後編
はっきり言える。
お母さんは料理をするのが好きだ。
でも、上手じゃない。
いつものように、派遣のアルバイトに出かけるあたしにお弁当を持たせてくれた。
「行ってらっしゃい。今日も頑張ってね」
この笑顔に見送ってもらえると、誰でもできる仕事だけどやる気が出る。
「うん! いつもお弁当、ありがとう」
中身はまるで子供のお弁当。
タコさんウインナー、からあげ、ハンバーグ。タマゴサラダ。
あたしが子供の頃は確かに大好きだったおかずばかり。
しかもからあげはガチガチに固くて、ハンバーグはちょっと生っぽくて、タマゴサラダは塩辛い。
それでも子供に戻ったみたいに嬉しくて、あたしは本気で美味しいって思いながら、有り難くいつも完食する。
あたしは7時半にアパートを出る。
お母さんはそのあと9時に出勤してるらしい。
仕事は男性用下着ショップの店員だという。
女は近づいただけで恥ずかしいようなお店だから、絶対に来ないように言われてる。場所も知らない。
アルバイト先の倉庫へ自転車を走らせる。
いつも前に務めていた硝子瓶会社の前を通る。あたしはここでセールスドライバーをやっていた。
きつい仕事だけど、やり甲斐があった。色んな知らない人と触れ合って、人見知りの自分を変えて行けるような気がしていた。『朴訥なキャラが意外に営業向きだ』なんて褒められて、人生が輝いていた。
ある日の深夜、アパートの部屋で寝ていた時に、それは起こった。
急に胸が刺されるように痛くなって、独り暮らしのあたしは自力で救急車を呼んだ。
会社には正直に『心筋梗塞』だと報告した。
若くしてこの病気にかかることが稀にあるらしいことも。
それからすぐ、ほんの些細なミスを犯したことを理由に、あたしはクビになった。
荷物を届けるのが指定時間より10分遅れただけのことを大問題扱いされて、あたしは解雇された。
面倒な社員はいらなかったんだと思う。
再就職をめざして、色んな会社の面接を受けた。
ある日突然発作で倒れては迷惑になると思ったので、履歴書には必ず『心筋梗塞を患っております』と書いた。
心臓に爆弾を抱えたやつを雇ってくれる会社はなかった。
いつ死ぬかわからないやつを嫁に貰ってくれる男もいない。
正直者なので嘘もつけない。
実の母親にまで捨てられた。
あたしは、社会的に、死んだ。
慰みの猫すら飼わせてもらえない。
『あたしを籍に入れて』なんて言ってしまったけど、本当はお母さんもそんなの迷惑だろう。
次、発作が起こったら、あたしは薬を飲まない。
生命保険の受取人はもう香織お母さんに変更済みだ。
あたしはもう死んでるのだから、せめて最期に誰かを喜ばせたい。
保険金はたったの200万円だったけど、それでもそれを香織お母さんが受け取ってくれるなら、あたしの命には意味があったことになる。
「お母さん、愛してくれてありがとう」
そう言いながら、死ぬことができる。
自転車を走らせていると、ジャンパーのポケットに入れてるスマホが鳴った。
止まって確認すると、派遣会社からだ。
「……はい?」
『あっ、甲斐谷さん?』
いつもの男の人の声だった。
『ごめんなさい。今日、手違いがありまして……、倉庫のお仕事なくなっちゃったんですよ〜』
ぶーぶー言いながら来た道を戻った。
戻りながら、だんだんと気分が変わって来る。
いつも仕事から帰るとお母さんがご飯を用意して待っていてくれてる。
あたしも料理は得意じゃないっていうか苦手だけど、今日はあたしがご飯を作ってあげよう。
何がいいかな、何がいいかな。
とりあえず、お母さんはまだ部屋にいるはずだった。
急いで、心臓に負担がかからない程度に急いで自転車を漕ぎ、出勤前のお母さんの元へと戻った。
お母さんには仕事がなくなったこと、連絡しなかった。サプライズだ。
そっとアパートの鍵を開け、音を立てずにドアを開けた。
お母さんの声が聞こえる。誰かと電話で話してるようだ。
あたしは笑い声を噛み殺し、そっと靴を脱いで、静かにドアを閉めた。
「うん。元気、元気。心配ないよ」
お母さんの話し声は、いつもの優しい声じゃなく、なんかドライな感じだった。
「トモちゃんいい子だよ。わたしの下手な料理を美味しいって食べてくれてるよ」
あたしの名前を口にすると、いつもの優しい雰囲気に少し戻る。
でも、あたしの名前が会話の中に出るなんて、不思議だった。
あたしは社会的に死んでいて、誰とも繋がりなんてないはずなのに……。
誰と話してるの?
「会社は部下に任せてっから、大丈夫。そこは気にすんな」
会社? 何のことだろう……。
「でもヨリちゃん……。あんた、罪は重いと思うよ」
ヨリちゃん? なんか聞き覚えのある名前……。
ヨリちゃん……依子……。
甲斐谷依子。
あいつの名前。あたしの『元お母さん』……!
「あぁ……。そろそろ会社行かないと。顔だけでも出しとかないとね。一応わたし、社長だし」
どん! と、わざと大きな足音を立てた。
驚いた顔のお母さんが振り返る。
「トモちゃん!?」
あたしは無言で、お母さんの手からスマホを奪い取った。
画面を見ると、通話相手の名前は『㈱ピンクブリーフ』と表示されている。
あたしは電話口に出て、荒い声で言った。
「もしもしあんた? ……グルだったの?」
『智子!』
電話の向こうで、あいつの声がした。
『あのあんた、そのお仕事は? っていうか違うのよ!』
スマホを香織さんのお腹に投げつけた。
足が勝手に駆け出して、何も持たずにアパートから飛び出していた。
「智子!」
後ろから香織ババアの叫び声が聞こえたけど、無視した。
走った。
滅茶苦茶に走った。
わけがわからなかった。
なぜ、『アイオク!』で落札したお母さんが、あいつと繋がってるの?
あたし、最初から騙されてたの?
やっぱりあたしを愛してくれる人は誰もいなかったの!?
走った。
走っちゃいけないのに。
心臓が締めつけられるぐらいに痛んだ。
真正面から死神が鎌を振り上げて、あたしの胸にそれを突き立ててきた。
誰もいなかった。
朝9時台の広い公園には、誰一人としていなかった。
誰かいたとしても、あたしは構わず大声をあげてたと思う。
頓服薬は持っていなかった。
死神の鎌が、胸にぐりぐりと、キリキリと、穴をこじ開けて行く。
真っ暗闇だ。
あたしはたぶん、もう死んでるんだろう。
それなのに、声が聞こえた。
「智子! 智子! 目を開けなさい」
泣き叫んでいるのは、お母さんの声じゃなかった。
昔はお母さんと呼んでいた、あいつの声だ。
「ああ〜……! お母さんを許して! いいえ許さないで! あたし、娘より自分の幸せを選んでしまったの!」
許すわけがない。
どんなに謝ったって。
「ヨリちゃん」
もう一人の『元ニセモノお母さん』の声がした。
「トモちゃんはきっと、あんたを許すわよ」
勝手なこと言わないで。
意味がわからない。
「説明……して」
執念って凄い。
死んでるはずのあたしの口が、動いた。
「どういうことか……説明……してよ」
「智子!」
「トモちゃん!」
二人にも聞こえるらしい。幽霊のあたしの声が。
「落札者の名前を見てね、もしかしたらって思ったの」
香織ババアの声が、言った。
「ヨリちゃんとは高校時代の同級生なのよ。親友だったわ。彼女が最初の結婚をして、二人目の子……つまり、あなたね……を産んだ時、わたしはあなたに会ってるのよ」
口を動かすことはもう出来なかった。
あたしはただ、聞いた。
「可愛かったよ、産まれたばかりの智子」
香織さんが喋り続ける。
「ヨリちゃんに連絡したら、間違いなくあなただって知ったの。それで、あなたのお母さんになれることがね、わたし、嬉しくて。あなたの好きなものとか色々聞いて……」
ああ……。
それでブラックコーヒーのことやチョコレートケーキのこと……。あたしが子供の頃好きだった食べ物も……。
「あなた……保険の受取人をわたしに変更してたのね」
そうだ。
あたしが死んだから、香織さんが200万円を受け取るんだ。
よかった。
香織お母さんは、頼まれてとかじゃなく、心からあたしを娘みたいに愛してくれてたんだ。
ごめんね、香織ババアなんて心で思っちゃって。
あたしの最期の気持ちを受け取ってね。
「バカな子ねぇ」
え?
「わたし、小さいけどゲーム開発会社の社長をやってるの」
え? 男性用下着ショップ店員じゃ……
「あんたの面倒はわたしが見るって決めたから。だから早く起きなさい」
目が開いた。
病院の白い天井が見えた。
「智子!」
実のお母さんに抱きしめられた。
「よかった……よかった……!」
「あたし……死んでないの?」
「香織ちゃんがね、見つけて、救急車を呼んでくれたのよ」
実のお母さんの顔を、久々に間近で見た。みっともないぐらいグショグショだ。
「ごめんね、智子ちゃん。……香織ちゃんから色々聞いたよ。悲しくさせて、寂しくさせて、ごめんね」
わかるものかと思った。
『悲しい』とか『寂しい』とか、そんな簡単な言葉で語られてたまるかと思った。
「新しいお父さんにはあたしから説明するから……ね? もう一度やり直そう。謝るから、あなたの病気のためのお金も出してもらうよう、お父さんに言うから」
実のお母さんはそんなことを言う。
今さら、遅いのに。
でも、あたしが彼女に見捨てられていなかったらしいことはわかった。
彼女は、僅差で、新しい家庭のほうを選択して、あたしを捨てたのだ。
なんだ。
僅差だってだけで、おんなじじゃん。
結局あたし、捨てられたんじゃん。
「智子……?」
あたしが押しのけると、依子ババアは必死に泣いて、すがりついてきた。
「許して! お母さんを許して!」
あたしは心臓がまたバクバクし出して、ようやく小声で言えただけだった。
「……許せないよ」
「ヨリちゃん」
香織さんが、依子ババアに言った。
「キツい言い方するけど……ヨリちゃん、あんたは親の資格を失ったのよ」
泣き崩れる『元母親』の背中をさすりながら、香織さんは今度はあたしに言った。
「トモちゃん、わたしの娘になってくれない?」
びっくりして、アホみたいな顔で香織さんを見てしまった。
「ね、いいでしょ? 依子ちゃん」
泣いている依子ババアの背中を叩きながら、
「わたしに智子を預ければ、あんたも安心なはずよ? 安心して、あんたはあんたの新しい家庭を築いて行けるでしょ?」
香織さんがそう言う。
わあっと喚くと、依子ババアは病室を出て行った。
病室に二人きりになると、香織さんはあたしのベッドの隣に座って来た。
「あなたをわたしの本当の娘にしたいの。なってくれる?」
「なんで……あたしみたいな……出来損ないを?」
「出来損ないじゃないでしょ」
こめかみにキスをしてくれた。
「このわたしが出来損ないなんか愛すると思う?」
「お金……かかるよ?」
ぼろぼろ泣いた。
「あたし……まともな職にもつけないし。病院代、かかるし……」
「わたしの会社で働きなさい。働き次第では次期社長の座も考えるわ」
あたしの肩を、優しく叩く。
「猫も飼えるわよ」
香織さんの胸に抱きついた。
病院なのに、大きな声をあげて泣いた。
泣き出したら止まらなかった。
「虚しかったのよ、わたし、何のためにお金を稼いでるんだろうって……」
香織お母さんがそう言いながら、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「でも、今なら言えるでしょ? 『智子のためだ』って」
あたしのアパートは引き払うことになった。
清々しいこの朝に、荷物をすべてまとめ終えた。
「あとは引越し屋さんを待つだけね」
香織お母さんがパンパンと手を払う。
「そんな顔しなくて大丈夫よ。マンションの部屋は広いから、全部荷物は収まるわ」
あたしはにっこり笑って見せた。
「なんか元気ないね?」
香織お母さんがあたしの顔を覗き込む。
「笑顔が嘘臭い」
「そんなことないよ」
あたしはもっと、にっこり笑って見せた。
「あたし、幸せだよ?」
ぎゅっと腰を抱きしめられた。
まるで恋人みたいに耳元で囁く。
「めちゃめちゃ幸せにしてやるから、覚悟しとけよ?」
泣きそうになったので、顔を隠して玄関のほうへ駆けた。
なんにもなくなった部屋は狭いから、すぐに玄関に辿り着いた。
「あたし、引越し屋さん来ないか、見てくるね!」
そう言いながら、外へ出た。
「ふふ……。子供みたい」
背中に香織お母さんの笑い声が聞こえた。
あたしはそのまま屋上へ昇った。
アパートは5階建て。少し遠くのほうの道路までよく見渡せる。
もうすっかり春だった。煌めくような風が屋上に吹いていて、あたしは思わず笑ってしまった。誰もいないのに、涙を流しながら。
ありがとう。
こんな幸せな気持ちで飛べるなんて、思ってもみなかった。
あたしにはあなたの娘になんてなる資格がない。恩返しができない。
泣かせちゃうのかな。
ごめんね。
でも大丈夫。あたしはまだあなたの子供になってはいないから。
オークションの出品者と落札ってだけの関係だから。
だから、すぐに忘れてね。
あなたに迷惑はかけられない。かけたくないの。
でも、感謝の気持ちだけは伝えたくて、スマホのメモにこんな遺書を書きました。
遺書っぽくないよね。まるで小説みたいだよね、一万五千字超えのこんな文章。
靴を揃えて脱ぎました。
これから飛びます。
ほんとうに、心から
愛してくれて、ありがとう
お母さん




