十四 見ないふり
十二月に入った。
朝、自転車に乗ると指先が痛いくらいに冷える。
吐いた息は白く、川沿いのサイクリングロードを走る生徒たちも、いつの間にかマフラーや手袋をつけるようになっていた。
「寒っ」
前を走る大和が肩をすくめる。
「手袋すれば?」
「忘れた」
「じゃあ、しょうがねぇな。」
「冷たいやつだな」
「手は温められないから」
「心の話だよ」
「朝から重いな」
大和が笑い、拓真も笑う。
こうして並んで学校へ向かうのは、いつものことだった。
けれど最近、その「いつも」が少しだけ気になるようになっていた。
十一月に聞いた、大和の父親の転勤話。
まだ決まってはいないと聞いていた。
「そういやさ」
信号で止まったところで、大和が言った。
「親父の転勤、たぶん決まりそう」
拓真は大和を見る。
「……たぶん?」
「ほぼ、かな」
「どっちだよ」
「親父がそう言ってた。正式に決まるのはもうちょい先らしいけど」
信号が青に変わる。
二人はまたペダルを踏んだ。
「じゃあ、引っ越すの?」
「そこはまだ分かんない」
「そっか」
「うん」
会話が途切れる。
いつもなら大和が何かくだらないことを言い出すのに、今日はしばらく黙っていた。
拓真も、何を言えばいいのか分からなかった。
残ればいいのに。
そんな言葉が浮かぶ。
けれど、まだ何も決まっていない。
今からそんなことを言ったって、大和を困らせるだけだ。
「まあ、まだ先の話だろ」
結局、口から出たのはそれだった。
「そうだな」
大和も笑った。
拓真は前を向く。
それ以上、その話はしなかった。
昼休み。
拓真が購買から教室へ戻ると、自分の机の上にプリントの束が置かれていた。
「何これ」
近くにいた黒川が振り返る。
「先生から。如月君に渡してって」
「また?」
「また」
聞き覚えのあるやり取りに、拓真は思わず笑った。
「最近みんな俺に物運ばせすぎじゃない?」
「断ればいいじゃん」
「それ言うと思った」
「そろそろ学習して」
黒川は呆れた顔をして、自分の席に戻ろうとする。
「黒川」
「何?」
「これ、何のプリント?」
「知らない」
「渡した責任は?」
「ありません」
「冷た」
「自分で確認してください」
そう言いながら、黒川は笑っていた。
拓真も笑ってプリントをめくる。
生徒会関係のアンケートだった。
「……今日までじゃん」
「頑張って」
「他人事だと思って」
「他人事だから」
「ひどいな」
黒川が肩をすくめる。
それから、ふと思い出したように拓真を見る。
「でも、本当に無理なら無理って言った方がいいよ」
「またその話?」
「今日はちょっと違う」
「何が?」
黒川は少し考えた。
「如月君って、誰かが困ってるかどうかはすぐ気付くでしょ」
「まあ……」
「でも自分のことは、たぶん後回しにするよね」
拓真はプリントへ視線を落とした。
「別にそんなことないけど」
「ならいいけど」
「そこで終わるんだ」
「だって本人が違うって言ってるし」
黒川はあっさり答える。
「私が決めることじゃないから」
そう言って友人に呼ばれ、席を離れていった。
拓真はその背中を見送る。
『私が決めることじゃないから』
妙に、その言葉が残った。
その日の夜。
夕食を終えて自分の部屋へ戻ろうとした時、リビングから父親の声が聞こえた。
「だから、前にも言っただろ」
拓真の足が止まる。
続いて母親の声。
「分かってるわよ。でも、私だって――」
そこで声が小さくなった。
何を話しているのかまでは聞こえない。
拓真は階段の前に立ったまま、リビングの扉を見る。
最近、こんなことが増えた。
拓真が部屋にいる時。
風呂に入っている時。
朝、起きる前。
二人だけになると、時々声が聞こえる。
自分が入っていけば、決まって会話は止まった。
聞けばいい。
何の話をしているのか。
何かあったのか。
たったそれだけだ。
でも、もし本当に何かあったら。
聞いてしまえば、今まで通りではいられなくなるような気がした。
「……」
拓真は階段へ足を掛けた。
そのまま二階へ上がる。
背後では、また小さく両親の声が聞こえ始めていた。
その夜、夢を見た。
夕暮れの住宅街だった。
拓真は、あの家から少し離れたところに立っていた。
玄関が開く。
「おかえり」
母親が顔を出した。
帰ってきた如月は、一度だけ母親を見る。
「……ただいま」
拓真は思わず目を見開いた。
小さな声でそれだけだった。
けれど、以前の如月なら何も言わずに通り過ぎていた。
母親も驚いたように如月を見る。
すぐに笑った。
「お腹空いてる?」
「少し」
「すぐご飯にするから」
「……うん」
如月はそれ以上何も言わず、家の中へ入っていった。
扉が閉まる。
拓真はその場に立ち尽くした。
「あいつ……」
変わっていない。
本人はそう言っていた。
けれど本当に、何も変わっていないのだろうか。
少なくとも今の「ただいま」は、以前の如月なら言わなかった。
自分があいつの世界を変えたと思っていた。
でも、もしかすると変わったのは、周りだけではないのかもしれない。
「お前」
突然、後ろから声がした。
拓真は振り返る。
そこに如月が立っていた。
「……え?」
さっき家に入ったはずなのに。
けれど、もう驚いても仕方がない。
ここは夢だ。
「何だよ」
拓真が聞く。
如月は少し黙っていた。
「父親と母親」
拓真の表情が止まる。
「……何?」
「見てるんだろ」
一瞬、意味が分からなかった。
けれどすぐに、現実の両親が頭に浮かぶ。
「なんでお前が知ってるんだよ」
如月は答えない。
「前も『ちゃんと見とけ』とか言ってたけどさ。何を知ってるんだよ、お前」
「見ないふりすんなよ」
言葉を遮られた。
拓真は黙る。
「してない」
「してる」
「何も知らないくせに」
「じゃあ聞けばいいだろ」
「……何を」
「何が起きてるのか」
拓真は視線を逸らした。
「別に、俺が聞いたって何も変わらないだろ」
「分かんないだろ」
拓真は顔を上げた。
「変わるかもしれない。変わらないかもしれない」
「……意味わかんない。」
「でも、何も言わなかったら、お前がどう思ってるかは誰にも分からない」
如月はまっすぐ拓真を見ていた。
「全部どうにかしろって言ってるんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「嫌なら嫌だって言えよ」
拓真は黙る。
「怖いなら怖いって。離れてほしくないなら、そう言えばいい」
「そんなこと言ったって……」
「困るかもしれないな」
如月はあっさり言った。
「だったら――」
「でも、困るかどうかは向こうが決めることだろ」
拓真は何も言えなかった。
「お前が先に全部決めんなよ」
その言葉が引っかかった。
自分が何か言えば、父親も母親も困るかもしれない。
だから聞かない方がいい。
何も言わない方がいい。
そう考えていた。
でも、それは本当に二人が望んでいることなのだろうか。
「……言ったら、何か変わると思う?」
拓真は聞いた。
如月は少し黙った。
「知らない」
「知らないのかよ」
「分かるわけないだろ」
あっさりした返事だった。
「変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない」
「……」
「でも、言わなかったら分からないままだ」
拓真は俯いた。
それが正しいのかどうかは分からない。
自分が気持ちを伝えたところで、両親の問題が解決するとは限らない。
それでも。
もしかしたら、何かが変わることだってあるのかもしれない。
「お前、そういうの得意だろ」
如月が言った。
「何が」
「自分で勝手に答え出して、何も言わないの」
「……うるさいな」
腹が立った。
反論したかった。
けれど、言葉が出てこない。
父親が仕事で出掛けられなくなった時も。
大和が転校するかもしれないと聞いた時も。
そして今も。
相手が困らない答えを先に選んでいる。
自分がどう思っているのかは、そのあとだった。
「お前だって」
拓真は言う。
「母さんに何も言ってなかったくせに」
如月の動きが止まる。
「さっき、『ただいま』って言ってたじゃん」
「……」
「変わってないんじゃなかったの?」
如月がこちらを見る。
拓真は少しだけ笑った。
如月は露骨に嫌そうな顔をした。
「うるさい」
「同じこと言ってる」
「黙れ」
それ以上、如月は何も言わなかった。
けれど、怒鳴りもしなかった。
やがて世界が、ゆっくり白く滲んでいった。
翌日の夕食では、父親も母親もいつも通りだった。
「拓真、醤油取って」
「はい」
「ありがとう」
母親が受け取る。
父親はテレビを見ながら笑っている。
「これ、この前もやってたな」
「再放送じゃない?」
「そうか?」
「たぶん」
拓真もテレビを見る。
何でもない食卓。
少し前までなら、本当に何もおかしいとは思わなかった。
でも今は分かる。
父親が時々、母親の顔を見ないこと。
母親が父親に話しかける前、一瞬だけ迷うこと。
会話が途切れた時、以前より沈黙が長くなったこと。
小さなものばかりだった。
気のせいだと言ってしまえば、それまでの。
「拓真?」
母親に呼ばれる。
「ん?」
「どうしたの?」
「……いや」
聞こうと思った。
昨日、何話してたの。
最近、何かあったの。
それだけではない。
もし何かあるなら。
今のまま三人でいたい。
そう言ってもいいのかもしれない。
でも父親もこちらを見ている。
母親も笑っている。
今ここで言ったら、この空気が壊れるような気がした。
拓真は箸を持ち直した。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
母親はそれ以上聞かなかった。
テレビから笑い声が流れる。
父親も笑う。
母親も笑う。
拓真も、少し遅れて笑った。
何も見なかったことにするように。




