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白い世界で君は笑った  作者: pino


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十三 小さな亀裂

 守れよ。


 あれから何日経っても、その言葉は頭の片隅に残っていた。


 何を守れというのか。


 誰を守れというのか。


 問い返しても、如月は答えなかった。


 考えたところで分かるはずもなく、拓真もそのうち考えるのをやめた。


 ――はずだった。




 十一月。


 文化祭の熱気もすっかり消え、学校にはいつもの日常が戻っていた。


「なあ、聞いてくれよ」


 昼休み。


 大和が前の席の椅子を勝手に引き寄せ、拓真の机に肘をついた。


「何」


「親父の転勤の話」


 拓真は弁当を食べる手を止めた。


「転勤?」


「うん。まだ決まってないらしいけど」


 大和は卵焼きを一つ摘まもうとして、拓真に箸で手を払われた。


「痛っ」


「人の弁当食うなよ」


「一個くらいいいだろ」


「よくない」


「ケチ」


「で、転勤が何?」


「ああ、そうだった」


 大和は何事もなかったように話を戻した。


「もし決まったら、俺も引っ越すかも」


「……引っ越す?」


「たぶんな。親父だけ単身赴任って可能性もあるらしいけど」


 口調は軽かった。


 いつもと同じ大和だった。


 だから拓真も、いつもと同じように返した。


「まだ決まってないんだろ?」


「うん」


「じゃあ、今考えても仕方ないじゃん」


「まあな」


 大和が笑う。


「できれば残りたいけど」


 その言葉だけが、妙に耳に残った。


「そりゃそうだろ」


「お前、俺いなくなったら泣く?」


「泣かねえよ」


「即答すんなよ」


「じゃあ号泣する」


「嘘くさ」


 二人で笑った。


 いつも通りだった。


 転勤だって、まだ決まったわけじゃない。


 何も変わっていない。


 そう思えば、それ以上考える必要はないはずだった。




 放課後、生徒会室から教室へ戻る途中で黒川と会った。


 向こうも拓真に気付き、軽く手を上げる。


「お疲れ」


「お疲れ」


 黒川の腕には何冊かのファイルが抱えられていた。


 拓真は反射的に手を伸ばしかける。


「持つ?」


「大丈夫」


 先に断られた。


「まだ何もしてないけど」


「今、持とうとしたでしょ」


「まあ」


「今日は自分で持てます」


「そうですか」


「そうです」


 黒川は満足そうに頷いた。


 二人で並んで廊下を歩く。


「生徒会、まだ忙しい?」


「文化祭前よりは全然」


「じゃあ最近はちゃんと休んでる?」


「何、その確認」


「水渡した人としては一応」


「あれ一回だけだろ」


「でも効果あったでしょ」


「まあ……喉渇いてたけど」


「ほら」


 得意そうな顔をする黒川に、拓真は笑った。


「黒川、たまに母親みたいだよな」


「二回目」


「覚えてた?」


「覚えてるよ。失礼だから」


「ごめんって」


 黒川も笑う。


 それから少し歩いたところで、ふとこちらを見る。


「でも、今くらいの方がいいかもね」


「何が?」


「如月君。文化祭前、ずっと忙しそうだったから」


「ああ」


「頼まれても、たまには断れば?」


「またその話?」


「またその話」


 思わず二人で笑った。


 以前なら、こんなふうに黒川と話すことはほとんどなかった。


 文化祭をきっかけに、少しだけ距離が近くなった。


 それも、今では当たり前になりつつある。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 階段の前で黒川と別れた。


 何でもない放課後だった。




 家に帰ったのは、六時を少し過ぎた頃だった。


「ただいま」


 玄関から声を掛ける。


 いつもなら、キッチンから母親の「おかえり」が返ってくる。


 けれど今日は何も聞こえなかった。


「……母さん?」


 靴を脱ぎ、リビングへ向かう。


 扉を開けたところで、拓真は足を止めた。


 父親と母親がいた。


 テレビはついていない。


 二人とも黙っている。


 父親はソファに座り、母親はダイニングテーブルの前に立っていた。


 さっきまで何かを話していた。


 そんな空気だけが残っている。


「何してんの?」


 二人が同時に拓真を見る。


 母親が先に笑った。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はちょっと遅かったのね」


「生徒会」


「そっか」


 いつもの声。


 いつもの母親だ。


 けれど、何かがおかしかった。


「……なんかあった?」


 一瞬、母親と父親の視線が合った。


「何もないわよ」


 母親が答えた。


 父親も続ける。


「ああ。ちょっと話してただけ」


「ふーん……」


 もう一度聞けば、何か分かったかもしれない。


 けれど、二人が「何でもない」と言っているのに、わざわざ聞く必要もない気がした。


「俺、着替えてくる」


「あ、もうすぐご飯だからね」


「分かった」


 拓真はリビングを出た。


 階段を上がりながら、一度だけ振り返る。


 閉じた扉の向こうからは、何も聞こえなかった。




 その夜。


 久しぶりに、夢の中で如月と二人きりになった。


 如月は校門から少し離れたところに立っている。


 拓真から近付くことはしなかった。


 もう関わるな。


 言われたことは、まだ覚えている。


 けれど如月の方も立ち去ろうとはしなかった。


「……何」


 先に口を開いたのは拓真だった。


 如月はしばらく黙っている。


「何か言いたいんだろ」


「別に」


「俺みたいなこと言うなよ」


 言ってから、拓真は変な気分になった。


 目の前にいるのは、自分と同じ名前で、同じ顔をした男なのだ。


 如月の眉が僅かに動く。


「お前さ」


「何」


「ちゃんと見てるか」


「……何を?」


 答えはなかった。


「またそれ?」


 拓真は思わず呆れた声を出す。


「守れとか、見ろとか。何の話してんのか全然分かんないんだけど」


 如月は視線を逸らした。


「なら、分からなくてもいい」


「よくないだろ」


「そのうち分かる」


 拓真は眉を寄せる。


「何だよ、それ」


 如月は答えない。


 少しの沈黙のあと、校門へ向かって歩いて行った。


「おい」


 拓真は如月に向かって手を伸ばす。


 如月は足を止めない。


 ただ、背中を向けたまま一言だけ残した。


「ちゃんと見とけ」


 夕暮れの景色が白く滲み始める。


「だから、何をだよ」


 答えは返ってこなかった。




 翌朝。


 階段を下りている途中で、拓真は足を止めた。


 リビングから声が聞こえた。


「だから、そういう問題じゃないだろ」


 父親だった。


 いつもの父親からは想像できない、低い声。


「じゃあどうすればいいのよ」


 今度は母親。


 こちらも、聞いたことのない口調だった。


 拓真は階段の途中に立ったまま動けなくなる。


 昨日の夕方、二人の間にあった妙な沈黙を思い出す。


 ――ちゃんと見とけ。


 夢の中の声まで重なった。


 拓真は一段だけ、階段を下りた。


 その瞬間。


「拓真起きてくるから」


 母親の声が小さく聞こえた。


 途端に、リビングが静かになる。


 拓真も足を止めた。


 あと数段下りれば、二人の顔が見える。


 何を話していたのか聞けばいい。


 昨日だって、聞こうと思えば聞けた。


 けれど。


 拓真はしばらくそこに立ったあと、一度だけ息を吐いた。


 そして、何も知らないふりをして階段を下りた。


「おはよう」


 母親が振り返る。


「おはよう」


 いつもの笑顔だった。


 父親も新聞を広げている。


「おう」


「……おはよう」


 拓真も笑った。


 食卓には、いつもの朝食が並んでいた。


 昨日までと、何も変わっていないように見えた。


 ただ、拓真にはもう、その言葉をそのまま信じることができなかった。

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