。
制服に着替え、一階へ下りる。いつもの朝食を食べ、いつものように支度を済ませる。
玄関で靴を履きながら、拓真はリビングへ向かって声を投げた。
「いってきます」
「気をつけて行くのよ」
キッチンから母親の声が返ってくる。
「はーい」
毎朝繰り返している、何でもない会話。
拓真は自転車を引いて外へ出た。まだ夏の名残を引きずった空気が肌にまとわりつく。
自転車に跨がり、ペダルを踏む。住宅街を抜け、川沿いのサイクリングロードへ。
何百回と通った道だった。
川面に朝日が反射している。犬を散歩させる老人とすれ違い、ジョギング中の男性を追い越す。
今日も学校へ行く。授業を受けて、友達と話して、生徒会の仕事でもする。そして夕方になれば、またこの道を通って帰ってくる。
そういう一日になるはずだった。
しばらく走ると、遠くに大きな橋が見えてきた。交通量の多い幹線道路を支える橋だ。
拓真の通学路からは少し外れている。普段なら、わざわざ見ることもない。
近くの交差点で信号が赤になった。拓真はブレーキを握って止まり、何となく顔を上げた。
そして、橋の方を見る。
「……ん?」
欄干のそばに、誰かいる。
男子高校生だった。制服姿で、橋の中央あたりに立っている。
妙な立ち方だった。
スマートフォンを見ているわけでもない。誰かを待っているようにも見えない。
ただ欄干のそばに立ち、じっと遠くを見ていた。
風に髪が揺れている。
拓真は眉を寄せた。
「あれ……」
同じ学校の制服だ。
そう思った次の瞬間だった。
身体の奥を、冷たいものが走った。
あの後ろ姿を……知っている。
肩の高さも、髪型も、少しだけ猫背になる立ち方も。
毎朝、鏡の中で見ている。
「……俺?」
口から勝手に声が漏れた。
そんなはずはない。ここに自分がいる。自転車に乗って、信号待ちをしている。
だったら橋にいるあれは、誰だ。
拓真は目を細めた。
距離があって顔までは見えない。
それなのに――なぜか、間違いないと思った。
あれは自分だ。
橋の上の男子生徒が、ゆっくりと顔を動かした。
こちらを見た。
――ような気がした。
「……っ」
拓真は反射的に瞬きをした。
そして、もう一度見る。
誰もいなかった。
「え?」
橋の中央。さっきまで人が立っていた場所には、朝の光だけが落ちている。
左右へ視線を走らせても、人影は見つからない。走って立ち去れるような距離ではなかった。
「なんだよ……」
寝ぼけていたのか。見間違いだったのか。それとも、似た誰かを勝手に自分だと思い込んだだけなのか。
どれもしっくりこなかった。
心臓だけが、やけに速い。
突然、後ろから自転車のベルが鳴った。
「うわっ」
振り返る。
信号はもう青になっていた。
「あ、すみません」
慌ててペダルを踏み込む。
自転車はいつもの通学路を走り始めた。
学校へ向かう生徒が増えていく。車が走り、信号が変わり、朝の街が動き出していく。
何もおかしいことなど無い、いつもの朝だった。
「……気のせいだよな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
返事はもちろん無い。
拓真はもう一度だけ橋を振り返った。
そこにはやはり、誰もいなかった。
それでも、橋の上に立っていた少年の横顔だけが頭に焼きついていた。
笑うことも怒ることもせず、ただ、何もかもを諦めてしまったような顔をしていた。
――自分は、あんな顔をしたことがあっただろうか。
拓真は答えを見つけられないまま、学校へ向かってペダルを踏んだ。
背後で、橋が少しずつ遠ざかっていった。




