十五 言えなかった言葉
十二月も終わりに近付いていた。
終業式まで、あと数日。
教室では冬休みの予定を話す声があちこちから聞こえていた。
「お前、冬休み何すんの?」
放課後。
昇降口で自転車を出しながら、大和が聞いてきた。
「特に決めてない」
「つまんな」
「聞いといてそれ?」
「高校生なんだから、もっと何かあるだろ。初詣とか、カラオケとか」
「カラオケはこの前行ったじゃん」
「一回行ったら一年禁止なの?」
「そうは言ってないけど」
拓真は笑いながら自転車を押し出した。
大和も隣で自転車を押している。
「大和は?」
「親戚んち行くくらいかな」
「へえ」
「あとは、親父の転勤の話とか」
拓真の足が僅かに止まった。
「……まだ決まってないの?」
「正式にはな」
「そっか」
「でも、たぶん引っ越すと思う」
以前よりも、言葉がはっきりしていた。
十一月に聞いた時には、まだ遠い話だった。
けれど今は、少しずつ現実のものになっている。
「いつ?」
「決まったら春じゃね?」
「春か」
「うん」
二人は校門を出たところで立ち止まる。
大和が自転車に跨がった。
「まあ、まだ先だけどな」
「そうだな」
「何その顔」
「何もないけど」
「俺がいなくなるの寂しい?」
大和がにやりと笑う。
拓真も笑った。
「またそれ聞くの?」
「だって前まともに答えなかったじゃん」
「別に」
「ほら、それ」
「何だよ」
本当は、いなくなってほしくない。
中学からずっと一緒にいた。
朝も、放課後も。
どうでもいい話をして笑える相手が、春からいなくなる。
寂しくないわけがない。
けれど、まだ決まったわけではない。
今からそんなことを言っても、大和を困らせるだけだ。
「まあ、静かにはなるだろうな」
「ひどっ」
「事実」
「泣いても知らねえからな」
「泣かないって」
「絶対?」
「しつこいな」
二人で笑った。
「じゃ、また明日」
「おう」
大和が先に走り出す。
拓真は少し遅れて自転車に跨がった。
言えなかった。
寂しい、とは。
その日の夕食。
三人で食卓を囲んでいた。
テレビでは年末の特番の予告が流れている。
「年末、何日まで仕事?」
母親が父親に聞いた。
「三十一日」
「大晦日なのに?」
「仕方ないだろ」
父親の声が少し強くなる。
母親が眉を寄せた。
「責めてないわよ」
「そういう言い方に聞こえるんだよ」
「だから、そんなつもりじゃ――」
「もういいって」
父親が箸を置く。
一瞬で、食卓が静かになった。
拓真は二人を見る。
最近、こんなことが増えていた。
何でもない会話が、突然途切れる。
ほんの少し言葉が違っただけで、空気が変わる。
「あのさ」
拓真は口を開いた。
二人が同時にこちらを見る。
「何?」
母親が聞いた。
今なら聞ける。
最近、何かあったのか。
どうして二人はこんなふうになったのか。
自分は、この空気が嫌だ。
前みたいに三人で普通に話したい。
そう言えばいい。
「……」
父親も母親も待っている。
拓真は口を閉じた。
言ったら、二人が困るかもしれない。
自分が知らなくてもいいことまで、聞いてしまうかもしれない。
今まで通りには戻れなくなるかもしれない。
「拓真?」
「……醤油取って」
母親が一瞬だけ目を瞬いた。
「ああ、うん」
醤油差しが渡される。
「ありがとう」
拓真はご飯へ視線を落とした。
また言えなかった。
その夜。
夢の中も、冬だった。
夕暮れの住宅街。
空気が冷たく、吐く息が白い。
拓真は、あの家から少し離れたところに立っていた。
玄関が開く。
「おかえり」
母親が顔を出した。
「……ただいま」
如月が答える。
もう、その返事に驚くことはなかった。
「もうすぐ冬休みね」
「うん」
「何か予定あるの?」
「ない」
「友達と出掛けたりは?」
「しない」
「そっか」
母親は少しだけ残念そうに笑った。
如月が玄関へ入ろうとする。
けれど、一度足を止めた。
「……母さん」
「何?」
「年末、買い物行く?」
母親が目を丸くした。
「行くけど」
「何日?」
「二十八日かな」
「そっか」
それだけ言って、如月は家へ入ろうとする。
「一緒に来る?」
母親が聞いた。
如月は少し振り返った。
「暇だったら」
「じゃあ暇にしといて」
「なんでだよ」
「荷物持ってもらうから」
「……別にいいけど」
母親が笑った。
如月は面倒そうな顔をしたまま家の中へ入っていく。
拓真は離れた場所から、その様子を見ていた。
以前なら、如月はきっと、最初の「予定あるの?」で会話を終わらせていた。
母親と話したいのに話せなかったわけではない。
話す気がなかった。
それが今は、自分から声を掛けている。
少しずつ何かが変わっている。
しばらくして、景色が変わった。
夕暮れの校門。
拓真が歩いていると、少し先に如月がいた。
「如月」
声を掛ける。
如月は足を止めた。
「何」
「……今日さ」
拓真は言いかけた。
如月がこちらを見る。
「家で何かあった?」
拓真は眉を寄せた。
「なんで?」
「顔」
「……」
「変」
「お前に言われたくない」
如月は無表情のままだった。
「聞いたのか」
「何を」
「父親と母親」
拓真は黙る。
まただ。
どうして如月が、自分の世界のことを知っているのか。
「まだ聞いてない」
「なんで」
「なんでって……」
「気になってるんだろ」
「気にはなってるけど」
「じゃあ聞けばいい」
あまりにも簡単に言う。
拓真は少し苛立った。
「簡単に言うなよ」
如月が眉をひそめる。
「何が」
「何がって……」
本当に分からないという顔だった。
拓真は思わず息を吐く。
「聞いたらさ。父さんも母さんも困るかもしれないだろ」
「だから?」
「だからって……」
「困るかどうかは二人が決めることだろ」
「……」
「お前が決めることじゃない」
拓真は何も言えなかった。
「それに」
如月が続ける。
「嫌なら嫌って言えばいいだろ」
「何を」
「今の家が嫌なら」
拓真は顔を上げる。
「前みたいにしてほしいなら、そう言えばいい」
「そんなの――」
「言わなきゃ分からないだろ」
それだけだった。
如月にとっては、本当にそれだけなのだ。
嫌なものは嫌。
してほしいことがあるなら言う。
相手がどう思うかは、そのあと。
でもその「それだけ」が、拓真にはできない。
だからこそ、目の前の男が少し羨ましく思えた。
「お前ってさ」
「何」
「相手に嫌われるかも、とか考えないの?」
「嫌われたら嫌われたで仕方ないだろ」
「……すごいな」
「何が」
「いや」
拓真は苦笑した。
「やっぱ何でもない」
「意味分からない」
如月はそう言って歩き出した。
「如月」
「何」
「お前は?」
「は?」
「母さんと最近話してるじゃん」
如月の眉が動く。
「見てたのかよ」
「見えたから」
「最悪」
「前より仲良くなってない?」
「知らない」
「買い物行くんだ?」
「うるさい」
「否定しないんだ」
如月が露骨に嫌そうな顔をする。
「もう話しかけんな」
「またそれ?」
「今度は本気」
「はいはい」
拓真が笑う。
如月は呆れたように前を向いた。
けれど、以前のように怒って離れていくことはなかった。
そのまま少し歩いてから。
「……じゃあな」
小さく言った。
拓真は目を瞬く。
「え?」
如月は振り返らない。
夕暮れの景色が、少しずつ白く滲み始めていた。
「今、じゃあなって言った?」
「うるさい」
拓真は少し笑った。
世界が白く消えていった。
翌日。
教室では冬休みの話で盛り上がっていた。
拓真も友人たちの輪の中で笑っていた。
「如月君」
黒川に呼ばれ、振り返る。
「何?」
黒川がじっとこちらを見る。
「最近さ」
「うん」
「無理して笑ってない?」
拓真の表情が一瞬止まった。
「……何それ」
「なんとなく」
「またなんとなく?」
「便利なんだよ、この言葉」
黒川が笑う。
拓真もつられて笑った。
「別に普通だよ」
「そっか」
「うん」
黒川は少しだけ拓真を見ていた。
「ならいいけど」
それ以上は何も聞かなかった。
友人に呼ばれ、黒川が離れていく。
拓真はその背中を見送った。
普通。
確かに、まだ普通だった。
学校には大和がいる。
家に帰れば父親と母親がいる。
何もなくなってはいない。
だから、まだ大丈夫なのかもしれない。
その日の夕食。
父親と母親の会話は、ほとんどなかった。
拓真は何度か口を開きかけた。
最近、どうしたの。
俺、今の家の空気嫌なんだけど。
前みたいに三人でいたい。
言葉はちゃんと頭の中にあった。
けれど。
「ごちそうさま」
最後まで、一つも口には出せなかった。




