十一 全部お前だろ
如月が一歩、こちらへ近付いた。
拓真は反射的に後ろへ下がる。
もう一歩。
如月は何も言わない。
ただ、拓真の顔を見ていた。
その視線が妙だった。
怒っているようだ。それだけではなく、驚いているようにも見えた。
やがて、如月の足が止まる。
あと数歩もない距離だった。
「……なんで」
掠れた声が漏れた。
拓真は息を呑む。
如月は自分の顔を確かめるように、じっとこちらを見ている。
「なんで、俺と同じ顔してる」
拓真にも答えられなかった。
ずっと聞きたかったことだった。
どうして同じ名前なのか。どうして同じ顔なのか。どうして自分は、この世界を夢に見るのか。
何一つ分かっていない。
「俺だって分からない」
ようやくそう答えた。
そんなの、俺が知りたいくらいだ。
如月の眉が僅かに動く。
「名前は」
「……如月拓真」
今度こそ、如月の表情が変わった。
「は?」
「俺も、如月拓真」
沈黙が落ちた。
遠くを車が走る音だけが聞こえる。
如月はしばらく何も言わなかった。
同じ顔をした相手から、自分と同じ名前を告げられたのだ。驚かない方がおかしい。
拓真自身だって、初めて如月の顔を見た時はそうだった。
やがて如月が小さく息を吐いた。
そして、不意に拓真の後ろを見る。
さっきまで母親と話していた家。
再び拓真を見る。
その目付きが変わった。
「……お前か」
「え?」
「最近ずっと、おかしかった」
如月の声が低くなる。
「俺がやってないことで、黒川に礼を言われる」
拓真の身体が強張った。
「先生にも、クラスの奴らにも、前と違うみたいな顔をされる」
一つずつ、如月の中で今までの出来事が繋がっていく。
「母さんまで、最近よく話すようになったとか言い出した」
さっきの会話を思い出す。
『前は何聞いても「別に」だったのに』
拓真は何も言えなかった。
如月がこちらへ踏み込んだ。
「黒川を助けたのも」
また一歩。
「母さんと話したのも」
そして。
「全部、お前だったのか」
拓真が答えるより早かった。
制服の胸元を掴まれる。
「っ……!」
強く引き寄せられ、息が詰まる。
「全部お前だろ!」
初めて聞くほど大きな声だった。
「ちょっと待てよ!」
拓真は如月の腕を掴んだ。
「何余計なことしてるんだ」
「余計って……」
「俺は頼んでない」
吐き捨てるような声だった。
自分だって遊び半分でやったわけじゃない。困っていたから助けた。それだけだ。
「でも、別に悪いことしてないだろ」
如月の目が細くなる。
「は?」
「黒川が困ってたから助けただけだし、母さんだって――」
「母さん?」
その言葉だけ、如月の反応が違った。
拓真は気付いたが、それでも止めなかった。
「返事するだけですごく嬉しそうだったじゃん」
如月の手に力が入る。
「お前、いつもあんな感じなんだろ」
「……」
「何聞かれても『別に』とか、返事もしないとか。そりゃ母さんだって――」
「黙れ」
「でも本当だろ」
「黙れって」
「黒川だってそうだよ。前よりお前に普通に話しかけるようになった。クラスの奴らだって――」
「だから何だよ!」
怒鳴り声に、拓真の言葉が止まった。
如月の肩が上下している。
「みんなが喜んでたら、それでいいのかよ」
「……え?」
「母さんが喜んでる。黒川が喜んでる。クラスの奴らも前より話しかけてくる」
如月は一度、言葉を切った。
「だから俺も喜ばなきゃいけないのか?」
拓真は答えられなかった。
そんなことを言ったつもりはない。けれど、すぐに否定することもできなかった。
「俺じゃないことまで、俺がやったことになってる」
如月の声はもう大きくなかった。
その方が、拓真には重く聞こえた。
「勝手に変わったって言われる。勝手に期待される。勝手に話しかけられる」
如月が拓真を見る。
「俺は何も変わってないのに」
さっき黒川にも言っていた。
『変わってない』
あれは意地を張っていたわけではなかったのだ。
本当に、そう思っていた。
「でもさ」
拓真は言う。
「人と関わることって、そんなに悪いことか?」
如月は黙った。
「嫌われるよりいいだろ。誰にも話しかけてもらえないより――」
そこまで言って、拓真は止まる。
如月の目に浮かんだものが、怒りだけではなかったからだ。
「……そういうところだよ」
「何が」
「お前には分からない」
「分かるわけないだろ。何も言わないんだから」
言った瞬間、如月の顔が歪んだ。
ほんの一瞬だった。
「言ったところでどうなる」
「え?」
「誰かに話したって、どうにもならないことだってあるだろ」
その言葉の意味を、拓真はまだ知らなかった。
問い返そうとした時には、如月が視線を逸らしていた。
「俺は、放っておいてほしかっただけだ」
低い声だった。
「誰にも期待されたくなかった」
「……」
「勝手に俺を変えようとするな」
如月の指から、少しずつ力が抜けていく。
「俺は俺のままでよかった」
拓真には理解できなかった。
必要とされること。頼られること。期待されること。
それはずっと、嬉しいことだと思っていた。
少しくらい自分が我慢しても、相手が喜ぶならそれでいい。
そうしていれば、誰も嫌な思いをしない。
その方がうまくいくと、ずっとそう思ってきた。
「そんなに嫌なのかよ」
拓真は思わず聞いた。
「誰かに必要とされるのが」
如月が顔を上げしばらく拓真を見ていた。
そして。
「……苦しいんだよ」
小さな声だった。
拓真は何も言えなくなった。
怒鳴られた時よりも、その一言の方がずっと残った。
如月の手が離れ、二人の間に距離ができた。
同じ顔で同じ名前。
それなのに……。
今この瞬間、拓真には目の前の男が誰よりも遠い存在に思えた。
「俺は」
拓真は口を開いた。
何か言わなければと思った。けれど、続きが出てこない。
自分が間違っていたとも思えない。
困っている黒川を助けたことも、母親と話したことも、悪いことだったとはどうしても思えなかった。
でも、それを如月が望んでいたか。
そんなことは、一度も考えなかった。
如月が背を向ける。
「待って」
拓真が呼び止める。
足が止まったが振り返ることはしない。
少しの沈黙のあと、如月は言った。
「もう関わるな」
さっきまでの怒りはなかった。
静かな声だった。
むしろ、疲れているように聞こえた。
「俺にも」
間が空く。
「俺の周りにも」
風が吹いた。
その風景の輪郭が、少しずつ白く滲んでいく。
「如月」
返事はない。
「待てよ」
家も道も如月の背中も全て、白の中へ溶け始める。
拓真はその場から動けなかった。
最後まで、如月は振り返らなかった。
そして世界は、真っ白になった。




