夏の寿命に枯れない花を
沙視点
争いのない時代に生まれた。
私が生まれる以前には妖怪は人間界へ足を運んではいたずらに脅かしたり、気まぐれに襲っていたそうだが、今ではめっきりなくなった。
ほとんどの妖怪は執着を嫌う。自らの欲望を満たすための、一時のみの感情に支配されやすく、それを良しとする。そういうものなのだ。
力が絶対的優位性を示す妖怪の世界で、雪女は脆弱な種族だ。暑さに弱く、一度溶ければ再生がひどく困難で、溶けた状態での移動は不可能。溶けるだけならまだいいが、蒸発してしまえば私たちは死んでしまう。
また、雪女は他種族と群れることを嫌った。数いる妖怪の中でも整った姿かたちで生まれてくる者が多く、自尊心が高いのが特徴で、美しい我が身を愛し冷たい世界でしか生きられないことに優越感さえ感じていた。ただし美しいものにはひどく寛容で、気に入ればどんな手段を使ってでも手に入れようとする面も持ち合わせていた。そして自分が一番美しいと思いつつ、仲間同士の馴れ合いを好んだ。
そんな中生まれた男の私を、雪女たちは遠ざけ否定した。
寒い地域で生きる妖怪は多数いるが、雪女の男性態といえば雪男が挙げられるだろう。雪女は雪男をそれはそれは嫌っている。獣の身を持ち知性や理性の前にすぐ暴力でもって暴れだす短絡的で動物的な雪男たちを、醜悪だと思っている。
雪女たちにとって一番近い男性態への印象がそのようであるから、それがそのまま私へと向けられた。
妖怪は変化を好まないが、雪女も例外ではない。雪女たちの中にある固定概念は簡単には覆らなかったし、誰もその考えがおかしいとは思わなかった。
いつでもいつもひとりだった。しかしどこにいても雪女たちはひそひそ話しながら、私へと視線を向けていた。その状況がひどく煩わしかった。
転機は突然やってきた。そんな毎日が幾年日過ぎた頃、新しい雪女が生まれた。その雪女は生まれてそうそう私へと妖力をぶつけてきた。
見るからに異様で雪女の平均より明らかに強い妖力を保有していた私を、敵だと勘違いしたのだろう。私はとっさに自らの妖力をぶつけて相殺しようとした。しかし軽くぶつけただけのつもりだったそれは、新しく生まれた雪女までも呑み込んで、ひどい重傷を負わせた。
雪女たちはこのことをきっかけに、これまでためこんでいた私への避難をここぞとばかりにぶつけ、嬉々として郷から追放した。
仲間殺しは大罪だ。私は郷を追われたことを嘆くより、新しく生まれた雪女が死ななかったことに大変安堵した。そして、自分自身の力に誰よりも怯えた。
異界から異界へさまよい歩いた先に、いつの間にか人間界へ出てしまっていた。そこで私は太陽というものを初めて目にした。目にして、また己の力に強く怯えた。私の体は全く溶ける様子がなかった。
内包する妖力が強大なため、冷気を自動で身の回りに集めてしまう。垂れ流しになっていても底をしれないほどの妖力。
たどり着いた人間界のどこかの山中で途方に暮れていると、一匹の鬼が現れた。青い短髪をした鋭い眼光の頑強な肉体をした背の高い鬼だった。雪女の郷を出てからたくさんの妖怪を見てきたが、鬼に会ったのは初めてだった。鬼は無表情のまま何も言わない。そこで私はその鬼に向かって言葉を発した。
後から考えてみると、生まれてから初めて喋ったのはこの時だった。
「こ、ろ、し、て・・・」
必死で喉を震わせたのだが、鬼はついと視線を私から外した。聞こえなかったのかと思いもう一度言おうとしたが、その前に一瞬で間合いをつめられ鬼に着物の首元を捕まれ持ち上げられた。片手で軽々と持ち上げられ、宙ぶらりんにされる。
「・・・不愉快だ。鬼が無闇矢鱈と殺生を好むと思っているなら訂正しろ」
妖怪の中でも、鬼は特に残虐で快楽を好み殺戮や破壊衝動を厭わないと聞いていたのに。その鬼は私を持ったまま山中の小屋へ連れ帰った。
鬼は毎日どこかに出かけて行った。特別私に干渉してくることはなかったが、帰ってきては小屋にいる私を一瞥するのだった。
なんとなく小屋に居座って、何をするでもない日々を繰り返していたある日、鬼がどこからか人間の本を拾って帰ってきた。何をするでもない毎日に、人間の本を開いて見つめるという時間ができた。別に読んでいるわけではなく、ただ本を広げていただけなのだが、鬼は私に人間の文字を教えてくれた。ぽつりぽつりと会話をするようになると、今度は力の使い方を教えてくれた。
鬼はとんでもなく強力な妖怪だった。鬼とはこんなにも力の強い一族なのかと尋ねれば、俺などたいしたことはない。女の小鬼にも勝てんからな。と言っていて、飛び跳ねそうになるほど驚愕した。
鬼が山の中へ出かけて何をしているのか、気にはなったが詮索しようとは思わなかった。だが、鬼が私を構いだした辺りから出かける頻度が少なくなっていた。だから、この土地での用事がもうすぐ終わりだということはなんとなく感じていた。
連れて行って欲しい、そう言った。
しかし鬼は、面倒事は御免だとあっさり首を振った。
異端であることが邪魔をする。どうすればいいのいか私は久方ぶりに途方にくれた。そして、ひとつの考えにたどり着く。
妖怪の世界では力が絶対。なら、私が強く利用価値のある存在だと理解してもらえば連れて行ってくれるかもしれない、と。
そこで私は人里に駆け出した。ひどく雪の降る夜だった。そして出会ったのだ。
ひどく脆弱でか弱く非力な人間の子供。・・・六花に。
人間の子供はとにかく感情が豊かだった。嫌悪の目を向けるだけの雪女たちとも、何を考えているのかわからない無表情の鬼とも違う。笑って泣いて、そして抱きついてきた。人間はとても暖かかった。溶けてしまうかと一瞬身構えたが、全くそんなことはなかった。
人間の子供は本を広げて中を見せてきた。鬼が持ってくる本は文字ばかりだったが、そこには美しい色をした絵が描かれていた。花の絵だったのだが、まるでそこに咲いているかのように見えて、無意識に掴もうとしてしまった。
人間は一人ぼっちなのだという。人間の中でもひときわ脆弱なために、一人でいるしかないらしい。強くても弱くても、雪女でも人間でも、他と違うというのはどうにも生きにくいことは同じようだ。
子供は非常に楽しそうだった。私におぶられて何が面白いのかずっと笑いながら喋っていた。背中から暖かな熱を感じた。きっとこの熱にあてられたのだろう。当初の目的も忘れて、背中のそれを離しがたいと思ってしまっていた。
雪が溶けて芽生えた野生の花を見るたび、子供の笑い声が脳裏をちらついた。
鬼がとうとうここを出るという。そして二度と帰ってこないと。
私がぽつり、ありがとうと言うと、鬼はほんの少し目を見開いた。初めて見る無表 情以外の鬼の表情だった。
鬼が去ってから私は人里の方へ何度か足を向けた。途中人間が捨てたのか落としたのかわからないが、本がたくさん落ちていて、私は花の描かれている本だけを手当たり次第に持って帰った。子供が指差した花も拾ってきた本の中にあった。育つ環境や育て方など難しすぎてあまり理解できなかった。他にも花言葉というものがあった。紫のクロッカスの花言葉がなぜだかとても忌まわしかったので、それが書いてあった本は閉じてから二度と開かなかった。
本当になんとなくだった。人間の子供に言った自分の言葉を実行しようとしたわけではなく、本の気まぐれに花と関わってみただけだった。
花は水を遣るのがいいと書かれていたので、とりあえず野花に水を遣ってみた。それでどうこうこういうこともなかったが、そんなことをいろんな種類の花に季節を超えて続けていた。
種類によって差はあれど、花は総じて皆枯れた。思った以上にすぐ枯れた。
気がつけば人間の子供と会った病院に来ていた。あの日連れ帰った子供の部屋を覗いたが、誰もいなかった。
人間の命は短い。なんとも儚く、花のようだ。妖怪は人間と比べて時間の流れが遅く、また寿命も長い。そのため時間にひどく怠慢だ。人間と最後に会った日からどれだけの時間が流れたのか、考えたこともなかった。
ひどく落胆して小屋に戻った。また何もせずなんとなく生きている日々。
溶けない夏を何度か繰り返した頃には、子供のこともあまり思い出さなくなっていた。そんなある日、あの日子供が縛った髪留めがちぎれた。もう使えそうになかったが、なぜだか捨てられなかった。そして唐突に子供の笑い声が頭の中に蘇った。気がつけば病院の前にいて、窓の中を覗いていた。
子供ではなかった。人間は成長し、風貌はだいぶ変わっていたが、紛れもなくそれはあの日の子供なのだと確信した。
胸いっぱいに、あの日おぶった子供と同じ熱が満たされていった。
その日からまた花の水遣りを再開した。それから何度も人間を見に病室に通った。人間はあの日の子供のように感情を表に出さなくなっていた。そして私は、娘がここに居られるのも、もうすぐ終わってしまうことをなんとなくわかっていた。
娘が山の中へ駆け出してきたとき、これが最後で最大の機会だと思った。
娘は、六花は私のことを覚えていなかった。けれど思い出して欲しいと思った。あの日の私を思い出して、今の私を知って欲しかった。
私は六花に言わなければいけなかった。傍にいるために、今回の邂逅だけで終わらせないためには、妖怪である私を六花に知ってもらわなければならなかった。
けれど言えないこともある。
あの日、あの雪の降る夜。
私はあなたを殺めようとしていたんだよ。
言えない罪悪感が恐れに変わり、まともに六花の顔を見られなかったが、六花はそんな私を受け入れた。そして彼女の病室に堂々と通いつめる権利を得たのだ。
たくさんの花を贈った。病室から自由に出られない六花に、このひと時しかもちそうもない六花に、様々な土地の様々な季節の花を送り続けた。
言えるはずもない気持ちを花に託して。
どれだけ辛いリハビリに耐えても、痛い注射を何度も刺されても、強い薬の副作用で髪が抜けても、六花の努力は身を結びそうもない。
なのに、どうして、妖怪である私が人間と結ばれることができるだろうか。
汗ひとつかかない私が、六花の心臓が止まりそうになる度涙を流すのを見て、あの人はいつも仕方ないという顔をして呆れて笑っていた。
「汗一つ流さないのに、涙はボロボロこぼすのね。
そのうち全部流れて、なくなっちゃうんじゃない?」
雪女であるこの身のことを言っているんだとすぐにわかった。その言葉通りになるならどれほどよかったかとも思った。
人間よりもずっと長寿の雪女だが、異端児の私はそれより更に長生きするだろう。
ああ、なんて悲しいことだろう。妖力の量はそのまま妖怪の強さを表す。また、強ければ強いほど長い時間を生きることになる。私の妖力を、地獄を司る妖怪たちと同等かそれ以上だとは鬼は言っていた。
化物のこの力は、六花を救わなかった。人間の体に触れない程度の妖力を少しずつ少しずつ花に込めて送っていた。そのためか六花の寿命はほんの少しだけ伸びたし、命が消える直前までいつものような元気な姿を見せていた。
けれど、愛する人は死んでしまった。
そして私は愛する人がいない世界で生きていかなければいけない。
これはきっと、紫のクロッカスの花なんだろう。
紫のクロッカスの花言葉は、『不幸な恋』
恋だなんて、妖怪が人間に向ける感情でない。それでも私は六花を愛していた。愛しくて愛しくて、言葉にできないほど愛していた人。異端児の私は六花を無理やり攫うことはなかった。私のことを立派だと言ったあの人を、裏切るようなことはしたくなかったしできなかった。
六花の命が潰えた隣で、クロッカスの花が咲いていた。今でも私の首に巻かれている、黄色いマフラーと同じ黄色い色だ。その色が、出会った夜の幼かった愛しい人を思い起こさせた。
『私ね、六花って言うの。六花はね雪の結晶って意味があってね。雪の振るような寒い日でも綺麗な花が咲くから、どんなに辛くてダメだってときも、頑張れば頑張った分だけ花開くものだって意味が込められてるんだよ』
暑い夏の日にどうかまた会いに来て欲しい。
あなたと会うたび、異端のこの身に私は感謝するだろう。
あなたに捧げたい花を咲かせて待っているから。
頑張って頑張っても花開かなかったあなたを、これからも愛し続ける証に、夏が終わっても咲き続ける花を育てようと思うんだ。
終わり
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
難産でした。めっちゃくちゃ薄味ですが、これは恋愛ものなんだと言い張る。