十二 もう関わるな
目を開けると、見慣れた天井があった。
拓真はしばらく動かなかった。
夢の中で掴まれた制服の感触も、怒鳴り声も、当然ここには残っていない。
それなのに、最後に聞いた言葉だけは妙にはっきりしていた。
『もう関わるな』
「……分かったよ」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
黒川を助けたことも、母親と話したことも、悪いことをしたとは思っていない。
けれど、如月がそれを望んでいなかったのも分かった。
自分なら嬉しい。
自分ならそうしてほしい。
そんな基準だけで、あいつの周りに勝手に手を出していた。
だったら、もうやめよう。
夢を見ても近付かない。
何があっても、余計なことはしない。
それが如月の望みなら。
文化祭が終わってから、すでに数日が経っていた。
学校も少しずつ普段の空気へ戻り始めている。
廊下にはまだ外し忘れた装飾が残っていたが、放課後の教室を埋め尽くしていた段ボールも、今ではほとんど片付いていた。
拓真が自分の席で生徒会の書類を眺めていると、目の前にペットボトルが置かれた。
「ほら」
「何これ」
顔を上げると、大和が立っていた。
「差し入れ」
「急だな」
「お前、また眠そうだから」
「またって何だよ」
「最近ずっとだろ」
大和は向かいの椅子を引き、背もたれを前にして座った。
「で」
「何」
「カラオケいつ行く?」
「あ」
「忘れてただろ」
「忘れてない」
「今の『あ』でそれは無理があるって」
拓真は笑った。
文化祭当日の朝、大和に誘われていたことを本当に忘れていた。
あれから何度も夢を見た。
もう一人の自分の顔を見て、初めて言葉を交わして、最後には胸元まで掴まれた。
カラオケどころではなかった。
「じゃあ、いつにする?」
大和が聞く。
「いつでもいいよ」
「出た」
「何が」
「お前の『いつでもいい』」
「別にいいだろ」
「よくない。水嶋大和先生は、生徒の自主性を重んじます」
「出たよ先生」
「じゃあ今度の休み」
「結局お前が決めんのかよ」
「文句ある?」
「ないけど」
「じゃあ決定」
「横暴だなあ」
二人で笑う。
ほんの少しだけ、夢のことを忘れられた。
その夜も、拓真はあの世界にいた。
夕暮れの教室。
夢の世界でも文化祭は終わったらしい。
壁に残った装飾を何人かの生徒が外している。
窓際には如月がいた。
拓真は足を止めた。
以前なら、無意識にそちらへ近付いていたのだが、今日は動かない。
『もう関わるな』
言われた通りにする。
教室の後ろから、ただ眺めていた。
「如月君」
黒川がやってきて如月が顔を上げる。
「何」
「打ち上げ、来なかったね」
「行かないって言った」
「言ってたけど」
黒川は近くの机に手をついた。
「ちょっとくらい来るかと思ってた」
「なんで」
「最近、前より話すようになったから」
如月の表情が僅かに固くなる。
「変わってない」
「またそれ?」
「変わってない」
前にも聞いた言葉だった。
黒川は少しだけ黙った。
「そっか」
それ以上は何も言わず、小さく手を振る。
「じゃあね」
如月は返事をしなかった。
黒川が教室を出ていく。
拓真も何もしなかった。
これでいい。
あいつが望んだ通りだ。
次に夢を見た時、拓真は住宅街にいた。
気付けば、あの家の近くまで来ていた。
「……なんで来てんだよ」
自分に呆れながらも、足は止まっていた。
窓には明かりがついている。
やがて玄関の扉が開き、母親が顔を出した。帰宅していない如月を心配しているのだろうか。
拓真は咄嗟に声をかけようとしたのだが、足を一歩踏み出してそのまま止まった。
自分のことを探しているわけではない。
少し遅れて、如月が歩いてきた。
「あ、拓真。晩ご飯できたわよ」
「……うん」
「今日はハンバーグ」
如月の足が僅かに止まった。
「冷めないうちに食べなさいね」
「後で食べる」
「そう」
母親はそれだけ言って家へ戻った。
扉が閉まる。
如月はしばらく、その場に立っていた。
拓真は離れたところから見ていた。
『好きだったでしょ?』
以前、母親に言われた言葉を思い出す。
自分なら、きっとすぐ家へ入る。
母親が嬉しそうにするなら、それでいいと思うから。
でも、それは自分の考えだ。
拓真は何も言わなかった。
如月もやがて歩き出す。
二人の距離は縮まらないままだった。
それからも、夢を見るたびに拓真は距離を取った。
如月を見つけても近付かない。
黒川が困っていても手を出さない。
クラスメイトが如月へ何か言っていても、ただ見ている。
自分が関わる前の世界へ、少しずつ戻っているように見えた。
ある日の夢は放課後だった。
「如月君」
校門の近くで黒川が如月を呼び止めた。
「何」
黒川はしばらく、その顔を見ていた。
「最近さ」
「何」
「元に戻った?」
如月の眉が動く。
「意味分からない」
「だよね」
黒川は苦笑した。
「なんか、少し前だけ違った気がしたんだけど」
「知らない」
「うん」
それでも黒川は、すぐには立ち去らなかった。
「やっぱり気のせいだったのかな」
「知らないって」
「二回言わなくても分かるよ」
黒川は少し笑う。
「じゃあね」
今度こそ歩いていった。
如月は何も言わない。
けれど、その背中をほんの少しだけ目で追っていた。
拓真は離れた場所から、その様子を見ていた。
自分が関わらなくなれば、元に戻る。
黒川も。
クラスメイトも。
母親も。
きっと、その方が如月にとってはいい。
そう思っているはずなのに、どうしてかすっきりしなかった。
翌日の学校。
昼休みに黒川が友人と話しているのが見えた。
拓真は何となくそちらを見る。
夢の中の黒川とは同じ顔なのに、当然こちらの黒川は何も知らない。
すると、ふいに目が合った。
「何?」
「え?」
「今、見てたでしょ」
「見てない」
「見てたよ」
「気のせいじゃない?」
黒川が眉を寄せる。
「最近そういう返し多くない?」
「そう?」
「そう」
少し間があって、二人とも笑った。
「変なの」
黒川はそう言って友人のところへ戻っていく。
拓真はその背中を見ながら、ふと思った。
こちらの黒川が困っていたら普通に助ける。
母親が話しかけてきたら、普通に返事をする。
大和に誘われれば、一緒にカラオケにも行く。
それなのにあちらの夢の世界では、何もしない。というかしてはいけない。
あいつが嫌だと言ったから。
「……難しいな」
誰にも聞こえないように呟いた。
その夜、夢の世界。
拓真はまた、夕暮れの校舎にいた。
昇降口から外へ出ると、少し先を如月が歩いている。
拓真は立ち止まった。
これ以上近付かない方がいい。
踵を返そうとする。
「……まだいるんだな」
低い声がした。
拓真は振り返った。
如月は前を向いたまま立っていた。
「……見えてたのかよ」
返事はない。
「関わるなって言ったの、お前だろ」
如月は何も言わない。
だったら、なんで話しかけてくるんだ。
そう聞こうとしたが、やめた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて如月がゆっくりと振り返る。
怒ってはいなかった。
前に真正面からぶつかった時とは、まるで違う顔だった。
どこか遠くを見るような目で、拓真を見ている。
「何だよ」
拓真が聞くが、如月は答えなかった。
夕暮れの風が制服の裾を揺らす。
何かを言おうとしている。
そんな気がした。
そして。
「守れよ」
拓真は眉を寄せた。
「……何を?」
如月は黙っている。
「おい」
もう一度聞こうとした瞬間、景色の輪郭が白く滲んだ。
「待てよ」
如月の姿も少しずつ白に飲まれていく。
「守れって、何をだよ」
返事はなかった。
最後に見えた如月は、怒っても、笑ってもいなかった。
ただ、どこか寂しそうに見えた。
「如月!」
手を伸ばす。
届く前に、世界が白く染まった。
そして拓真は、最後までその言葉の意味を知ることができなかった。




