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白い世界で君は笑った  作者: pino


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十六 行かないでくれ

 三学期が始まった。


 冬休み明けの教室は、朝からいつも以上に騒がしかった。


 久しぶりに会った友人同士で話したり、土産を配ったり、休み中の出来事を報告し合ったりしている。


 拓真も自分の席で友人の話を聞いていた。


「拓真」


 聞き慣れた声に振り返る。


 大和が立っていた。


「おはよ」


「おう」


「冬休み何してた?」


「ほぼ家」


「つまんな」


「それ前にも言われたんだけど」


「事実だからな」


「大和は?」


「親戚んち。あとは引っ越しの準備」


 拓真の表情が止まった。


「……準備?」


 大和は一度だけ頷いた。


「転勤、正式に決まった」


 教室の騒がしさが、一瞬だけ遠くなった気がした。


「そっか」


「うん」


「じゃあ……引っ越すんだ」


「春休みに」


 分かっていたことだった。


 以前から、たぶんそうなると言っていた。


 だから、驚くような話ではない。


 それなのに。


「結構すぐだな」


「二か月以上あるけど」


「二か月しかないだろ」


 思わずそう返してから、拓真は口を閉じた。


 大和がこちらを見る。


「……何?」


「いや」


 拓真は視線を逸らした。


「別に」


「なんだよ」


「何でもないって」


 大和は怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑った。


「まあ、今どき離れてても連絡できるしな」


「うん」


「休みなら遊べるだろ」


「うん」


「反応薄っ」


「朝だから」


「さっき普通に喋ってただろ」


「気のせい」


「なんだよ、それ」


 いつも通りに二人で笑った。


 けれど、拓真の中には一つだけ、笑えない言葉が残っていた。


 行かないでほしい。


 それだけは、口に出せなかった。




 昼休みになる頃には、大和の転校話はクラスの何人かにも伝わっていた。


「マジで転校すんの?」


「どこ?」


「春から?」


 大和の周りに人が集まっている。


「まだいるんだから送別会みたいな空気出すなよ」


「じゃあ今のうちに泣いとく?」


「泣くな」


「水嶋が泣けよ」


「なんで俺なんだよ」


 笑い声が上がる。


 拓真も少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。


「寂しくなるね」


 隣から声がした。


 黒川だった。


「……まあね」


 拓真が答えると、黒川が目を瞬く。


「何?」


「ちゃんと言うんだと思って」


「何を」


「寂しいって」


「黒川にはな」


「水嶋君には?」


「言わない」


「なんで?」


 まただ。


 最近、この質問をされることが多い。


「言ったところで困るだろ」


「本人に聞いてみれば?」


「嫌だよ」


「即答」


 黒川が笑う。


「だって、引っ越したくて引っ越すわけじゃないし」


「それはそうだけど」


「『行かないで』とか言われてもどうしようもないじゃん」


 黒川は一度、大和の方を見る。


「でも、私なら嬉しいけど」


「そう?」


「うん。必要とされてたんだなって思うから」


 友人に呼ばれ、黒川が顔を上げる。


「じゃあね」


「うん」


 黒川はそのまま離れていった。


 拓真は大和を見る。


 本人は相変わらず、友人たちと笑っていた。


 あんなふうに笑っている相手へ、わざわざ寂しいなんて言う必要があるのだろうか。


 そう考える。


 でも本当は、必要があるかどうかなんて関係ないのかもしれなかった。




 その夜、拓真は夢を見た。


 夕暮れの校舎。


 冬の空は暗くなるのが早く、窓の向こうにはすでに夜の色が混じっている。


 廊下を歩いていると、前方に如月がいた。


「如月」


 声を掛けると、如月は振り返った。


「何」


 拓真は近付く。


「大和の転校、決まった」


「知ってる」


 足が止まった。


「……は?」


 如月は何でもないことのようにこちらを見ている。


「なんで知ってるんだよ」


「別に」


「別にじゃないだろ」


 大和のことだけではない。


 父親と母親のことも。


 どうしてこの男は、自分の世界で起きていることを知っているのか。


「お前、前からそうだけど――」


「言ったのか」


 話を遮られた。


「何を?」


「行くなって」


 拓真は黙った。


「……言ってない」


「なんで」


「なんでって」


 如月は本当に分からないという顔をしている。


「行ってほしくないんだろ」


「そうだけど」


「じゃあ言えばいい」


「簡単に言うなよ」


「何が?」


 やっぱりだ。


 如月には分からないらしい。


「何がって……大和が困るだろ」


「なんで」


「なんでって、引っ越すのは大和が決めたことじゃないんだぞ」


「知ってる」


「だったら、『行くな』なんて言われてもどうしようもないだろ」


「だから?」


 拓真は言葉に詰まった。


 如月は眉を寄せる。


「お前、行くなって言ったら転勤がなくなると思ってんの?」


「思ってないよ」


「じゃあ別にいいだろ」


「よくないだろ」


「何が」


 話が噛み合わない。


 拓真は苛立って息を吐いた。


「言った後のこと考えないのかよ」


「考えない」


「……本当に?」


「嫌なら嫌って言う」


 迷いのない返事だった。


「行ってほしくないなら、行くなって言う」


「相手が困っても?」


「困るかどうかはそいつが決めることだろ」


 前にも聞いた言葉だった。


 拓真は黙る。


 如月は続けた。


「寂しいなら、寂しいって言えばいい」


「……」


「嫌なら嫌だって」


「お前なら本当に言うの?」


「言う」


 一瞬も迷わなかった。


「行くなって」


 如月は拓真を見る。


「寂しいって。嫌だって」


「……どう思われても?」


「それが俺の気持ちなら」


 拓真には、その感覚が分からなかった。


 嫌われたらどうする。


 面倒だと思われたら。


 困らせたら。


 関係が変わったら。


 そんなことが、先に浮かぶ。


 目の前の男には、それがない。


「……すごいな」


「何が」


「そういうの普通に言えるの」


「普通だろ」


「俺には普通じゃないんだよ」


 如月が眉をひそめた。


「なんで?」


 拓真は思わず笑った。


「やっぱ分かんないんだな」


「何が」


「いや、いい」


「気持ち悪い」


「ひど」


 如月は本気で嫌そうな顔をした。


 その表情を見ながら、拓真は思う。


 同じ顔なのに、こんなにも違う。


 自分にはできないことを、この男は何でもないことのようにやってしまう。


 少し羨ましかった。


「でもさ」


 拓真は言う。


「言って、何も変わらなかったら?」


 如月は少し考える。


「変わらなくても、お前が言ったことは伝わるだろ」


「……」


「大和は、お前がどう思ってるか知らないんじゃないの」


 拓真は答えられなかった。


 如月はそれ以上何も言わず、歩き出した。


「待って」


 拓真が呼び止める。


 足が止まる。


「さっきの」


「何」


「なんで大和のこと知ってたんだよ」


 如月は振り返らなかった。


「……今はいいだろ」


「よくないって」


「そのうち分かる」


「またそれかよ」


 返事はなかった。


 夕暮れの景色が、少しずつ白く滲み始める。


 拓真は如月の背中を見つめた。


「如月」


「何」


「お前だったら、本当に言うんだな」


 僅かな間があった。


「ああ」


 それだけだった。


 世界が白く消えていった。




 翌日の放課後。


 昇降口を出ると、大和が待っていた。


「遅い」


「生徒会あったんだから仕方ないだろ」


「十分待った」


「先帰ればよかったじゃん」


「冷た」


「なんで待ってたの?」


「一緒に帰ろうと思って」


 当たり前のように言われて、拓真は一瞬黙った。


「何?」


「いや」


「またそれ?」


「何でもない」


 二人は自転車を押しながら校門を出た。


 くだらない話をしながら歩く。


 あと二か月。


 春になれば、この時間もなくなる。


 校門から少し離れたところで、大和が自転車に跨がった。


「じゃあな」


「大和」


「ん?」


 大和が片足を地面につけたまま振り返る。


 今なら言える。


 頭の中では、はっきりしていた。


 行かないでくれ。


 寂しい。


 春からいなくなるなんて嫌だ。


 それだけだ。


「……」


「拓真?」


 大和が首を傾げる。


 言え。


 夢の中の如月の声が蘇る。


 言えばいい。


 拓真は口を開いた。


「向こう行っても、連絡しろよ」


 大和が目を瞬いた。


 やがて笑う。


「当たり前だろ」


「ちゃんとだぞ」


「お前こそ返信しろよ」


「するって」


「既読無視とかすんなよ」


「しない」


「絶対?」


「しつこいな」


 大和が笑う。


「じゃ、また明日」


「おう」


 自転車が走り出す。


 拓真は、その背中が遠ざかっていくのを見送った。


 本当に言いたかったことは、また言えなかった。


 ――行かないでくれ。


 声にはならないまま、その言葉だけが残っていた。

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