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白い世界で君は笑った  作者: pino


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十七 間に合わなかったもの

 二月も半ばを過ぎた。


 大和がこの街を離れるまで、あと一か月ほど。


 そう考えるようになってから、拓真は一日が終わるのを妙に早く感じるようになった。


 昨日まで二か月あったはずなのに、気付けばもう一か月しかない。




「今日さ」


 放課後、帰り支度をしている大和に、拓真は声を掛けた。


「何?」


「ちょっと寄り道して帰らない?」


 大和の手が止まる。


「……おぉ、お前から?」


「何その顔」


「珍しいなって」


「失礼だな」


「だってお前、基本『どっちでもいい』じゃん」


「今日は俺から言っただろ」


「成長したなあ」


「うるさい」


 大和が笑う。


「で、どこ行く?」


「別に――」


「それ禁止」


「まだ何も言ってないだろ」


「絶対『別にどこでも』って言おうとした」


「……」


「ほら」


 図星だった。


 拓真は少し考える。


「じゃあ、川の方」


「了解」


「素直だな」


「生徒会長拓真君が自分で決めた記念日だから」


「大げさなんだよ」


 二人で笑いながら、昇降口を出た。




 校門を出てから、それぞれ自転車に乗った。


 拓真が先を走り、大和が少し後ろをついてくる。


 いつもの帰り道を途中で外れ、河川敷近くの広場で自転車を止めた。


「寒っ」


 大和が両手をポケットへ突っ込む。


「二月だからな」


「帰ろうぜ」


「早いな」


「お前がこんな寒いとこ選ぶからだろ」


「来るって言ったじゃん」


「こんな寒いと思わなかった」


「知らないよ」


 二人で堤防沿いを歩く。


 空は薄い灰色だった。


 川面を冷たい風が渡っていく。


「向こうの学校って、もう決まってるんだよな」


 拓真が聞いた。


「うん」


「どんなとこ?」


「普通」


「雑」


「まだ行ってないし」


「制服ダサいって言ってなかった?」


「ダサい」


「そこだけは分かるんだ」


「写真見たからな」


 大和が笑う。


「まあ、友達できるかはちょっと不安だけど」


「大和なら大丈夫だろ」


「何その謎の信頼」


「誰にでも話しかけるし」


「褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「うるさい」


「悪口じゃねえか」


 また笑う。


 こんな会話を、あと何回できるのだろう。


 そう考えた瞬間、笑い声が少し遠くなった。


「拓真?」


「ん?」


 大和が拓真の顔を覗き込む。


「どうした?」


「いや、別に」


「最近それ多くね?」


「気のせい」


「それも多い」


「細かいな」


 拓真は前を向いた。


 今なら、前よりは言える気がした。


 大和とこうして過ごせなくなるのが嫌だ。


 寂しい。


 本当は、行ってほしくない。


「大和」


「ん?」


「……向こう行ってもさ」


「うん」


 言葉が止まる。


 大和がこちらを見る。


「頑張れよ」


 一瞬、沈黙した。


「何だよ急に」


 大和が笑った。


「卒業するみたいじゃん」


「しないけど」


「お前もあと一年頑張れよ」


「何を?」


「勉強とか、生徒会とか」


「適当だな」


「あと俺がいなくても泣くなよ」


「泣かないって」


「ほんとに?」


「しつこい」


 二人で笑った。


 拓真も笑っていた。


 けれど、自分が言った言葉だけが引っかかっていた。


 頑張れよとか、連絡しろよとか、そんな言葉しか出てこない。


 言いたかったのは、そんなことじゃない。


 でも、一度口にした言葉を取り消してまで、本当の気持ちを言うことはできなかった。




 その夜、夕暮れの校舎にいた。


 廊下の窓から差し込む光は弱く、校舎の中はもう薄暗い。


 階段を下りたところで、如月と鉢合わせた。


「言った?」


 いきなり聞かれた。


「……何を?」


「大和に」


 拓真は一瞬黙った。


「言ってない」


「なんで」


 やっぱり、そう聞く。


「なんでって……」


「言うんじゃなかったのか」


「言うなんて言ってないだろ」


「言いたいんだろ」


「……まあ」


「じゃあ言えばいい」


「またそれ?」


 拓真は思わずため息をついた。


 如月が眉を寄せる。


「何」


「お前、それしか言わないよな」


「他に何があるんだよ」


「だから、それができないんだって」


「なんで?」


 本当に分からないらしい。


 拓真は少し苛立った。


「言ったら、大和がどう思うかとか考えるだろ」


「またそれか」


「またって」


「この前も同じこと言ってた」


「だってそうじゃん」


「だから、大和がどう思うかは大和が決めるだろ」


 如月は当たり前のことのように言う。


「寂しいなら寂しい。行ってほしくないなら行ってほしくない。それだけだろ」


「それだけじゃないんだよ」


「何が増えるんだよ」


「……そういうところだよ」


「意味分からない」


「分かってる」


 拓真は苦笑した。


 如月は明らかに納得していない顔をしている。


「で、何て言ったんだよ」


「向こうでも頑張れって」


「……なんで?」


「その顔やめろ」


「全然違うだろ」


「分かってるって」


「じゃあなんで言った」


「出てきたんだから仕方ないだろ」


「意味分からない」


「俺だって分かんないよ」


 如月はしばらく拓真を見ていた。


「お前さ」


「何」


「いつ言うつもり?」


 拓真は答えられなかった。


「まだ一か月あるし」


「一か月あるから何」


「まだ時間あるってこと」


「じゃあ一週間になったら言うの?」


「……」


「前日になったら?」


「うるさいな」


「お前が言わないからだろ」


 腹が立つ。


 けれど、言い返せなかった。


 まだ一か月ある。


 それは本当だ。


 でも、一か月後の自分なら言えるという保証なんてどこにもない。


「言える時に言えばいいだろ」


 如月が言った。


「いつまで言えるかなんて分かんないんだから」


 拓真は顔を上げた。


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


「……何それ」


「何が」


「また何か知ってる?」


 如月は黙る。


「お前、大和のことも知ってたし」


「……」


「父さんと母さんのことも」


 問い詰めようとした時、如月が視線を逸らした。


「今は関係ない」


「あるだろ」


「ない」


「じゃあ何で――」


「帰る」


 一方的に会話を切られた。


「おい」


 如月はそのまま歩き出す。


 拓真も後を追った。


 いつの間にか景色は住宅街へ変わっていた。


 少し先に、あの家がある。


 玄関の灯りがついていた。


「拓真」


 扉が開き、母親が顔を出す。


 拓真はすかさず物陰に隠れる。


「おかえり」


 如月が足を止めた。


「……ただいま」


「ご飯できてるよ」


「うん」


「今日ハンバーグ」


 如月が母親を見る。


「好きでしょ?」


 一瞬だけ黙る。


「……うん」


 母親が笑った。


「じゃあ冷めないうちに食べて」


「今行く」


 如月は靴を脱ぎ、家の中へ入っていった。


 拓真は少し離れたところから、その様子を見ていた。


 最初にこの家へ来た時、母親は言った。


『好きだったでしょ?』


 今は。


『好きでしょ?』


 それだけの違いだったが、拓真には何となく分かった。


 如月も、少しずつ変わっている。


 表し方は自分とはまるで違う。


 それでも、以前なら「後で」と言っていた相手が、今は「今行く」と答えている。


 如月自身が、その変化に気付いているのかは分からなかった。




 目が覚めた。


 部屋は真っ暗だった。


 枕元の時計を見ると、午前二時を少し回っている。


「……喉渇いた」


 拓真は身体を起こした。


 廊下へ出ると家の中は静かだった。


 階段を下りようとしたところで、リビングに明かりがついていることに気付く。


 誰だろう。


 一段ずつ下りる。


 途中で、小さな音が聞こえた。


 拓真は足を止めた。


 母親だった。


 泣いている。


 声を押し殺すような、微かな泣き声だった。


 拓真は階段の途中に立ったまま動けなくなった。


 父親の声は聞こえない。


 まだ帰っていないのかもしれない。


 リビングの扉までは、あと少しだった。


 行けばいい。


 開ければいい。


 どうしたの、と聞けばいい。


 そのくらいならできるはずだ。


 拓真は一段下りた。


 また一段。


 リビングの前まで行く。


 扉へ手を伸ばした。


 その向こうから、母親が鼻をすする音が聞こえた。


 指先が止まる。


 泣いているところなんて、見られたくないかもしれない。


 何も知らないふりをした方が、母親は楽かもしれない。


 また相手がどう思うかを、自分で決めている。


 分かっていた。


 それでも、扉を開けることはできなかった。


 拓真は手を下ろした。


 足音を立てないように階段を上がる。


 結局、水も飲まずに自分の部屋へ戻った。




 翌朝、母親はいつも通りキッチンに立っていた。


「おはよう」


「……おはよう」


「眠そうね」


「ちょっと」


「夜更かし?」


「まあ」


「ほどほどにしなさいよ」


 母親が笑う。


 昨夜泣いていた人と同じ人には見えなかった。


 拓真は椅子に座る。


 聞こうと思った。


 昨日、泣いてた?


 何かあった?


 父さんと何かあったの?


「拓真?」


「え?」


「パン焦げるよ」


「あ」


 トースターからパンを取り出す。


「ぼーっとしてるわね」


「寝不足だから」


「早く寝なさい」


「分かってる」


 結局、聞けなかった。




 家を出る。


 自転車を押して住宅街を抜けたところで、遠くに橋が見えた。


 九月九日の朝。


 あそこに、もう一人の自分を見た。


 あれから五か月以上が経っている。


『ちゃんと見とけ』


 如月の声が蘇る。


 拓真は橋を見た。


「……見てるよ」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 大和がもうすぐいなくなることも。


 父親と母親の空気がおかしいことも。


 母親が一人で泣いていたことも。


 全部、見えている。


 気付いている。


 それなのに……。


 拓真は自転車のハンドルを握り直した。


 もしかすると、自分は何も見えていなかったわけじゃない。


 見えているものを、見なかったことにしていただけなのかもしれない。


 拓真は橋から目を逸らし、学校へ向かった。

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