第103話「私が背負うから、お願い、お願い、お願い」
五十嵐家は絶賛荒れている模様だった。
俺が引いたのは、李王が酒が入ったりニコチンが切れたりしておかしくなっているのではなく、普通にただ単に怒り狂っているだけという最悪さ。
「何オレの妻だってバレてんだ。何オレの子だってバレてんだ。あぁ?」
その怒りは理不尽きわまりない。
というのも、この李王という男、察してはいたが、堂々と不倫をしていたらしい。で、妻子がいることが不倫相手にバレて、フラれてキレている。ガチ目のヤバい男だ。
五十嵐は幼いながらにまだ赤ん坊の弟を飛んでくる酒瓶やらビール缶やらライターやらから守り、そんな五十嵐のことを乙奈さんが庇い、血を流しているという地獄絵図。普通にDV虐待現場で、通報したらこの男は檻の中に入るだろうに、乙奈さんは決して通報しようとしない。
いや、不倫しているのが不倫相手にバレたから妻にキレ散らかすって倫理観の崩壊も甚だしいが? どうかしている……
ちなみに、俺が乙奈さんにぶつけられる酒瓶の前に思わず出たが、やはり酒瓶は俺を通り抜けて乙奈さんに当たった。というか、酒瓶、空じゃなくて普通に中身入ってるので、アルコール臭がすごいことになっている。ビール缶も未開封であるため、当たると鈍い音がして痛そうだ。
「ごめんなさい、李王さん、ごめんなさい」
理不尽に怒られているのに、乙奈さんは謝るばかり。五十嵐は訳がわからず泣き出しそうだが、ずび、と鼻をすすってこらえている。
『ないたら、なぐられる。わたしじゃなくて、おかあさんが。ないちゃだめ、ないちゃだめ』
どうやらこの夢の空間の中でも同調能力は作用するらしく、ちっちゃ五十嵐の声が聞こえた。悲痛すぎて聞いていられないが、耳を塞いだところで、脳内に直接流れ込んでくる声が聞こえなくなることはない。
泣いちゃ駄目ってなんだ。泣いたら殴られるってなんだ。おかしいだろ、なんで、三歳くらいの女の子が、そんなことで我慢しなくちゃならないんだ。
ふつふつと怒りが込み上げてくるが、同時に気づいた。
──五十嵐舞華は、ずっとこんなものを抱えて生きてきたのか。
『まもらないと。おかあさんにいわれた。はやとだけは、まもらないと』
守る。それは俺との初対面を思い出す言葉だ。きっと五十嵐は、ずっと誰かを守って生きてきたから、簡単に「守ってみせる」なんて言っていたんだ。
「ぎあああああああん」
しかし、姉の悲壮な顔の下に抱き抱えられた赤ん坊が泣き出してしまう。五十嵐がびくっと体を跳ねさせた。その背後に怒りというよりもはや憎悪の領域に近い表情をした男が立つ。
「あ……ぁ……」
五十嵐の眦から零れるのは絶望の涙だ。
「赤ん坊は五月蝿くていけねえ」
「ぐあっ」
五十嵐の服の後ろを掴んで赤ん坊を抱えた五十嵐をつまみ上げる李王。襟が首に食い込んで、五十嵐は呼吸がままならず、かひゅ、かひゅ、と不自然な息を吐く。それでも赤ん坊を離そうとしなかった。
李王はそれを冷たい目で見る。木でも枯らすんじゃないかというほど冷たく鋭い風のような目で。
意識を遠退かせながらも、五十嵐は懸命に目を開き、父を睨んだ。
ほう、と感心した風な声を男が上げる。
「オレを睨む度胸があるとは、ご立派ご立派。かわいくねえガキだ」
ずたん、と五十嵐が床に叩きつけられる。赤ん坊が怪我をしないように、自らクッション代わりになったため、五十嵐の体は痛みに痙攣し、五十嵐の口からはともすれば中身が出そうなほどの呼気が零れる。赤ん坊が泣く。
李王は娘と息子を踏みつけた。
「オマエらがいるからオレは不自由するんだよ。せっかく乙奈は都合のいい女でいてくれるのによぉ。なぁ? なんで生まれてきたんだ?」
がっ、と李王が隼人くんごと五十嵐を蹴りつけようとして、五十嵐は凄まじい反応速度で手を割り込ませた。それによって、隼人くんへの衝撃は僅かながらに和らげられたものの、五十嵐の手指が変な方向に曲がる。
「あぁ!?」
激痛に五十嵐の顔が歪む。俺は見ていられなくて思わず目を逸らした。
「やめて……!」
そこで息を切らしながら、乙奈さんが割り込んでくる。李王に抱きついて、乞う。
「私が背負うから、お願い、お願い、お願い」
「乙奈」
俺は信じられないものを見た。
ぼろぼろと涙を流し、許しを乞う乙奈さんの顔をそっと優しく持ち上げて……暴力夫は唇を重ねた。まるでファーストキスであるかのような丁寧さ。先程まで同じ人物に酒瓶を投げ、暴力を振るっていたとは思えない優しさと慈しみの滲む表情に、俺はぞっとした。
五十嵐も唖然としている。理解が及ばないのだろう。高校生である俺ですらさっぱりだ。
「……いいよ、乙奈。わかった、許すよ」
先程まで怒りを滾らせていた男の甘い声が背筋を這う虫のように気持ち悪さを広げていく。五十嵐は頭が疑問符まみれだ。
寝室へと消えていく夫婦。五十嵐は弟がぐずり出したことに慌てて、思考を停止させた。
弟を宥めながら、五十嵐が『おかあさんはすごいな』と思っているのを聞いて、複雑な気持ちになる。
まあ、すごいっちゃすごいけど……怖い話にしか思えないよ、俺には。ただの肉欲の話じゃないか。
李王もそうだが、それと同じくらい、乙奈さんもおかしい。でも、李王よりは罪の意識とか良識はあるのだろう。
五十嵐李王にとって「都合のいい女」を演じていたのではなく、本当に都合のいい女だったのだろうな、と思う。その上顔が好みだったのなら、言うことなしなんだろうな、李王の価値観では。
……まだ、李王が存命だったなら、とふと頭をよぎる。もしかしたら、乙奈さんにそっくりな五十嵐も、李王の餌食になっていたかもしれない。そういう意味で。ここまでぶっ壊れていると、近親相姦とかなんとも思っていないだろうと確信すらできる。
しかも、五十嵐の名前の由来は倉伊の母親だろう? 愛した女に由来する名前をつけて、愛する女と同じ顔をする娘。こんなこと思っちゃいけないのかもしれないけど、死んでいてよかった。五十嵐が変な目に遭う前に死んでいてよかった。
ビデオテープのように早送りされて、時が流れ、流れていく。五十嵐は六歳くらいだろうか。もう今と同じしっかりとした光が目に灯っている。
場所は保育園。隼人くんの手を引いて、保育園に登園しているところだ。周囲は遠巻きにこの姉弟を眺めていた。




